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ACT・6『グリューネヴァルト』

ACT・6


 それは、おとぎ話のようなものだった。


昔のことだ。

 一人の天才的な画家がいた。彼は描くことが大好きだった。

 気力の充実している時は、それこそ食事もとらず、眠ることもせずに絵を描いていた。

 筆を止めるのは、作品が完成した時か力尽きて倒れてしまった時のどちらか、という異常な執念をもって、彼はキャンバスに向かっていたという。

 その様子は、あたかも己の魂を削り取り、それを絵筆に乗せて一枚の絵の中に塗り込めていくような、鬼気迫るものらしかった。


「画家は、描くためにあるのだ」


 それが、彼の口グセである。そして、珍しく物思いにふけっている時でさえ、

「死ぬまでに、あと何枚描けるのだろうか 」


 そのような事を気にしていたという。

 彼にとっては、描き続ける事こそが生きている意味であるとはっきりとらえているようだった。

 もし、彼から筆を持つ右手を奪ったとしても残った左手で、それももがれたなら、今度は口にくわえて筆を走らせるに違いない。


 描くことは、彼のすべてだった。


 作品が世間に認められ名声を得るとか、高値で売れるようになるとか、そういった事には、彼は全く興味を覚えなかった。その証拠に、彼は作品に自分のサインを残さないのである。


「自分の名を示す必要はない。本当の芸術品とは、そのもの自体が持つ輝きに、万人が心打たれるものなのだ」

 彼はそう主張して、その理想を具現化しようと、何枚も何枚も何枚も描いていったのである。

 と、そうしていくうちに、やがて彼の作品の質が段々と変わっていった。

 その変化を一言で言うなら、彼の目は『闇』を見つめ始めたとでもいうのだろう。

どろどろと、身の内に渦巻く情念を絵の中に塗り込めていく作風は以前からであったが、それが、より執念深くなった気がするのである。

 作品の中に、暗い、影が出て来た。


 折しも、当時はキリスト教会の力が絶大な勢力を誇った時代であった。彼は、その精密な画力を見込まれて、ある時、祭壇画を描くように教会からの依頼を受けた。

 この場合、教会からの依頼というのは、ある意味命令である。


“無名の画家にすぎないお前を、名誉ある聖画を描く仕事に取り立ててやったのだ。ありがたく思い、全力を尽くせ”


 はっきり言葉にはしなくとも、そのような不遜な調子が込められているのだ。彼は、それを教会からの挑戦と受け取った。


 彼は受けて立った。

 そして、画家として最高の作品を仕上げる事で、彼らの挑戦に打ち勝とうとしたのである。


 己の技術に絶大なる自信と誇りを持って、制作に没頭した。

 完成した聖檀画を見て彼は、我ながらいい出来ばえだと、珍しく満足した。

 確かに、彼が全力を注いで描き上げたそれは、大胆で、精緻で、目を見張る迫力に満ちていた。

 しかし、その一部分を担うもの、しかも教会にとって最も重要な意味を持つ部分が、司祭たちの反感を買った。


 主であるイエスの姿


 それが、なんとも酷たらしく表現されていたのだ。


 なるほど、死体として、はりつけにされた姿を極限までリアルに描ききっているその技は素晴らしい。そう、テクニックだけに関して言えば。


 しかし、『主』であるイエスをここまで無残に描く所に、神に対する不敬の念が感じられる、と解釈した者がいたのだ。

 ましてやこれは聖檀画である。神聖なる教会内で、大いなる神を侮辱すること、この時代、それだけでもはや重大な罪であった。

 彼の絵は、認められなかった・・・。


「・・・・・・」


 くやしかった。

 自分の描いた作品は、素晴らしい輝きを放っている。

 ただ、その中に『闇』の、・・・魔の匂いがするからという理由だけで、世間は認めようとはしなかった。


 くやしかった。くやしくてたまらない。たまらないその気持ちをさらにキャンバスに叩きつけていく。くろぐろとしたもの。どろどろとするもの。


 だがその時、生まれて初めて彼の心の中に疑問が湧いたのだ。

“認められないものを、何故描いているのか?”


