表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

番外編 了がCB400に拘る理由(ワケ)

 生まれて物心ついた時から、了はなぜかバイクに憧れた。

 理由はわからないが、まるでその血が求めるがごとく、本能的に求めたのだった。

 特に了が熱狂したのは親戚の叔父が乗るCB1000であった。

 了がCB400を求める理由こそ、四気筒を求める理由こそ、このCB1000に詰まっている。


 CB1000の開発は、何とあのゼファーと同じ時期であった。

 創業者である本田宗一郎は、表向きレース関係の発言ばかりピックアップされるが、実は彼は速さだけを求めたバイクが大嫌いだった。


 何しろ本田宗一郎ことおやっさんは、死ぬ間際に最後に注目したのが、かのスクーター「ジョルノ」である。


 1991年のモーターショー発表前に作られていたジョルノを大変気に入っていたおやっさんは「きっと売れるぞ!」と太鼓判を押したといわれる。


 くしくも販売は彼の亡くなった後であったが、現在も復活して販売が続けられるジョルノは、おやっさんが最後に背中を押したホンダのバイクなのだ。


 おやっさんはナナハンの代名詞、ナナハンというイメージを強烈に作り上げたドリームCB750Fourが実はあまり好きではなかったと言われる。


 当時、国産メーカーはとにかくアメリカで売れるバイクを作ろうと努力していた。

 大型バイク市場はアメリカが主で、アジア市場などあってないようなものだった。

 そんな状況でアメリカで求められたのは速くて壊れなくて安定しているバイク。


 日本メーカーはこの状況に、日本メーカーだけの特権たる手先の起用さを生かした四気筒大排気量バイクを登場させる。


 四気筒エンジンは国産メーカーしか基本的に手を出していないが、ハイパワーを目指すとこれしかないと思われていた。


 それこそがドリームという、まさにホンダの夢の結晶であったが、創業者は「こんな化け物、一体誰が乗るんだ!俺は乗らないぞ!」と否定的な見解を終始示していたのである。


 しかし、開発者のデータ収集やノウハウの蓄積は十分であり、ドリームCB750はアメリカだけではなく日本でも売れた。


 老年期のライダーは、ナナハン、CBというと基本的にこのバイクを想像するものだ。

 それほどまでにこの存在は大きかった。


 その後、CB750は第二世代へと移る。

 CB750F。

 CB1000の1つ前の世代のバイクである。

 

 CB750Fとは、バイクブームを牽引した伝説のバイクといわれる。

 壮年のライダーにCB750というとこっちを想像する。


 どれほどこのバイクが売れたかというと、生産が終了した後の80年代のレーサーレプリカ全盛期の時代に、この車種の登録台数が未だに大型バイクの上位に位置し続け、CB750という名前を大型車の登録台数ランキングから見なくなったのは90年代に入ってからというすさまじさである。


 ただし、その仕様もまたセパレートハンドルやら何やらとレーシーな仕様で、おやっさん自体は気に入っていなかったと言われる。


 おやっさんが求めたバイクは違ったのだ。

 1980年代中盤から後半、世にレーサーレプリカ時代といわれた頃、各社はスペックばかりで乗りにくいバイクを大量に排出し続けていた。

 

 バイクレースなどが注目された影響であったが、カワサキとホンダの二社はこの状況を良しとしていなかった。


 ネット上のコピペからはあまり想像出来ないし、Ninjaのせいで妙なイメージをもたれているが、おやっさんと川崎重工が求めたバイクというのは実はほぼ同じような存在である。


 扱いやすくて、壊れなくて、必要にして十分なパワーで、何よりも安くて、部品が共通化されていて何年も維持できる。


 そんなバイクこそ彼らが作りたいバイクであった。


 川崎はレーサーレプリカ時代、初代Ninjaを作っていた一方で、性能一辺倒な状況に寒気がしていたが、おやっさんもまた同じ心境であったのだ。


 CB1000とは、そんな時期に本田が作り始めたバイクであった。

 CBとはなんぞや?という問いから生まれたバイクである。

 後にBIG-1と呼ばれる計画は、たった一人の設計主任者が生み出した夢のバイクがスタート地点であった。


 入退院を繰り返すようになったおやっさんは、経営者に対してもっと乗っていて楽しいバイクを作れと命じるようになる。


 そんな中でとある設計者は、たった一人でクレイモデルを作り、自分が乗りたいバイクを作っていた。


 これが経営者の目に留まったのだ。

 そしておやっさんもそのバイクについて目にしていた。

 そのクレイモデルのバイクは、とても艶かしいデザインをしていた。

 

 そのバイクは、あくまでその設計者が自分が乗りたいバイク、自分が考えたCBの姿を描き出しただけのものであったが、CBという存在が現在の世から否定されている時期であった当時、経営陣はこのバイクにCBという存在の全てを賭けてみようと考え、ひそかに開発を命じる。


