018 ケールの過去
「おい!」
エルドラの腕から血がしたたり落ちる。
俺は慌ててその腕に手をかざし、魔術を発動させた。
「ヒール!」
緑色の光が彼女の腕を包み込むと、皮膚が剥がれた際にできた傷は塞がり、鱗も生えてくる。
これで元の状態には戻せたはずだ。
「ふぅ……」
「ありがとう、ディオン」
「信頼してもらえるのはありがたいけど、心臓に悪いから止めてくれ……」
エルドラは一つ頷き、自分で引き剥がした鱗をまとめてケールさんへと差し出す。
「これだけでもいい?」
「……破天荒だね、あんた。でも誠意は見せてもらったよ。あんたのその対価に免じて、今日の会計はタダでいい。次からは毎回鱗一枚で取引だ。いいね?」
「それでいいなら」
ケールさんはエルドラから鱗を受け取ると、液体の入った瓶の中にそれを落とす。
おそらくは状態を保存しておくための液体だろう。
「それとそこの坊や、今のは本当にただのヒール?」
「どういう意味ですか?」
「……いや、何でもないよ。それよりさっさと商品を選びな。治療ポーションも魔力回復ポーションも、何だってあるよ」
俺は彼女の言葉に首を傾げる。
ただのヒールの割には効能がいいことに気づいたのだろうか?
とは言えそこまで常軌を逸したものではなかったはずだが――。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
俺は新しく購入した魔術師のローブの内側に、魔力回復のハイポーションをしまっていく。
動きに支障がない程度となると、多くて十本が限界。
しかしこの十本すべてをハイポーションで埋められるのは、俺からすれば今までにない贅沢だった。
「エルドラはこれを持っててくれ」
「うん、分かった」
エルドラには、治癒のハイポーションを渡しておく。
彼女の方は新しく革のベルトを着けており、そこにいくつか小さなポーチがついていた。
本来は投げナイフなどをしまっておくためのもので、ポーションならしまえたとしても七本ほどが限界。
少なく感じるかもしれないが、これで俺たちは市場価格で最低でも三百万ゴールド以上の品を身に着けていることになる。
そう考えるならば、十分すぎるくらいの装備だ。
「しっかし、まさか下界に竜が下りてくるなんてねぇ。久しぶりに見たよ」
「私以外の竜にあったことがあるの?」
俺たちの視線がケールさんに集まる。
彼女は煙を吐き出すと、懐かしそうに笑みを浮かべた。
「私はこれでも昔冒険者をやっててねぇ。霊峰に挑んだことがあったのさ」
ケールさんは煙管を咥え、一度吸い、一度吐く。
ゆったりと、そのときのことを思いだすかのように。
「——美しいところだった。この世とは思えないような、ダンジョンよりもよっぽど未知で、そして……壊れていた」
「え?」
「壊れていたのさ。あらゆる法則が。慣性が。常識が。私はともかくとして、当時の仲間は一時間と耐えられなかった」
彼女は顔を伏せ、再び煙管の灰を落とす。
「頂上まではあとどれくらいだったのか……おそらく三割も進んでいなかっただろうね。そこで仲間が二人死んだ。毒の雨が、降ったんだ。解毒のポーションは持っていたけど、それじゃ意味がなくてね。私がその場でとっさに調合して、実験台にした自分を含めて三人助けられた。でも二人は、間に合わなかった」
「そんな……」
「すぐに下山しようとしたけど、そのときに一人死んだ。信じられるかい? Sランクの魔物が、見たこともない化物に捕食されてたんだ。そいつと一分半戦って、その一人が食われた。結局生き残れたのは、私とレーナだけだったよ」
「……レーナさんのパーティメンバーだったんですね」
「そうさ。……その化物はかろうじて倒せたけど、もう二人そろって動けなくてね。そんなときに助けてくれたのが、竜だった。だから今日は二回目の竜との対面なのさ」
しんみりとした空気の中、煙管から立ち上る煙だけが揺れる。
何と声をかけていいか分からなかった。
