第3話 邂逅
バイトを終えた冬人は弁当屋を出る前に、ちらりと時計を見る。時刻は午後四時を指していた。店長に「お疲れさまでした」と一言いってから外に出た。
ホワイトライフの犯行声明から一夜明けた今日、冬人はいつも通り、朝の六時半から開店する弁当屋で働いた。普段は夜中まで働き続けるのだが、週に一回、入院している妹の様子を見に行くために早くあがる。
今日が、その日だった。本当だったら寝たきりの妹の世話をしに毎日、見舞いに行きたい。しかし生活費や入院費を稼がなければいけないので、週に一回が限度だった。
フード付きの上着を少し正してから病院に向かう。
秋の暮だけあって、肌に当たる風は氷のように冷たい。歩道の脇に立ち並ぶ木々には、茶色く染まった葉っぱが付いているだけだった。
冬人が信号待ちで止まっていると、となりで話す二人組の女子高生の会話が耳に入って来た。
「昨日のニュース見た? 殺人事件のやつ」
噂話が好きそうな、ふっくらした外見の方がひそひそ声で訊く。細くて顔の整った方が答えた。
「見た見た。私、リアルタイムで見てたよ」
「やばいよね、あれ。東京第0区に住んでなくてよかったって初めて思ったもん」
「そういえば、私の姉の友達の父親が東京第0区で何かやってたらしいんだけど、私、大丈夫かなー」
「遠すぎー。絶対、大丈夫だよ。そんなことより、白髪の子、イケメンだったよね」
信号が青に変わると二人の女子高生は、冬人から遠ざかっていった。
昨日のホワイトタイムが出した犯行声明は地上波で放送されたということもあって、ほとんど全員が知っていた。弁当屋に来ていた人も昼間のニュースも、その話題で持ちきりだった。しかし、十三年前に東京第0区にかかわっている人なんてめったにおらず、自分には関係ない、と危機感は全く感じられない。冬人も、そのうちの一人だ。
病院に到着するまで三十分ほど歩いた。ここら辺では一番大きい病院で、いつ来ても清潔感が保たれている立派な建物だ。広い駐車場を抜けると自動ドアをくぐった。
受付に行くと、優しい笑顔の女性が冬人の顔を見るなり「面会ですね」と手配してくれた。妹に会いにこの病院に来るのも、もう八年目になるのでスタッフはほぼ全員、顔見知りだ。
階段で三階に上がると、妹の病室に進んでいく。病室に入ると目を閉じて眠ったように横たわる妹が目に入った。
腰のあたりまで伸びた、黒い髪。透き通るような白い肌。綺麗に並んでいる長い睫。兄から見ても全てのパーツが作り物のように綺麗だと思う。それと同時に、すぐに壊れてしまう人形のようでもある。
妹の名前は白雪春香。春香が三歳、冬人が六歳の頃に起きた交通事故で何とか一命をとりとめた春香だったが、植物状態になってしまい十年以上、未だに目を覚まさない。担当医によると状態は安定しているが、そろそろ諦めるという選択を取らざるを得ないかもしれないと先日告げられた。
天国にいる両親の代わりに、必ず僕が守って見せる。何としてでも妹を幸せにするのが、たった一人の家族であり兄である自分の責任だ。冬人は春香の安らかな表情を見ながら、心の中でそう呟く。ベットの隣に置かれた丸椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「失礼するわよ」
ノックもせずに病室に入って来たのは、春香の世話を担当している看護師だった。鋭い目つきに出っ張ったお腹が特徴的で、おそらく五十代を越えている、おばさんだ。
看護師は会釈をする冬人をちらりと睨むと、カーテンと窓を開けてから仕事に掛かった。
「あーあ、本当に疲れちゃうわ、身の回りの世話って。ベッドも毎日掃除しなくちゃいけないし、大変大変」
わざと冬人にギリギリ聞こえるくらいの声で不満を口にする。この病院に唯一、文句があるとすれば、この看護師が春香の世話係ということだ。お金を払っているとはいえ、病院には八年間も面倒を見てもらっているので口が裂けても言えないが。
冬人が無視を決め込んでいると、その態度にイラっと来たのか看護師が顔を上げる。
「ちょっと、どきなさいよ。掃除の邪魔になってるって分からないの? これだから頭の悪い若者は嫌いだわ」
「はぁ、すみません」
明らかに掃除の邪魔になるような場所ではなかったが、冬人は一応、謝っておいた。こういうのは反抗せずに適当に流すのが一番いい。
看護師は冬人を睨む。
「あなた、どこの高校? どうせ、大したところじゃないんでしょうけど」
「中卒ですよ。高校にはいかずに働いています」
「やっぱり、そうだと思ったわ。明らかに礼儀がなっていないもの。うちの息子とは大違いだわ」
「そうですね……」
「うちの息子は偏差値70の超名門校に通ってるのよ。成績は常にトップで、いつも周りから羨ましがられてるわ。それに運動神経も抜群。性格も良いし、礼儀正しいし、将来、日本の未来を背負っていくのは間違いわ。同じ高校生でも、こんなに差ができちゃうなんて才能が違いすぎたのね」
おほほほ、と高らかに声を出して看護師は笑った。
なんとなく、その息子も嫌味な人なんだろうな、と冬人は思った。高い学歴を振りかざして、人のことを馬鹿にしているのが目に見える。そんな卑屈な人間が将来の日本を背負ったら、日本の未来は、お先真っ暗だ。
「息子さん、すごいんですね」
冬人は適当に相槌を打って、その場をしのぐ。
「そりゃそうよ。あなたとは住んでる世界が違うのよ」看護師はベットの上の春香を見下ろす。「この子も馬鹿っぽい顔してるわね。生きてても、しょうがないんじゃないかしら」
頭の中でプチッと糸が切れた。自分のことは、いくら馬鹿にされても構わない。息子の自慢だって、いつまででも聞いてやる。ただ、春香のことを悪く言うのは絶対に許せない。
気付いた時には看護師の胸ぐらをつかんでいた。
看護師の太った顔から汗が吹きでる。
「あ、あなた、こんなことをして、ただで済むと思ってるの。院長先生に言いつけるわよ」
看護師の言葉は冬人の耳には届いていなかった。冬人は左手で拳を作る。
こいつを殴ろう。色々と問題になるだろうが、そんなことは後で考えれば済むことだ。冬人は、そう決心した。
その時──「えっ」看護師は何が起こったか分からない、といった顔をした。看護師の顔に鋭く小さい切り傷が突然現れ、一滴の血が流れた。
冬人は後ろを振り向く。そして、目を大きく見開いた。
そこには昨日ニュースで見た白髪の青年が立っていた。
ありがとうございました