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ACT・5『魔界ヨリ、客、来ル』

ACT・5


 しばらくの間、沈黙が続いた。

 チョウのかすれるような羽音だけが、森の中に響いている。


「乱丸……」

「何しやがる?」

 真剣な表情で、額に手のひらを押し当ててきた弥生に対し、乱丸はこめかみに青スジを立ててたずねた。


「“何しやがる”じゃないでしょーが、あんた自分が何言ってるのか判ってんの? この迷子が『夏』って……そんな訳ないでしょーが! あんた、夏って季節なのよ、それぐらい小っちゃな子供だって知ってるわよ」

 うんうんと、和美が横であいづちをうつ。が、

 その顔が、すうっと青ざめていった。


 テレパシーによって、和美は目で見えない内面の事まで感じ取ることができてしまう。今も、白い少女から伝わってくるものから、何かを感じたのだ。


「へっ、どうやらお嬢ちゃんには理解できたみてえだな」

 にっと笑みを浮かべて、弥生を横目でにらみつける。

「和美ちゃん……?」

 眉をひそめて、弥生は和美の顔を覗き込んだ。

「弥生さん、乱丸さんの言うとおりかもしれませんよ。……このコ普通の人間じゃないみたい……」

「………」

 黙り込んで、弥生はさささささ、というチョウの羽音を聞いた。

 ごくり、と喉を鳴らす。


「じゃあ、このコは一体何なの」

「だから、『夏』だって言ってるだろ」

 目にしている現実を受け入れられずに混乱している弥生たちに、頭を掻きながら乱丸は説明を始めた。


 まず最初に理解すべきことは、この世の仕組みである。

 全て、物事には表と裏がある。例えばコイン一つにしても、表だけでは存在しえない、表裏があるからこそコインとして成立できるのだ。

 この世にも表と裏がある。それが、いわゆる『こちら側』と『あちら側』なのである。

 判りやすく言えば、異次元というヤツだ。


 『こちら側』を人間界。

 『あちら側』を精霊界とか神仙界とかいわれるものとして、我々はその存在だけは認識していたはずである。ただ、人は自由に行き来することができなかったため、長い年月の中で忘れ去られていってしまったのだろう。次元を越えるには、精神的な特殊能力が必要だったからだ。

 『あちら側』の住人は、こちらの人間よりも少しは行き来が自由にできるようである。それは、こちらの人間が物質文明に依存するあまり、自分の本来持っていた力の幾つかを忘れてしまったのに対し、『あちら側』の住人はあくまでも精神的な存在なので、四次元的な法則に従う次元移動であっても、やり方を知っているためだと言われている。


 それでも出入口は限られている。

 斎木学園とか、この長老の木の周りや、霊山として知られるいくつかの山、外国で言えばバミューダ海域なんかが『あちら側』との境目が薄い代表的な場所だが、そういった所を選んで、次元の壁をすり抜けて来るらしい。