 ただし表向きではなく裏向きで、部品はとにかく共有化されることが命じられた。

 しかしバイクのイメージは難航した。

 CBを開発するにあたり、開発者は皆それぞれのCB像を描いており、それを上手く統合化できなかったのだ。


 そして現在の顧客が求めるCBという姿もボンヤリとしてしまっており、時間だけが経過していった。


 そんな中で、カワサキは同じような思想でもって作り上げたバイクを世に投入する。

 川崎が「これが駄目だったら店を畳む」とまで意気込んで作り上げた存在がゼファーである。

 開発中であったこのバイクことCB1000にも大きく影響した存在である。


 旧世代よりパワーが無かったゼファーは、駆け出しの若者ライダーなどに高く評価され、ネイキッドブームと呼ばれるものを生み出した。


 マガジンの不良漫画の主人公が大体一番最初に乗っているバイクであり、マガジンの不良漫画の主人公=ゼファーの所有者といって過言ではない。


 かのグレートティーチャーすら一番最初に乗っていたのはコレである。

 ゼファーによってネイキッドが再評価されはじめたさなか、ホンダがモーターショーに突然登場させたのがCB1000であった。


 後追い大好きホンダさんと言われる本田技研であったが、ゼファー投入からわずか1年ちょっとのため、明らかに開発はほぼ同時期であったことがわかる。

 (そもそもゼファーとほぼ同時期にCB-1を出しているのだから、CB400ならまだしもCB1000がゼファーの後追いという評価は間違っている)


 おやっさんが最後に褒めたジョルノと時を同じくして、それは世に登場した。

 その艶かしい見た目はすぐさま注目され、そしておやっさんがこの世を去った後、そのバイクは販売された。


 その当時、まだ大型免許は簡単に取れるものではなかった。

 そこで同時に開発され、投入されたのが今日まで生き残っているCB400なのである。

 CB400の開発もまた、1980年代後半から始まっていた。


 そしてこのCB400SFをおやっさんは大変気に入っていた。

 なぜなら、このCB400の先祖にあたるドリームCB400Fourはおやっさんのために作られたバイクだからだ。

 

 気に入らない750が売れる理由を確かめたかったおやっさんは「俺もCB750に乗ろうと思う」といった。


 社員は「無理ですやめてください」と、当然にして制止する。


 その時におやっさんが呟いたのは「だったら俺が乗れるようなバイク、俺が乗りたいバイクを中型で作れ」といって作られたのがドリームCB350Fourであり、そしてそれでは満足できずにさらに開発されたのがドリームCB400Fourであった。


 おやっさんはこのドリームCB400Fourがを大変気に入り、ドリームCB400に乗った写真などが結構残っている。


 その後、失敗作と言われるCB-1の後釜というか、真打ちとして世に送り出されたのがCB400SFなのである。

 CB400SFの開発風景を見たおやっさんは、あの世に持っていくかと冗談交じりに言ったのだが、実は裏でCB400の次世代型も用意しろとコソっと言った張本人である。


 実はおやっさんはCB-1の前身たるCBX400Fをさほど気に入っていなかった。

 非常にカリカリなセッティングで扱いづらく、セパレートハンドルで姿勢が悪く、カウルを取っただけのレーサーレプリカみたいな存在だったからである。


 そんな中でカワサキと同じような考えだったおやっさんは、新たなネイキッドの形を作れと開発陣に命じCB-1を世に送り出すが、CB-1は時代を先取りしすぎていて評価されなかった。


 当時から2000年代中盤までは完全な失敗作といわれたCB-1であるが、現在のネイキッドの設計思想そのものであり、次世代を目指したというCBXよりも、これこそネイキッドの次世代の形ではないかというおやっさんの考えは、30年後に結実することを教えてあげたいと了が思うほどにCB-1は惜しい存在であった。


 だが結局、当時としては30年先の時代を先取りしすぎていたため、CB400SFを作るにあたって参考にされたのはこちらではなく、おやっさんのためだけに作られたドリームCB400Fourであった。


 くしくも、当時の市場はおやっさんが将来を見据えたバイクよりも、おやっさんのために作られたバイクの後継機の方が評価されてしまったのである。


 見た目こそCB1000をやや小ぶりにしたかのような存在だが、そのセッティングや設計思想は1990年代に蘇ったドリームCB400Fourであった。 


 そもそもが、CB400SFのエンジンは大幅に改良が施されただけのドリームCB400Fourのエンジンなのである。


 水冷式になっていたり、見た目はかなり変わっているが、大幅に改良されただけでスーパーカブと同様、今日も改良だけで生き残っている化け物エンジンなのである。


 そんなCB400SFが急ごしらえで開発された裏では、ゼファーという存在があったからで、間違いなく売れる見込みがあったからではあるが、本田宗一郎が乗りたいバイクとはこれだったのだ。