 それは、氷の刃のように冷たく、己の身を貫いた。


“後に何も残らない無駄な事をし続けて、やがてこの身は朽ちていくのだ。私がこの世に生を受けたのは、無意味であったのだ”


 それは恐るべき想念だった。


 今まで己を支えていたものが、全て崩れ落ちてしまう。どうしようもない脱力感が、彼の全身を包んでいた。


 血の涙を流して慟哭した。

「誰か・・・、誰かいないのか!?」

 明かりも灯さない部屋で、彼は必死で『闇』に吠えた。


「私の絵を判ってくれる者は・・・、私の人生を肯定してくれる者はいないのか!?」

 冷たい『闇』が、血を吐くような彼の叫びを吸い込んでしまう。


「誰かっ!?」

 返事をするものはいない。当然だ、彼はいつも一人なのだから。

 ごとり、と彼は床に両膝をついた。


 急に今までの疲れが出たようであった。闇雲に絵を描いている時には、感じたことなど絶対にないだるさを、全身に感じていた。

 なんだか眠くて、部屋の空気はとても冷たかった。


 右手に握りしめられた筆を見つめる。しかし、もう力が湧いてこないのであった。このまま、眠りについてしまおうと思う。

 ことり、と糸の切れた人形のように床に倒れ込んで、彼は目を閉じた。


 どのくらい、そのままでいただろう。


 ふと、何かの気配を頭上で感じた。

 風だ。不気味な風を頬に感じて、目が覚めたのだ。

 おかしい、と気がついたのは少ししてからだった。

 この部屋は閉め切ってあり、風が入る隙間などないはずなのだ。

 この時になって、初めて彼は何者かが『闇』の中で自分を見つめていることに気づいた。

 うふうふ、と小さい不気味な声で笑っているのである。


「・・・誰だ?」


 思わず聞いていた。

 部屋の外から入ってきた気配はない。それなのに、こいつは椅子に座っており、描きかけの絵を眺めてうっとりしていた。

 やがて、画家の方に向き直る。

 マントをはおり、黒メガネをかけた男であった。大きく曲がった鷲鼻が印象的である。


「残念でしょうねえ」

 暗くて、表情までは良く見えないが、そいつが口を開く。

「あなたの絵のセンスは、人間どもには理解できないでしょうね」

「何・・・?」


 ゆっくりと、彼は身を起こしていった。突然現れたこの男は、何者なのかと思っているのだ。

「でも、私ならあなたの真の力を理解し、評価する事ができるわ、どう?」

「どう、とは?」

 彼はとまどった。

 うふうふ、と侵入者は身をくねらせた。


「アタシのお抱え画家になってくれないかしら?」

 三日月を横にした形に、男の唇がつり上がった。

 その様子から、彼は邪悪な気配を感じ取っていた。


「あ、悪魔か・・・?」

 ごくり、とのどが鳴る。

「悪魔が、この私に絵を描けと依頼しに来たのか?」

 くしゃっ、と彼の表情が崩れた。


「あら、アナタが呼んだのよ。・・・よくお聞き、アタシについてくれば、アナタは永遠に絵を描く事が出来るようにしてあげる。パンも要らず、年もとらず、好きなだけ時間を使えるようにね。アナタは絵の事だけ考えていればいいの、そして作品をアタシに見せて、楽しませてくれればいいわ」