 逆に、『こちら側』から『あちら側』に行ける存在も、限られてはいるものの皆無ではない。昔から、仙人とか魔界などと交流を持った人々の話は世界中に残っている。

 その中には、間違って落っこちてしまったという例もある。いわゆる神隠しというヤツである。


 余談だが、神隠しには子供が多い。

 子供はまだ物質文明に毒されておらず、精神世界に対して抵抗がないため、何かの拍子に次元の隙間をくぐり抜けてしまうのではないだろうか。

 大人であれば、絶対越えられない物として認識している次元の壁も、子供には理解の外であるからだ。


 純粋な心で、目に見えない大いなるものを捉える事。


 それが『あちら側』の存在を理解する第一歩である。


 しかしそれは、現代人が忘れつつあることの一つだといえる。

 いや、忘れつつあるからこそ再認識するべきなのだ。表裏の関係であることから、『こちら側』と『あちら側』が密接に関わっていることは確かなのだから。

『こちら側』で自然破壊をすれば、『あちら側』にも重大な影響があり、また『あちら側』で何か大きなトラブルが起これば、『こちら側』にも何らかの天変地異が発生する。

 我々人間が目にしている以上の事が、実際には巻き起こっているのである。


「アニミズムって知ってるか?」

 不意に乱丸が、弥生と和美に聞く。

「ええと……、確か身の回りのものには、全て霊が住んでいるとかいう思想でしたっけ?」

 和美が記憶の片隅から知識を引っ張りだす。

「そうだ、物知りだなお嬢ちゃん」

 にっ、と笑って乱丸は説明を再開した。


――――アニミズム。


 自然崇拝主義とか言われている思想である。


 つまり、人間には身体を生かしている霊魂があり、同じく動物にも植物にもさらには無生物にも……要するに自然現象一般に霊魂や精霊が作用していると考える思想である。

 古代の人は、皆この思想を信じていた。それが現代では、自然を構成するものは『物質』のみという見方しかしないようになってしまった。


 火が赤々と燃えさかること、木を木として生かすもの、動物を動物たらしめるもの、空を青色に染めるもの、太陽が東から西へ動くこと。それら全てに作用する精霊たちの存在を、意図的に無視しているのである。

 だから、人間は自然界の中で孤立し、孤独な存在になりつつあると言える。


「人は自分で自分の首を締めてるんだ、精霊どもと共存しなけりゃ自然界から逆襲食らったって当然なんだぜ。やつらにとっちゃ死活問題だからなあ」

「精霊……」

 弥生と和美は、おとぎ話に夢中になった幼い頃の目つきに戻っている。ただし、今乱丸が語ったのは、夢物語ではない。


「判ったか? この娘は、いわゆる『夏の化身』だ。まだ疑ってんなら触ってみろよ」

「ん……」

 半信半疑の弥生が、勧められるまま少女の方へ一歩踏み出した。

 すると、目に見えて少女が身を強張らせた。

 途端に、周りのチョウが弥生に向かってまとわりついてくる。


「きゃー! ごめんごめん、何にもしないわよ。きゃー!」

 大声を上げながら、弥生はじたばた逃げ回った。

 その時、


「その娘に、手を出さないで下さい!」

 もがいている所へ声がかけられ、弥生は真っ青になった。

「しゃ、しゃべったあ!」

「落ち着けよ」

 冷静な声で、乱丸がたしなめる。


 すると、長老の木の太い幹の向こう側――――死角になっている部分――――から、夏見がふらりと姿を現した。

「うわあ、で、出たあ!」

 聞いた方がびっくりするような声で、弥生がサイレンのようにわめき散らす。


「驚かせてすみません、でもお願いします、その娘をこれ以上怯えさせないであげて下さい」

 落ち葉の上を音もなく歩き、少女をかばうように間に立つ、片手には黒いスーツケースを持っている。

「いちいち、色々な事に驚くんじゃねえ! アホ!」

 乱丸はしかめっ面で弥生に言い、耳に指を突っ込んだまま夏見の顔を見た。

「よう、早かったなあ」

 そんな乱丸に、夏見は礼儀正しく頭を下げる。


「乱丸さん、ありがとうございました。まさかこんな短時間で彼女を見つけ出していただけるとは……失礼ながら私、あなたの能力を過小評価していたようですね。このとおり、お詫びします」