 本田がCB400に異常なまでに強い拘りと誇りを持つのは、これらが大きく影響しているといって過言ではない。


 CB400SFの生産終了は株主が許さないという格言がある。

 これは売れ筋でまだまだ経営を支えるだけの力がCB400にあるというだけではなく、おやっさんに乗って欲しかったCB400であり、そしておやっさん自身も乗ってみたかったCB400だからだ。


 了がCB400に特段拘る理由はここにあった。

 CB1000のタンデムシートに何度も乗せてもらった了は、この叔父にあたる人物にその話を何度も聞かせられていた。


 叔父はCB400ではなくCB1000に乗っていたが、その理由はCB1000もまた、性能一辺倒を否定するバイクであったからである。


 いささかスポーツよりで、後にさらにツアラー向けへと回帰し、CB1300の初代型となるのだが、初代CB1300よりCB1000の方が完成度は高いといわれる。


 ビッグバイクすぎて日本人の体格には合わないが、壊れない、運転しやすい、むちゃくちゃなパワーバンドでない、姿勢がアップハンドルで疲れにくいなど、大排気量にも関わらずおやっさんが求めたる性能に調整されていたのである。


 叔父のようにビッグバイクに憧れる者がまさに求めた存在であり、CBとはなんぞやの問いかけのホンダなりの答えを世に示したものであった。


 叔父はその後もCB1000にある程度まで乗り続けたが、了は幼い頃何度も田舎に帰省し、その度にこのバイクに乗っていた。


 四気筒のエンジンは振動が少なく、その独特の音色は了の心を振るわせた。

 二気筒のバイクにも乗ったことがあるが、振動と音が忌々しく、了にとって満足できるものではなかった。


 周囲にはそれをつまらないと表現する者も多かったが、日本メーカーの夢と努力の結晶たる四気筒マシンには絶対1度は乗っておこうと思ったのだ。


 そんなこんなで了がライダーとして目覚めるのにそう時間はかからず、CB400を手に入れようと心に決めたのは10代に入る前であった。


 ただし、急いで手に入れる必要性はないと思っていたのである。

 2年前に突如として「販売が終わるかもしれない」という噂が出るまでは。


 それまでの了は繋ぎのバイクに乗り、18歳になって大型を取得しつつCB400もどこかのタイミングで乗るかといったところであったが、存在が消えるかもしれないと聞かれたら、いてもたってもいられなくなったのだ。


 中学受験をし、進学校に進んでいたにも関わらず、高校を公立に改めるほどバイトに没頭するようになった原因はCB400であったが、両親は「やりたい夢のために働くのは悪いことではないし、人生で寄り道をしたってまだ挽回できる」と両のワガママを聞いてくれた。


 中学受験自体は大学以降、楽をするためという考えの下、了の判断によって挑戦したものであったので、了は両親に大変迷惑なことをしたと萎縮していたが、両親もまたCB400についての話を何度も聞かされていたので、その件については「むしろ買わないで諦めるより100倍いい」と認めたのである。


 ただしそれには裏があることを了は知らなかった。

 実は了の父親も母親も裏の姿はライダーであったのだが、了はそのことを知らない。


 若いうちに結婚したため、子供に悪影響が出ないようバイクに表向き乗ることは控えていたのだが、父親も母親も元はとてもヤンチャな存在で、そもそも了の母親の年齢はまだ31であった。


 しかし同じような血を持つ了の叔父の存在を制止できず、こうなってしまったのだ。


 三人とも実はホンダ党であったので、彼が400を手に入れると言ったとき、「カワサキやスズキの車種でなくてよかった」と裏でこっそりホッと安心していたことを了は知らない。


 そもそも了は当たり前のように思っていて気づいていないことがある。

 自宅にバイクが駐車できるスペースがあることである。

 その場所は舗装されているが、両親はあえてその場所についてどういう場所かを了には伝えていなかった。


 庭ではなく、水はけが良いように排水溝も作られ、屋根付きのその場所は車が駐車できるほどの広さはなかったが、バイクなら5台ぐらい駐車できる程度のスペースがあった。


 当然これは、息子が大学生あたりになって、もう十分であろうとなった暁には、表向きでも堂々とバイクに乗ろうと両親が思ったためにそういうスペースがある家を購入していたのだが、了は偶然そんなスペースがあるのだと勝手に思っていた。


 両親の思いも知らず、了はCB400に日夜のりふけっていたが、その姿を見た母親は「父親ソックリねー」と温かい目で見守っていたが、


 父親がヤンチャな時期に乗っていた車種が同じBIG-1の系譜で、750が欲しい奴もいるだろうと世に送り出されたCB750であったことすら了には知らないことだった――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