「・・・何が望みだ?」

 画家はかすれた声でつぶやいた。


「望み?」

 男が問い返す。

「別に、アナタはアタシのために、次々と絵を描いてくれればいいのよ。アナタの描く『闇』は素晴らしいわ、それを楽しみ続けたいっていうのじゃ、ダメかしら」


 かっ、と画家は目を見開いた。己の事を認めてくれる者がここにいた。

 たとえそれが『闇』に住む悪魔であとうとも、彼にはかけがえのない愛しい存在に思えた。

 やはり、画家である以上は理解者が必要であり、それが支えとなって新たな創作へのエネルギーになっていくのである。


「私の絵を、望んでくれるのか?」

 震える声で言うと、男はうなずいた。


「永遠に描いていいのか?」

 それにもうなずく。


 画家は覚悟を決めた。


「ならば誓おう。永遠に、あなたのためだけに絵を描き続ける事を・・・」


 ひざまずいて、彼は男の手に口づけした。忠誠の証だった。

 うふうふ、と男は笑った。

「いい子ね、グリューネヴァルト。アタシの名は“狂男爵”、さあ、お前のためにアトリエを用意してあるのよ。行きましょう」


 ばっ、とマントをはね上げ、ひざまずいたグリューネヴァルトの頭の上からすっぽり被せる。

 そのまま、二人の姿は静かに『闇』の中へ溶け込んでいった。


これが、魔界の“コレクター”狂男爵と、“『闇』を見つめる画家”グリューネヴァルトとの出会いだった。


 画家は、悪魔に魂を売り渡してでも、描きつづける事を選んだのであった。


 サンドラールは正しかったのだ。『グリューネヴァルト』は実在し、マティスは全くの別人だ。

 誰が信じえよう、悪魔にさらわれたために生死不明になった画家の事など。そして、理解不能だからこそ、人は納得のいく説明が欲しかったのだ。それゆえ、『マティス・ゴートハルト・ナイトハルト』なる人物を祭り上げ、美術史の上に一般人の頭でも理解しやすいつじつま合わせをしたのだった。


 こうしてグリューネヴァルトは文字通り『闇』の中へ消えていったのである。

 ただ一人、狂男爵という理解者を手に入れて・・・。



 狂男爵が用意したアトリエは、『闇』の中であった。

 しかし、グリューネヴァルトは気にしなかった。キャンバスと、画材と、己さえあれば、描く場所などどこでもよいのだ。

 そして彼は描き始めた。光の届かない、時間すらも流れるのを止めたその『闇』の中で……。


 時間のないその場所では、うず高く積み上げられた作品の山が、彼の業績を証明するものであった。

 『闇』の中に目を凝らせば、彼を中心に描き上げられた絵が、あるものはイーゼルに飾られ、あるものは何十枚も山のように重ねられ、物音一つ立てずに作者を取り囲んでいる。


 その数は、百や二百ではない。


何万枚……いやそれ以上の数えようもない作品群が、恐ろしく広大な墓地に佇む無数の墓標のように、画家の周囲に存在していた。 気の遠くなるような永い間、彼は絵を描いてきたのだ。