 そう言って、深く頭を下げる。

 対照的に、乱丸は後ろへふんぞり返っていった。


「いやあ、このオレ様の巨大な実力にかかれば、人探しなんぞ軽いもんよ、わっはっはっ」

 極めて偶然に近かったこの待ち伏せを、乱丸は恥ずかしげもなく『実力』と言ってのけた。

 夏見は木のうろに置いてある箱を、ちらりと見て、


「なるほど、あの箱を使ったのですか……すると、中にはもしかして」

 うっとりと、何かの香りでも楽しむように夏見は目を閉じる。

「……いい思い出です。お嬢さん方のものですか? 『青虫』が引き寄せられてしまったのも、よく判りますよ」

 そしてこの場所も、と夏見は周囲の様子を見回した。


「ああ、しかもこの『長老の木』の周りは『あちら側』との境目が薄くなってるからな、あっちの空気の匂いが、ぷんぷんするはずだぜ」

「現に、私もそこを通り抜けてきた訳ですからね。なるほど、なるほど、『こちら側』に来ている『あちら側』の住人なら、思わず引きつけられてしまう仕掛けです。いいアイディアでしたね」

 そう誉められて、また乱丸は「いや、そんな、はっはっはっ」とふんぞり返る。

 ほ、と夏見、ため息をつき、


「とにかくこれで、彼女も自分の使命を全うすることができます」

「じゃ、オレはもうお役御免だな?」

 ちら、とスーツケースに視線を落として、

「もう、あんたが食らわす罰にびびらずに、マクラを高くして眠れるって訳だ」

 さっきまで安らかに昼寝をしていたクセに、ぬけぬけとほざく。


 夏見はこくりと頷き、愛しげな瞳で少女を見た。

 無表情だが、大きな瞳が夏見を見返している。パートナーであるはずの夏見を前にしても、少女の表情には動きが見られなかった。

「可哀相に、変身を始めようとした所でトラブルに巻き込まれてしまったのですね。あなたのような存在が、『こちら側』でよく今までご無事で……」

 夏見の目には、うっすらと涙がにじんでいた。


「おじさん、このコ口が不自由な上、記憶喪失みたいだけど」

 弥生が聞く。

 目をハンカチで押さえながら、夏見は振り向いた。


「ああ、多分思いがけないショックを受けたことにより、一時的に記憶が飛んでしまったのでしょう、それは『あちら側』へ帰ればすぐ治ると思います。言葉の方は……彼女には、必要がないものなんですよ」

「必要がない?」

 弥生は眉をひそめた。


「『こちら側』の人の感覚では、理解しにくいでしょうか。こんなトラブルが生じなければ、彼女が一生のうちに接する他人は私だけ……しかも変身の瞬間だけちらっと顔を合わせるだけなのですよ。ですから、言葉でもって誰かに意思を伝える必要はないのです。何のために生まれ、やるべき事は何なのかといった事は本能で知っていますしね」

 夏見という、異世界の住人が語る異世界の常識。

 この黒服の紳士と、幻想的な雰囲気をまとってたたずむ白い服の少女。二人の姿を弥生は交互に見比べて、段々頭の中で実感が湧いてきた。

 にやにやしながら、乱丸が言った。


「どうだ弥生、今目の前にある現実が、お前の期待していた『面白い事』ってヤツだぜ?」


 夏見、白い少女、群れ飛ぶ青いチョウたち……。


 それこそ、おとぎ話か神話の中でしか語られないようなものが、今現実のものとして、目の前に存在している。


「感想は?」

 また、乱丸が聞く。

 もごもごと、弥生が口の中で何かつぶやいた。

「あん?」


「……すてきよ」

 目を大きく見開いて、弥生は言った。

「すてきよ、すてきだわ! ジャーナリストとして、あたし、何て体験をしているのかしら? 私たち、本物の精霊を目の前にしているのよ!」

 きゃーっ! と叫んで、隣にいた和美の手を握る。和美の顔も、赤く上気していた。


「あたしたち、『夏』そのものに出会ってしまったんですね!」

 高鳴る心臓を押さえ込むように、拳を胸の前でぎゅっと握りこんだ。きゃあきゃあと、かん高いソプラノで少女二人は騒ぎだした。 慌てて手を振って夏見が鎮める。


「しーっ! すみません、彼女が驚いています。あまりショックを与えると、またパニックを起こしてどこかへ行ってしまうかもしれませんから、静かにして下さい、お願いします」