仲間に裏切られた俺と、仲間が死んでしまったケールさん。
失い方には大きな差がある。
エルドラの気持ちは理解できた俺だったが、ケールさんの心中を察することはできない。
「——ま、この話はいいのさ。ずいぶん昔の話だし、冒険者にはよくあること。覚悟がないやつはそもそも冒険者なんてやるなってね」
「そう、ですか」
「あんたらもそうならないために、ちゃんと用意はしておきなよ」
ケールさんは今までの表情とは違い、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
あまりにも彼女の言葉には説得力がありすぎる。
――――ダンジョン探索の前にここに来れてよかった。
「客の情報は誰にも売らない。あんたが竜であることも秘密にしておくさ」
「ありがとう。バレるとディオンに迷惑がかかる」
「そこまでは坊やも言わないだろうけど、気づかれないに越したことはないさ。あ、最後に坊や」
エルドラと会話していたケールさんは、突然俺に煙管の先端を突き付けてきた。
「回復魔術はどこまで使える?」
「エクストラヒールまでなら、何とか」
「ほう、優秀だね。じゃあ解毒は?」
「Bランクのディスポイズンが限界です。ヒール優先で勉強してしまって……」
ディスポイズン――――要は解毒魔術のことだ。
俺が黒の迷宮で噛まれた奈落蜘蛛レベルの毒でギリギリ解毒できる程度の魔術が、Bランクとなる。
「まあそれが回復魔術の基本だからね。あんたは間違ってないさ。でももっとその魔術を伸ばしたいなら、時間あるときに私の所へ来てよ。坊やの回復魔術は面白い」
「面白い?」
「もっと伸びしろがあるってことさ。損はさせないよ? 私はこれでも元Sランク回復魔術師なんだから」
私が坊やをもっと育ててあげるよ――――。
ケールさんは笑いながら、俺にそう告げた。
♦
「ふぅ……」
ディオンたちが店を出て行った後、ケールは一人小さくため息を吐いた。
そして入口へと視線を投げたあと、口を開く。
「さっさと入っておくれ。あんたは有名人なんだから、店先にいられると困るんだよ」
「——はいはい、悪かったな」
店の中に入ってきたのは、レーナ・ヴァーミリオン。
彼女は相変わらずへらへらとした態度で勝手に椅子を引っ張り出してくると、それに腰掛ける。
「その腕、どうしたんだい?」
「これか? ちっと若い世代のやつと揉めてね。そんときにな」
レーナの腕は、布で肩から吊るされていた。
彼女はあっけらかんとした態度であるが、決して軽傷ではないことはケールの目からは明らかである。
ケールは彼女の側まで移動すると、その腕に手をかざした。
「なるほどね、治してほしくて来たわけだ」
「まあそんなとこだ。頼むわ」
ヒール――――。
ケールがそうつぶやけば、レーナの腕を緑色の光が包む。
「ふぅ、楽になったぜ。ありがとな」
「お安い御用さ。それより、面白い連中を送り込んできたもんだね、あんたも」
「だろ? 今のあたしのお気に入りさ」
「ふーん……」
ケールは普段の席に戻り、煙管に火を灯す。
それを吹かしながら、彼女はにやりと笑った。
「私も気に入ったよ。特にあのディオンって坊や。あの子は私の弟子にする。文句ないね?」
「へっ、あたしはあいつらがどこまで行けるか見てみたいだけさ。文句なんかあるわきゃねぇ。お前こそ、回復魔術師同士仲良くやれよ?」
「回復魔術……ねぇ」
「あん? どうした首傾げて」
ケールは棚の引き出しからナイフを取り出すと、突然自分の親指に傷をつけた。
そしてそれをヒールで治す。
「坊やの魔術は、ただの回復魔術じゃなさそうなんだ」
「は? 意味が分からねぇな」
「残念ながら私だって理屈で理解しているわけじゃない。ただ、彼の回復魔術はこれまでの世界の常識を覆す――――そんな気がするのさ」
「……なるほどね。これもお前の大好きな実験ってわけだ」
ケールは何も言わない。
しかしその顔に浮かんだ笑みが、彼女の意をすべて表していた。