無題(空)
86
楽しく生きるには資格がいる。
その資格は不平等に与えられることだろう。
87
私には、「時野舞白」だった頃の記憶と、「シロ」に成った後の記憶がある。
その二つの記憶は、私が私を語る上で避けることのできない物語を多分に含んでいる。
ひだまり園での生活は、居心地が良いものでありながら、いつ壊れてもおかしくない危うさを同居させながら、私の心を少しずつ溶かしていってくれた。
兄たちは、少し離れたところから見守ってくれた。
姉たちは、私が一人にならないようにそばにいてくれた。
弟たちは、私をいろんなところに連れ回してくれた。
妹たちは、優しくて無邪気なたくさんの笑顔をくれた。
温かかったのだと思う。優しかったのだと思う。
嬉しかったのだと思う。幸せだったのだと思う。
私、「時野舞白」はずっと大事にされていた。
私が私でいられるのは、家族のおかげだと思う。
「クロ」に会って、私の世界は一気に変わった。
殺人鬼である彼と、普通の女の子だった「時野舞白」がどうして行動を共にしているのかというのは、正直わからない。私にとっての彼は家族のような存在でありながら、そうではない気もしている。
でも、私が私でいられなくなりそうだった時に、「クロ」が助けてくれたことは知っている。
記憶も意識も判然としない中で、私が自我を手放しかけたのを繋ぎ止めてくれたのだ。
私と「クロ」は、なんとなく一緒にいるようになっていった。
ひだまり園が完全になくなってしまって、行き場のない私にとっては渡りに船のような存在ではあったが、それが殺人鬼だと聞かされた時は、流石に信じられなかったけれど、彼と暮らしていたあの街や「クロ」の生き様が、信じるしかないのだと私に告げていた。
そういえば、「クロ」に言われたことがあったっけ。
「なあ、あんたはどうして人を殺さずに生きていけるんだ?」
この時、私はどんな顔をしていたのだろう。
確か、この頃は「時野舞白」と「シロ」がぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、不安定な時期だった。
突然感情のコントロールが効かなくなって、何もかもを壊してしまいたい衝動に駆られる私を、何度も制止してくれた「クロ」から、そんなことを言われるとは思っていなかった。
お前は壊したいのではなく、殺したいのだ、と。
殺すことをなんとも思えないくせに、と。
卑怯だろう、そんな生き方なんて俺は知らない、と。
そう言われたような気がした。
きっと「クロ」は、純粋に聞いてきただけなのだろう。
私は、その問いに答えることはできなかった。
今思えば、私は私の中にある感情と向き合うことを避けていたのだと思う。
自分の殺意に気付きたくなかった。
自分の異常性に気付きたくなった。
私は壊れてしまっていた。家族を失ったあの日、私は普通であるっことを辞めたのだと思う。
普通のままでは家族の仇を殺せない、ならば私は喜んで壊れてやる。
あの男を殺せるのなら、幾らでも狂ってやる。
「時野舞白」のまま壊れて、狂って。
「シロ」になって決定的に終わった。
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私は殺したかった。
あの日も、あの日も、あの日も。
私の大切なものを壊す者は、須く殺意の対象になった。
兄が復讐に失敗して死んだ。
兄を殺した男は、彼の父親だった。
兄は、母を殺された恨みを晴らすために父親に会いに行って、殺された。
いつも優しくて、頼りになる兄だった。
よく笑って、よく怒って、私たちを守ってくれていた。
私たちは、もう木旗六道という兄に会うことはできない。
姉も復讐に失敗して死んだ。
