第1話 復讐の始まり
「ご来店、ありがとうございました」
注文されたお弁当を渡した白雪冬人は、客の背中に向かってお辞儀する。時刻は夕方、九時三十分。壁にかけられた時計の秒針がやけにうるさく聞こえる店内で、最後の客を見送った。
冬人は小さい店を出ると、OPENと書かれた木製のドアプレートを裏返す。秋の夜風に少し長い前髪を乱されながら、一つ大きい伸びをして店内に戻った。
スタッフルームに戻った冬人は紺色のエプロンを外し、帰る支度を始めた。
「今日もお疲れ様。いつも、ありがとうね」
店長は微笑みながら冬人に言った。今年で七十歳になる店長は、いかにも大阪のおばちゃんという感じのパンチパーマに白い三角巾をつけている。見た目とは裏腹に意外と繊細で、いつも冬人にやさしく接してくれていた。
「いえいえ。こちらこそ、働かせてくれてありがとうございます」
「いいの、いいの。若いのにしっかりしてるのね」
店長は三角巾を外して綺麗に畳むと、奥の部屋に入って行った。
この弁当屋は店長が夫と一緒に経営している個人店だ。近所では実家の味を思い出させてくれると評判になり、意外と繁盛している。一年ほど前、常連客になるほど度々来店していた冬人が、両親を亡くし高校に行かずに働いているということを知った店長は、冬人を雇ってくれたのだ。
正社員のように朝から晩まで働かせてくれる上に、普通のバイトと比べると時給もかなり高い。一人暮らしをするには十分だった。店長たちには感謝してもしきれない。
奥の部屋から出てきた店長は、冬人に弁当の入ったビニール袋を渡した。
「はい、これ。冷めないうちに食べてね」
「そんな、受け取れません。ちゃんとお金払いますよ」
「遠慮なんかしなくていいの。私が好きでやってるんだから」
店長はときどき、店のお弁当を恵んでくれる。別に賞味期限が過ぎているわけでもなく、商品として売れるものを、だ。
冬人は店長のご厚意に甘えることにする。
「それじゃあ、いただきます。明日、感想言いますね」
「あらあら。まずい、なんて言われたらどうしようかしら」
店長は母親のような笑顔を浮かべながら、そう言った。
帰る支度を済ませた冬人は、しっかりとお辞儀をしてから店を出た。店から冬人の住んでいるアパートまでは徒歩で約二十分。点々と続いていく街灯の明かりを辿っていく。
弁当を少しでも冷やさないように早歩きで帰ったからか、二十分足らずでアパートに着いた。アパートは二階建てで八人が住めるようになっている。少し黄ばんだ色をしていて壁も薄く、いわゆるボロアパートだ。しかし、家賃は異常に安く、冬人にとっては最高の物件だった。
冬人は錆びれた階段で二階に上り、一番奥にある自分の部屋に入る。取られるものは何もないが、一応鍵を閉めておく。
無造作に脱いだ服を洗濯機に放り込み、しわがれた黒色の部屋着に身を包んだ。石鹸で手を洗い、清潔にすると冬人は首にかかっている物を外す。
雪の結晶のペンダント。十年前のあの日、お姉さんからもらったペンダントは必ず肌身離さず付けている。オシャレのためとか、高級品だからとかではない。あの日のことが忘れられないからだ。
お姉さんの最後の言葉、「大切な人の心臓を動かすためなら、他人の心臓を握りつぶせる?」。当時の冬人は心の底から真摯に答えた、「もちろん」と。その返答は今でも変わっていない。事故で植物状態に陥ってしまった妹を助けられるなら、他人の命なんか安い物だ。
しかし、その解答を聞いたお姉さんは涙を流した。
嬉し涙でないことは、五歳の子供の目にも明白だった。彼女が何を思い、何を感じていたのかは分からない。それを知るには本人に聞くしかないのだ。
名前くらい聞いておくべきだったなと後悔しながら、お姉さんとの唯一の繋がりであるペンダントを大切に箪笥の中にしまった。