「あ、ごめんなさい」

 弥生と和美、慌てて手で口を押さえる。

 夏見は三人に、改めて深々と礼をした。


「本当にありがとうございました。後は一刻も早く、彼女を本来いるべき場所に連れていってあげたいと思いますので、これで失礼させていただきます」

「じゃ、その仕事が終わったら、また遊びに来てくださいね」

 何気なく和美が別れのあいさつをすると、夏見は複雑な表情になった。

 和美の肩に、乱丸が手を乗せる。

「お嬢ちゃん、こいつらは『あちら側』の存在だ。これっきり、二度と会うことはねえよ」


「え……?」

 哀しげな顔になって、和美は乱丸を見上げた。

「別れを惜しむより、出会えた事を幸運と受け止めてください」

 夏見が静かに微笑む。


「それじゃ」

 無言の少女を優しく導いて、長老の木の向こう側の死角……『こちら側』と『あちら側』の曖昧な境へ身を滑り込ませようと、一歩足を踏み出して、夏見はちらり、とこちらを見た。


「ん? 忘れモンかよ?」

 そう聞いた乱丸の目が、何かに気づいて不意につり上がった。


「弥生、相沢っ! オレの後ろまで退がれっ!」

「え?」

「何よ、急に大声出して」

「あっ!」


 弥生と和美は見た。こちらをじっと見つめる夏見の口から、一筋の血がこぼれ落ちるのを。


 よく見ると、冗談のように夏見の胸から背中にかけて、細い刃物が突き抜けているのだった。


 一体、何が目の前で起こったのか?


 すると、夏見が足を踏み入れようとした場所……木の向こう側から、ぬっと凶々しいものが姿を現した。


「やれやれ、ようやく見つけることができたわ」

 きんきん響く耳障りな声で、『それ』はつぶやいた。


「まったく、このアタシの手をあんまり煩わせないで頂戴! ここで会ったが百年目、おとなしくコレクションの一部になりなさい」

 大きく折れ曲がったワシのくちばしのような鼻、三日月を横にしたようにぱっくり割れた口、黒メガネに縦ロールのヘアスタイル、黒に近い色をした赤マント……。

 きんきん声でわめく『それ』は、そういう姿をしていた。


 一見、人間に近い恰好だが、身にまとっているオーラが違う。

 こいつも『あちら側』の住人だ。


「何だ、てめえ!?」

 乱丸が吼える。


 突然現れた怪人は、うふうふと気味悪い笑い声を上げて、

「マッド・バロン……」

 と、短く自己紹介をした。


 胸を貫かれたままの夏見が、目を見開く。

「ばかな、いくら『貴族』でも彼女に手を出すことは許されませんよ」

 唇のはしから血を流しつつ、弱々しい声で夏見は言った。

 それを聞いて、うふうふと怪人は身をくねらせる。


「あら、誰が許さないっていうのかしら? アタシたち貴族はね、それぞれ高尚な楽しみを持ってるのよ、これは社交界の常識でね、平民にそれを邪魔する権利はないわ。アタシの場合は美しいものや珍しいものを収集することが趣味ってわけ。で、今回目をつけたのが、この娘なのよ。だって惜しいと思わない? こんなにキレイなものが、あっさり、はかなく、消えていくのを指をくわえて見てるだけなんて……」