その失敗に弟が二人巻き込まれて死んだ。
姉は弟二人と、双子の姉を守ろうとしていたらしい。
それでも、生き残れたのは一人だった。
姉を殺したのは、とある宗教の団員で、姉たちとはなんの因果関係もない女だった。
白塔呑荊棘と冬藁瓦礫、矢火羽響は重なり合うように、守り合うように死んでいたそうだ。
妹が殺された。
ひだまり園にいるところを襲われ、妹は攫われた。
その一ヶ月後、ひだまり園の敷地内で動かなくなっているのを見つけた。
服も身体も、目も当てられないほどにボロボロになっていた。
昨日今日死んだのではないことは、その姿が物語っていた。
所々に蛆が湧いている殻柳潤の身体を、出来るだけ傷付けないように埋めた。
みんな殺されて良い理由なんて一つもないはずだった。
それでも、みんな勝手な人間に殺された。
保身のため、娯楽のため、快楽のため。
私は「時野舞白」であることを封じた。
私は、家族の未来を奪ったものを粛清するために生きていくことを決意した。
ひだまり園が、ひだまり園の全てが私を救ってくれていたのだ。
「誰であっても、私の家族を傷付ける者は許さない。私の全てを懸けて殺してやる」
誰も聞いてはいないだろうが、それでもどこかの誰かに向けて私は言った。
自分の中の黒く重たい感情が、何なのかはわからないけれど、この感情のおかげで自分が保たれていることは何となくわかった。
その名のない感情は、どんどん濁って燻んで、澱み、そして沈んでいく。
言葉にならないほどの強い感情に呑まれそうになる。
ーー殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
私の中にいる何かが、囁く。
今なら、その声に全てを委ねてみるのも悪くないかもしれない。
「見つけたぜ」
誰もいないはずのひだまり園の中庭で、急に声を掛けられた。
振り返っても誰もいない。
しかし、さっきの声は確実に私の後ろから、私に向けて発せられたものだったように思う。
私は息を呑んで、周りを見渡す。
また誰かが、何かを仕掛けてきたのだと思った。
途端に私の感情が爆発しそうになる。
「あ、あ••••••あぁぁああああぁぁ!」
私は何かのトリガーを引いたのだろう。
「舞白ちゃんっ!!」
聞き覚えのある声だった。でもその声はどこか遠くて、微かに懐かしかった。
「舞白ちゃんっ、大丈夫?私のことわかる?梢だよ、落ち着いて!」
このままではいけない。懐かしい声の誰かを傷付けてしまう。
何度も私を助けてくれたその人は、こんな時にでも私のそばにいてくれるのか。
心地良いな。
ありがたいな、本当に。
しかし、一度手放しかけた自我は、そう簡単に制御できそうになかった。
止まることなく溢れてくる何かが、私の意識を抑え込む。
感情に任せて暴れてしまいたくなる。
お願いだから、逃げて。
私が私でなくなる前に、完全に私が消えてなくなる前に。
「ま、舞白ちゃんっ、血が出てるんだよ!ちょっと待ってて!」
声は離れていく。
良かった、これで傷付けなくて済む。
「世話の焼けるヤツだなぁ、俺みたいなお人好しの殺人鬼には、お似合いのシチュエーションってか?くはは」
さっきの声だ。
さっきは私の背後から聞こえたその声は、目の前にあった。
私よりも少し歳上だろうか、大学生くらいに見えるけれど、その本質がそうではないことを直感で悟った。
私の目の前に立つ男の子は、ヘラヘラ笑って一本のナイフを取り出した。
敵意は感じないけれど、これから私に向かってそのナイフを刺しにくるのだろうか。
闘う術はない、喧嘩すらしたことがない私が勝てるような相手ではないのだろう。
しかし、このまま待っていたとして、この場に彼女が戻ってきてしまったらどうなる?