 もはや、彼は絵筆を持った魔性のものであった。


 不意に筆の動きが止まった。

 キャンバスの表面を見つめるグリューネヴァルトの目。

 らんらんと妄執に輝き、痩せ細った全身は幽鬼のようであった。 げっそりやつれた顔に、ニタリ、と会心の笑みが浮かぶ。また、一つの作品が仕上がったのだ。

 無心で筆を走らせ、最後の絵の具の一塗り、これを済ませた瞬間は、何千万枚繰り返したとしても、たとえようも無いほどの快感であった。


「ご機嫌ね、マイハニー」

 『闇』の中から声が響きわたった。

 しかし、グリューネヴァルトは別に驚きもしない。このご主人はいつもこうして突然に、『闇』の中を現れるからだ。

 うふうふ、と笑いながら狂男爵が姿を現した。

「また一つ、仕上がったのかしら?」


 こくり、と画家はうなずき、己の主人に仕上がったばかりの作品を示した。

「おう、おう」

 狂男爵が、それを見て目を細める。

「また『闇』に深みが増したわね」

 狂男爵の言葉に、にいい、と物凄い笑みをグリューネヴァルトは浮かべた。

 そして、ぺこりと頭を下げると、もう彼は別のキャンバスを準備し始めている。

 たったそれだけのやりとりで、精根込めた作品のお披露目と、品評は終わりなのだ。

 既に彼の興味は、次に描くものに移っていた。


「ハニー、ちょっと待って頂戴。次のテーマは、もう決まっているの?」

「まだだ、それはキャンバスを準備しながら決める」

 ぎらりと光ったグリューネヴァルトの目に、突然、一人の少女の姿が写った。

 狂男爵がマントの下に隠していたのだ。


 白い帽子に白い服……『闇』の世界に突如出現したその少女は、それまで黒い世界に慣れていた画家の目を眩ませていた。


「ひいいっ!?」

 と思わずグリューネヴァルトは叫んでいた。

 うふうふ、と狂男爵は笑う。


「どうハニー、珍しいでしょう? 次はこれを描いてみない?」

「何だ、この娘は……」

 魔物と化した画家は、その少女の持つ光溢れるイメージを直視しただけで、全身から冷や汗が流れていた。


「この娘は、光に満ちた太陽の季節……『夏』を象徴する精霊よ」

「der Sommer?」


「『闇』を描く天才が、この娘が持つ光のイメージをどう表現するのか、とても興味があるわ」

 クックックッ、と狂男爵は喉の奥で笑う。


 まぶしげに、グリューネヴァルトは白い少女を見つめた。


――――人形のような無表情、何者も写さない虚ろな瞳……。


しかし、彼は気づいていた。空虚な見かけとは裏腹に、その少女の内部には『夏』の持つはつらつとしたエネルギーが渦巻いているのだ。 ごくり、と生つばを飲む。


 『闇』の画家は、既に猛烈な勢いで考えを巡らせていた。

 いかにこの娘を描くか。

 激しく表現するか、落ち着いて描くか、全体はどのようなタッチで、色使いはこう……。

 構想をまとめるのは、いわば闘いのようなものだった。

 素材との真剣勝負である。彼は極度に集中して、少女を見つめ続けた。

 ひとしきり睨み続けて、ついに彼は膝をついてしまった。

 金魚のように口をぱくぱくさせ、呼吸困難になったかのように、胸を鷲掴みにして掻きむしった。

 皮膚に溝がえぐられ、血が滴る。


「どうしたの!?」

 突然の事に、さすがに狂男爵が声をかける。

 肩で息をして、画家はうめいた。


「だめだ、今のままでは私にはこの少女を描ききることはできない……」

 それは、絶望に満ちた敗北宣言であった。

「まあ」

 狂男爵が目を剥いた。

 血の色をした瞳で、グリューネヴァルトは男爵の顔を見上げた。


「絵の具が足りないのだ! 『夏』を表現するのに必要な、基本にして最も重要な色を作るために!」

「そんな……このアトリエで手に入らない絵の具なんてないわ」

 身をくねらせて、狂男爵は悩んだ。


「普通の色ではないのだ。今までどんな画家も作れなかった色を誕生させねばならん! すなわち『夏色』だ! コバルトブルーではだめだ、マリンブルーではだめだ、群青色ではだめだ、水色……だめだ、だめなのだ! もっと根源的で自然な、輝かしい青色の絵の具が必要だ!」

 ぐおおっ! と目をつり上げて、彼は咆哮した。己の腕だけで表現し得ない存在を目の前にして、地団駄を踏んで悔しがっている。

 溺愛している画家の狂乱ぶりを見て、爪を噛んで狂男爵はオロオロしたが、はた、と何かを思い出す。


「そういえば、昔、人間界に住む魔女が、『ほんとうのそらいろ』という究極の青色絵の具を作りだすことに成功したと言う話を聞いたことがあるわ」

 ぎょろりと落ちくぼんだ目で、グリューネヴァルトは狂男爵の顔を見た。

「それは、手に入るのか?」

 しかし、狂男爵は首を振った。


「いいえ、その『そらいろ』はマヌケな弟子が全てこぼしてしまって、もう残ってないらしいの」

「では、せめて作り方は……?」

 すがるように、画家はつぶやいた。


「そうね、ウワサでは、青虫の羽根を原料にしたというんだけど」

「青虫?」

「この娘が『夏』に変身する際に、そばに集まってくる妖精よ。それなら……」

 ニヤリ、と狂男爵は笑った。

「……手に入るわ」


「ならば、それをすぐに手に入れて来い! 私の芸術が見たいのだろう?」

 血が滲むほど強く握りしめた絵筆を、狂男爵に突きつけた。

 闘争心にも似た創作意欲をかき立てられ、両目には青白い炎がちろちろ燃えているようだった。

 本来主人に対してする態度ではないはずだが、その高圧的な物言いにも狂男爵は怒らなかった。

 よほどこの画家の事を気に入っているらしい。

 むしろ、やる気を漲らせた画家を見て、嬉しそうですらある。


「判ったわ、待っててねハニー!」

 うふうふ、と身をくねらせて、べろりと唇を舐め上げた。


 『闇』のアトリエで繰り広げられる、二人の魔物のやりとりの中で、ぽつん、と少女は立ち尽くす。


 無表情な顔、虚ろな目……さらわれたショックが強すぎたのか、

感情とか意志とかいうものが、ますます感じられなくなってしまったようだった。


 人形のようにただ外見を留めるだけの、中身のない存在になりつつある。そんな感じであった・・・。



長い間孤独に耐えて、ようやく『闇』の中から抜け出せたというのに、また同じ『闇』の中に連れ戻されてしまった。

 彼女の瞳には、絶望という名の黒々とした『闇』が写っていた。







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