019 不安の雨
「わざわざ出て来る必要もなかったんじゃがな……」
「またまたぁ。私がいなければ、アビス様は死んでましたよ?」
「ケッ、余計なお世話じゃ」
アビスが立ち上がる。
いまだその体からダメージは抜けておらず、エルドラから見れば隙だらけだった。
しかし、彼女は攻め込めない。
フィクスと名乗った謎の男が放つ違和感、それがエルドラの足を止める。
「それにしても、竜の力とは素晴らしい物ですね。私は"どんな攻撃でも防ぐ壁"をイメージして創造したというのに、その壁が大きくひしゃげてましたよ。私のイメージの範囲では強度が足りないということみたいですね」
フィクスはどこか愉快げに笑う。
そんな彼とは反対に、アビスはどこまでも不愉快そうだ。
「そんなことはどうでもよいわ。それより、何故お主がこんなところに出張った」
「取引相手のことは常に視界に収めておきたい質でね。巨大な魔力が動いた際は、念のためこうしてわざわざ足を運ぶことにしているのです」
「ハッ、嘘ばかりの薄っぺらい言葉じゃ。どうせ本体は来ておらぬくせに」
彼女の意味深な言葉を受け、フィクスは今までの笑みを少しだけ薄める。
「ともかく、ここは離脱するべきではないのですか? そこの美しいお嬢さんはまだやる気のようですし」
「……逃がすわけない」
エルドラの両腕が巨大な竜の腕へと戻る。
すべてはディオンを守るため。
ここでエルドラは、本気でアビスの息の根を止めるつもりだった。
「おお、怖い怖い。そう言われましても、アビス様にはここで散ってもらうわけにもいかないのでね」
フィクスは片腕を広げると、自分の前で一振りする。
「"虚構のカーテン"」
次の瞬間、フィクスとアビスを囲うように、漆黒の布が展開する。
鋭く伸びたエルドラの爪が布ごとアビスたちを切り裂こうとするが、その爪が届いた頃には布も、彼らの姿も消えてしまった。
エルドラの爪は空振りし、近くの建物の壁を大きく抉る。
「……ッ!」
悔しげに地面を踏みつけ、エルドラは小さく息を吐いた。
「エルドラ! ディオンが……!」
そんな彼女の背中を、ユキが呼ぶ。
ディオンの体は、まだ心臓が動いていることが不思議な状態だった。
竜の血による生命力か、はたまた別の何かが働いたのか————。
しかしその活動は、今まさに終わりを迎えようとしていた。
「ユキ、回復魔術は使える?」
「一切使えん。幸いポーションはあるが……」
懐から治癒のハイポーションを取り出したユキは、それを一滴残さずディオンへと振りかける。
ポーションがかかった部分の傷は徐々に治っていくが、それが表面だけであるということをユキとエルドラは理解した。
内部に至るダメージまでは、どうしても治らない。
「くそっ……どうすれば」
「————さっさとその子を担ぎなさいな。ウチで面倒見てあげるから」
雨に濡れながら、一人の女が彼女たちの下に近づいてくる。
エルドラはその女性に面識があった。
「ケール……」
「私は回復魔術師兼、魔術薬剤師だ。死んでさえいなけりゃ、私が完璧に治してあげるよ」
「……お願い」
「任せなさいな。————この子には今さっき借りができちゃったからねぇ」
エルドラはユキの支えも借りながらディオンを担ぎ上げ、歩き出したケールの後を追う。
そして彼女が経営している店まで運び込むと、奥の居住スペースにあるベッドへと彼を寝かせた。
「じゃ、さっさと始めようか」
ケールは両手をディオンにかざし、魔力を練り上げる。
「……パーフェクトヒール」
強い緑色の光が、ディオンを包み込む。
パーフェクトヒールは、使用者の魔力をほぼすべて食うことを代償に、対象者の傷を完全に治す。
ディオンの使える回復魔術の限界、エクストラヒールのさらに上を行く魔術である。
「うっ……」
「ディオン⁉」
緑の光がディオンの中に吸い込まれ、やがて消えた。
顔色は悪いものの、彼は規則正しい呼吸を取り戻す。
「ま、これで一命は取り留めたかね」
「いつ目を覚ます?」
「それは坊や次第さ。相当な寝坊助じゃないなら、体力が戻り次第目を覚ますよ」
「そう……ありがとう」
「……さっきも言ったけど、私には坊やに借りがあるからね」
「何の?」
「さっきの戦いで、助けに入れなかった借りさ」
ケールは目を細め、戦いで乱れたディオンの髪を指で整える。
「あの黒い女の魔力で近くにいた人間はほとんど気絶したけど、それなりに場数を踏んだ私はかろうじて耐えることができてね。だけど……あの戦いに飛び込むだけの勇気は、私にはなかったよ」
「それは……責められんな」
自分の身をもって竜の圧力を知ったユキは、顔を伏せる。
竜の力はあまりにも強大。
現役のSランク冒険者がしり込みするようなレベルに、すでに引退した者ではついて行くことなどできやしない。
「それにしても、最後に出てきた男はずいぶんと予想外だったね」
「知ってるの?」
「"虚ろ鴉"。この辺に住んでいる連中なら、一度は聞いたことがあるさ。巨大な秘密結社。実際のところ、巨大なのかどうかは定かじゃないけどねぇ。治安を守る優秀な聖騎士団ですら、まだ尻尾の先すら掴めない。ただ、数々の巨大犯罪に関わっていることは間違いないらしい」
小難しい話は、エルドラには分からない。
彼女が気になる部分は、あの最後に出てきた男。
エルドラが迂闊に飛び込めないほどの人間。いずれにせよ危険人物であることには変わりない。
「……雨、止んだようだね」
ケールが窓の外へ視線を送る。
あれだけ降っていた雨はすっかり収まり、黒く分厚い雲は千切れ、夕焼け空が顔を出していた。
「もう坊やを連れて帰ってもいいよ。一週間は絶対安静だけどね」
「……分かった。言い聞かせておく」
来るときとは違い、今度はユキがディオンを背負う。
そのまま店から出て行こうとする彼女らを、最後にケールが呼び止めた。
「そうだ。坊やが目覚めたら、この店に来るように言っとくれ」
「どうして?」
「回復魔術の使い方。もう少しちゃんと教えてやろうと思ってね」
「そう……分かった」
そうして、エルドラたちは改めてケールの店を後にする。
道中。
ぬかるんだ道を歩く二人は、同時にディオンへと視線を送る。
「エルドラ……実際のところ、アビスの血はディオンにどんな影響を及ぼすんだ?」
「……分からない。何も起きないかもしれないし、何か起きるかもしれない。私も人に血を与えたのは初めてだったから……」
「そうか……」
二人の表情は、ディオンの傷が癒えたとしてもなお暗いままだ。
ディオンは確かに生きている。
明日も、明後日も、その先も変わらずに生きているはずだった。
その未来が脅かされようとしている。
そんな事実が、二人の肩に重くのしかかっていた。
不安の雨は、いまだ止まない。