駄目だ。
このまま、相手に委ねるのは良くない。
私は私にできることを全うしよう。
意識が混濁していく中、私はもう一つトリガーを引いた。
「無理だぜ、あんたはまだ産まれたての殺人鬼だ。殺意の濃度は俺にすら匹敵してるけれど、それだけじゃぁ、俺には勝てねぇよ。ましろっつったか?俺と来いよ、殺し方を教えてやる。あんたは俺にとっちゃ家族みたいなもんだ、助けてやるよ」
男の子の言葉は正しかった。
全てを理解できたわけではなかったけれど、私が彼に敵わないことは間違いなかった。
気付いた時には、私の腹部にナイフが深々と刺さっていた。
一瞬で血の気が引いていく。
「安心しな、あんたのことは死なせねぇよ。ただ一度死の淵まで入ってもらうことになるかもしれねぇが、くはは」
直後、私の意識は途切れることになり、その二日後目を覚ました私は、彼に聞いた話を信じるしかなかったので確証があるわけではないのだが、私は死んだことになったらしい。それで幾らか時間稼ぎができるのだそうだ。
何に対しての時間稼ぎか尋ねると、彼は嬉しそうな顔で応えてくれた。
「世界だよ、俺らみたいな殺人鬼には生きにくい世の中だからなぁ。何はともあれ、俺はあんたに会いたかった。全てに絶望し、全てに拒絶されたあんたのような殺人鬼に会いたかった」
「殺人鬼って私のことですか?」
「あ?あんたもそうだし、もちろん俺のことでもある。しかし、あんたを見てるとまだ成りかけって感じだな。ま、いっか。とりあえずこっち側に来ちまった以上、こっち側のルールくらいは知っていた方がいいだろうな。自分のことは追々わかってくるだろ」
「それより、あなたは?それにここはどこなんですか?」
「あー俺の名前か、あんまり名乗ることってのはないんだが。あんたにならいいか、■■■■■、クロでいいぜ。口調も崩していこうぜ、堅苦しいのは苦手なんだよ。そしてここは流塵街、真面な人間は一人もいねぇし、自分の命の補償なんてもんは微塵も存在しねぇ場所だよ。あんたが住んでいた世界の裏側だと思ってくれたらいい、ここでのルールはただ一つ。殺される前に殺せ、だ」
そう言った彼は、どこか寂しそうな目をして空を仰いだ。
彼にも、何か傷があるのだろうか。殺人鬼だと自称した彼には、この世界はどのように見えているのだろうか。
「私はシロでいい、シロがいい。クロが私に何を期待しているのかはわからないけれど、私は私のために前に進まなきゃいけないから。クロと私が同じ性質を持っているのなら、私もクロのようにそれをコントロールできるようになりたい」
「おう、シロな。任せときな、俺が鍛えてやるよ。殺人鬼としての在り方なんかを俺が説くわけにゃいかねぇが、それでもシロの歩きたい道を歩きな。俺が一緒に歩いてやるから」
出会いは最悪だったし、その次目が覚めてからも話が飛躍しすぎて、第三者が聞いていたら私たち二人を見てどんなことを思われるか、怖くなってしまいそうだ。
私にそんな心はもうありそうにないけれど。
それでも当たり前に、さも当然のように、「クロ」の言葉は私に届いた。
信じていいのだと、わかってしまう。
頼っていいということを、知っていたかのように。
「あ、でもあと三日くらいは大人しくしとけよ?加減したし、処置も済ませたとはいえ、腹を刺されたことなかったんだろ?傷の治りが遅え、動けるようになるまでは横になっとけよ。その間に色々聞かせてくれよ、シロのこれまでってのに興味がある」
思えば、確かに腹部に痛みが残っていた。
あの時、自分の腹にナイフが刺さるまで、何が起きたのかわからなかった。
一瞬、「クロ」の存在そのものが希薄になったと思ったら、もう終わっていた。
あれが殺し合いだったら、私は何もできないまま殺されていたのだろう。
そして私たちが今いる場所は、それが日常的にありふれているのだ。
私はこれからどんな道を歩むのだろうか。
「クロ」と出会い、「クロ」と共に生きていく未来に、何を望むのだろうか。
「あー、そういえばあの時あの場にいたお姉さん、シロの身内か?」
「うん、お姉ちゃん。多分こずえ姉だったと思う。こずえ姉はあの後どうなったの?」
「梢、ねえ。因果ってやつかねぇ。心配すんな、しっかり勘違いしてくれてると思うぜ。ただ、しばらく会えないと思っててくれ」
「そっか、でも、うん」
少し面倒臭そうに、頭を掻きながら「クロ」は私から目を逸らした。
私は私のことを知らなければならないのだろう。
殺人鬼というものに、自分がなりかけているという自覚こそまだないが、それでも自分でも扱いきれない感情が蓄積されていることは、なんとなくわかっていた。だからこそ、私の中の感情に名前をつけて見つけてあげることは必要なことなのだろう。