 マッドバロン……『狂男爵』と名乗った怪人は、にいい、と唇を吊り上げながら、夏見に突き刺さっているサーベルをぐりっとねじった。苦痛に、夏見が顔を歪める。


「あんたたちはそれが仕事なんだってねえ、カカシのように突っ立って、ただ見てるだけ」

「私の仕事は……彼女を見守ることです」

 命を懸けている仕事を侮辱されて、夏見の目がくわっ、と見開かれる。


「あら、そう」

 興味無さそうに言うと、オカマ言葉を使う怪人は、夏見の胸からサーベルを抜き去った。

 ぶしゅっ、と飛び散る血を見て、和美が悲鳴を上げた。

 よろよろと後ろへ下がり、夏見は少女をかばうようにして立つ。 その少女は、目の前で起こっている事が理解できないのか、無表情のままだった。


「おや、邪魔をするつもり? アタシも荒っぽい真似はしたくないんだけどねえ、美しくないから」

 うふうふと言いながら、狂男爵は指をパチンと鳴らした。すると木の影から、また何かが姿を現した。


「ひ……」

 それを目にした和美が、身を硬直させた。


 のそり、と出てきたのは、虎に良く似たケダモノだったのだ。


『あちら側』の野獣だろうか、血に飢えた光でぎらついた赤い目、ぞろりと伸びたサメのような牙、一本一本が生きているように蠢く体毛、そしてトゲだらけの尾……『こちら側』では見たこともない獣であった。獲物を目の前にして、ヨダレを垂らして猛っている。 愛しげに、狂男爵はその頭を撫でた。


「おう、いい子ねえ……よくお聞き、あの黒服はアタシが欲しいものを手に入れるのを邪魔してるのさ、お前、何とかしてくれないかしら?」

 低い唸り声を上げて、ケダモノはご主人の命令を理解したらしかった。じろり、と夏見を睨み上げる。


 むっと、その全身から生臭い獣臭がただよって来た。


 ぐう、とケダモノの唇がめくれ上がり、太い牙が覗く。その口からとてつもなく長い舌が垂れ下がり、滴るヨダレを舐め上げた。


 喜んでいる。


 こいつは、夏見を殺せる事がうれしくてたまらないらしかった。 文字通り血に飢えた化け物だ。

 その気配が夏見にも伝わったのか、この紳士はものすごい顔つきになっていた。


「私は『夏』を守る者、その使命のためなら命など惜しくはありません」

 戦うつもりのようだ。しかし、武器も持たないのに、こんな巨大な虎もどきを相手にどうするつもりか。

 彼が手にしているのは、いつも離さず持ち歩いているスーツケースだけである。


「やべえ、お前らもっと離れて何かにつかまれ!」

 はっとして、乱丸は弥生と和美に叫んでいた。


「な、何?」

 次々と起こる異世界の出来事に、半ばパニックになりながらも、二人はとっさに近くの木にしがみついた。

 ほとんど同時に、夏見がスーツケースを開く。

 すると、その中からじわりと現れたのは『闇』であった。


「おう……『永遠の牢獄』ね!」

 狂男爵が後退った。夏見のスーツケースから、水の中にこぼした墨汁のように黒々とした『闇』が溢れてくる。


 シャアアアアアアッ!


 ケダモノが吠えた。両目を赤くぎらつかせ、巨体が夏見に向かって踊りかかっていく。


「きゃっ!」

「危ないっ」

 二人の少女が、思わず叫ぶ。

 虎もどきの巨大な前足ならば、夏見の頭ぐらい一撃で粉砕してしまうだろう。

 その瞬間を想像して、彼女らは身を硬直させた。


 しかし、乱丸は見た。巨獣の体が、空中で停止するのを。


 鋭利な爪を振るって身をよじるその巨体をつかみとったのは、何とスーツケースから滲みだす『闇』であった。


 ごおおおっ!