昼食をほとんどとっておらず腹をすかせた冬人は、部屋の中央にある卓袱台に向う。ビニール袋から弁当を取り出すと、「いただきます」と言ってから食べ始めた。
今日の弁当は唐揚げ弁当だ。夜にしては少し多い分量だが、それも店長の気遣いだろう。ほんのり温かい唐揚げとご飯を一緒に口の中に入れる。不景気な世の中にもかかわらず繁盛しているだけあって、頬が落ちそうなほど美味しい。心の中でもう一度、店長に感謝した。
時刻はちょうど午後十時。空になった弁当をごみ箱に捨てて、テレビのリモコンを手に取った。女性アナウンサーが深々とお辞儀をしていて、報道番組が始まるところだった。
「こんばんは。今日も始まりました、報道ナイト。さっそくトピックに参りましょう」
女性アナウンサーは疲れを見せない笑顔で言った。この報道番組は深夜にしては少し軽い雰囲気があって、かなり視聴率が高いらしい。冬人も、よく見る番組の一つだった。
「今日のトピックは、東京第0区。誰もが一度は行ってみたいと思う素敵な場所ですよね。なんと今日は、その東京第0区の発案者であり、内閣総理大臣でもある小夏傑大臣に来ていただきました」
「こんばんは、小夏傑です。今日は、よろしくお願いします」
大臣は人当たりの良い笑顔で頭を下げた。整髪剤でピタッと決められた七三分けをしている大臣は意外と若く、四十代後半でかなりのイケメンだ。優しそうなおじさんというのが第一印象だが、政治における手腕は誰もが認める天才と称されている。
「それでは東京第0区の輝かしい歴史を見ていきましょう」
自分の背よりも高いフリップの前に立った女性アナウンサーは、少し声を高くして言った。
東京第0区とは約十三年前、「日本の未来を担う子供の育成」を目指して作られた特別行政区のことだ。世界的に見て経済が少し落ち込んでしまった日本を立て直すため、小夏傑を筆頭に計画された。
東京二十三区のど真ん中に設立された東京第0区。外周には高さ三メートルの壁が建設され、まるで隔離された別世界のようになっている。そこに住むには、年収5000万を超えている必要があるため、人々から「エリート世界」と呼ばれていた。高所得の人間から多くの税金を集めることができるため、日本だけでなく世界と比べても学校や病院、研究所など最高級の施設が揃っている。つい先日、世界で最も権威のある科学雑誌に、東京第0区に住む二十二歳の学生の論文が掲載されたというのもニュースになったばかりだ。
しかし、黒い噂もよく耳にする。そのほとんどが収入の低下によって東京第0区を追い出された、いわゆる「勝ち組の中の負け組」が言いふらしていることだ。
東京第0区の中では学力・運動能力がすべての世界で、低い者は迫害を受けるとか、自分の権力を高めるためなら平気で汚いことに手を染める腐敗した世界だとか。
また、子供の能力を飛躍的に向上させる怪しい薬が開発され、爆発的に流行したといった噂も昔あったような気がする。
これらの噂が本当か嘘かを確認することはできないが、冬人は直感的に本当だろうと感じていた。そういうこともあって、大臣の笑顔は好きになれない。
「やっぱり東京第0区は本当に凄いですね。日本の未来は明るいです」
女性アナウンサーがフリップに沿って三十分ほど、ながながと東京第0区について話してから、最後に用意されていたかのようなセリフを言った。
冬人は欠伸をしながら腕を組む。そろそろ飽きてきな。卓袱台の上にあるリモコンに手を伸ばした。
その瞬間、番組スタッフが何枚かの原稿を女性アナウンサーに渡した。原稿を目にした彼女は今までに見たことがないほど表情をゆがめる。
「どうかしたんですか?」
異常事態に気付いた大臣が尋ねた。
彼女は声が震えないように必死に答える。
「つい先ほど、東京第0区の一部で集団殺人事件が起こりました。死傷者は約1000人です」
ありがとうございました。