家族に会えなくなってしまうことは少し寂しいけれど、その分強くなろう。
いつかその力で、家族を守れるようになって帰ってこよう。
「時野舞白」としてではなく、「シロ」としてになっても。
その日から一年と少しの時間が経って、私は強くなった。
誰も殺さないままの殺人鬼で在り続けた。
「クロ」は殺人姫なんて恥ずかしい呼び方をするけれど、私は自分が強いことを自覚していた。
相手が誰であれ、殺そうと思えば、おそらく簡単に殺せてしまうほどに。
こずえ姉とひょうか姉の護衛として動くことになることを知った時、心の底から奮い立つのを感じた。
やっと家族のために何かができるのだと。
一年近く、血生臭い世界で、殺されたり殺したりして生きてきた。その経験を家族のために使うことができるというのは喜びだった。
しかし、それは思い上がりだった。
私は、昔から何も成長していないのだろう。
間違ってばかりで、失ってばかりで、見落としてばかりで、いつだって手遅れだった。
目の前でこずえ姉が傷付けられ、目を離した隙にバラバラに殺されていて。
まだ生きている可能性があると言われた今となっても、私の失態は消えない。
「クロ」がここにいたら、こんな事態にはなっていないのだろう。
正義の味方を自称する男と、双子の殺し屋。
そんな三人に囲まれて地下通路を歩いていると、懐かしい気配がした。
まだ他の三人は気付いてない。
気のせいなのかもしれない、少し探ってみようかな。
「おや?誰かこちらに近づいてくるね。シロ君の話の続きを聞きたいところではあるが、ここは一旦目の前のことに集中しようか」
私の中で答えが出るより先に、向こうが動いてしまった。
まだ、待っててほしい。もう少しで繋がる気がする。
微かな違和感に気付けなかった自分を責めたところで、何にもならないのだろうけれど、それでもこれから先の動き方にはかなり違いがあっただろう。
どの道、私は答えに辿り着くことはできなかった。
まだ、影の中に潜んだままの気配は、少しずつ濃くなっていく。
もう間違えることさえできないほどに、私ははっきりとその気配に反応してしまう。
「嘘、なんで••••••」
目の前の現実と、自分の頭の中の事実が歪に混ざり合う。
お願い、••••••もうやめて。
こずえ姉は、もう既にたくさん苦しんできたし、失ってきているのに、まだ彼女の尊厳を踏み躙ろうというのだろうか。
「やあ、舞白ちゃん」
影の中から出てきた彼女は、私の知る白塔梢の姿で、私の知らない誰かが中に入っているかのような気味の悪さをしていた。
思い当たる事象が一つあった。
「クロ」と仕事を請けた際に、一度だけ目にしたことがある。
最悪の仕事だった。内容はとある研究施設の抹消。
そこでは、ありとあらゆる人体実験が行われていた。
人体実験の全てを悪だと言うつもりは、私にはないけれど、娯楽に走ったそれは悪以外の何者でもない。生きた人間に動物の血液を輸血し続けたり、生まれたばかりの子どもの脳みそを他の動物と入れ替えてみたり。
そして、クローン人間の製造。
その施設では、同じ顔をした少女が何人も保管されていた。
もし、目の前の彼女がそれらのどれかに該当するのだとしたら、これ以上の侮辱はない。
気味の悪さや怒り、嫌悪感や焦燥感でうまく呼吸ができないけれど、もうそんなことどうでもいい。
私の家族に何をした、私の家族から何を奪った。
「舞白ちゃん?待ってたよ、無禅様のところに行きたいんだよね?案内してあげる」
こずえ姉の声で、私の知らない誰かは話し続ける。
「だから、そこの三人を殺してよ。私たち姉妹だから言うこと聞いてくれるよね?私のこと裏切ったりしないよね?舞白ちゃん、舞白ちゃん舞白ちゃん舞白ましろ舞白舞白舞白マシロ舞白舞白ちゃぁぁんん!ケラケラケラケラ」
ああ、そうだった。
私たちが殺した、正確には「クロ」が殺してくれたあの子たちも、こうだった。
会話をすることもできず、だた決められたプログラム通りに動こうとすることすら難しい生き物。
そしてすぐに誤作動を起こす、脳がエラーを起こすのだ。
こうなったら、もう殺してあげるしかない。
彼女はもう壊れてしまっていて、その時間はとても苦しいはずなのだ。
私が彼女にしてあげられることは、一瞬で楽にしてあげることだけなのだろう。
それだけの力も技術も、今の私にはあるのだ。
悩むな、迷うな、躊躇うな。
殺せ、殺せ、殺してあげなきゃ。
私は大丈夫。
殺人姫は殺人鬼になる覚悟を決める。