 その得体の知れない束縛から逃れようと、虎もどきはしきりに暴れるが、何せ捕らえているのは『闇』である。いかに鋭い爪や牙でも、役に立たなかった。

 じわりと、意志を持つかのように『闇』がその触手を伸ばし、虎もどきを包んでいく。

 シャーッ、シャーッ、と苦しげに絶叫をあげ続けるケダモノは、そのまま『闇』にからめとられ、あっという間にスーツケースの中に飲み込まれていった。

 ばちん、と音をさせて夏見はカバンを閉じた。


「すげえ」

 乱丸がうめく。


 狂男爵は今のを『永遠の牢獄』と言った。だとすると、ヘタをすれば、自分にかけられていた罰である。その恐ろしい威力に、ぶるぶるっと彼は身を震わせた。

 虎もどきは、あのままどこか別の空間に放り込まれ、二度と帰ってくることはないのだろう。

 唇のはしから血を滴らせながら、夏見はため息をついた。


「見たでしょう、男爵。私はこんな事、本当はしたくないのです。

彼女を守るために仕方なくやっているだけであって……ここで争っても何のメリットもないでしょう? どうか、このまま見逃してもらえないでしょうか?」


 夏見の言葉に、狂男爵は指先で縦ロールの髪をいじりながら、

「判ったわ」

 とつぶやいた。


「判っていただけて幸いです」

 胸を押さえつつ、にこっ、と夏見が笑みを浮かべる。

「では、私たちは急いでますので」

 少女の手を引いて歩きだそうとした夏見の背中に、


「あらやだ、カン違いしないで頂戴。たかがペットを一匹始末したからって少しも怖くなんかないのよ」

 うふうふ、と狂男爵は例の気味悪い笑みを浮かべている。

「まだ、やるつもりですか」

 疲れたような表情で、夏見は振り返りスーツケースを構えた。


「アタシがさっき判ったって言ったのは、その小さなブラックホールじゃ、とてもアタシを倒すことなどできないと確信したのよ。貴族であるアタシには、つよーいボディガードがいるんだ・か・ら」

 そのセリフのとおり、またもやあり得ない世界から姿を現した者がいる。

 黒光りする西洋の甲冑に全身を包んだ、一人の騎士であった。


 右手に幅広の大剣、左手には全身がほとんど隠れてしまいそうな巨大な盾を持っている、重武装の黒騎士であった。


「よく来てくれたわね、アタシのナイト……今回もアタシを助けて頂戴、お前のそのよく切れる剣で、あのくそったれなスーツケースをぶった切るのよ!」

 きんきん声で、狂男爵はわめく。

 巨大な黒騎士は、無言で夏見の方へ向き直った。


「何を連れてきても同じです。このスーツケースの有るかぎり、私は彼女を守り抜きます」

 夏見が再びスーツケースを開いた。

 先ほどと同じ、触れたものを全て飲み込んでしまう『闇』の触手が、じわりと広がっていく。

 がちゃり、と重々しい金属音をさせて、黒騎士が身構える。


 前に突き出した盾といわず、身体といわず、『闇』がからみついていく。つかみどころが無いクセに、しっかり獲物を捕らえて離さない『闇』が。


 虎もどきの二の舞だ、この触手からは逃れようがない。成す術もなく、すぐにまたスーツケースに引きずり込まれてしまうだろう。 そう、思われた。


 しかし、今度は違った。

 黒騎士が右手の剣を振るったのだ。ぶ厚い刃は、切るというよりも殴りつける武器のイメージを与えるが、何とその一振りで見事に『闇』が断ち切られていた。

 するりと、黒騎士は『闇』の呪縛から逃れていた。


「ばかな!」

 驚きに、夏見が叫ぶ。

 その間に、黒い突風と化して黒騎士が彼に駆け寄っていた。

「うぬ」

 スーツケースを振って、『闇』を撒き散らかす。バケツで墨をぶちまけたに等しかったが、その攻撃も黒騎士の剣に切り裂かれていた。

 巨体からは信じがたいスピードで動き、あっと言う間に夏見の頭上に大剣を振り上げている。

 夏見の目が見開かれ、自分の頭部に巨大な刃が降ってくるのを見ていた。


「危ない!」

 間一髪、助けに飛び込んできた弥生の木刀が、剣を振り下ろす黒騎士の手首を下からすくい上げる。

 倒れてくる電柱を受け止めたのに等しい衝撃だった。

 がつん、と音をたてて木刀は弾かれてしまった。しかし、その隙に乱丸が夏見の身体を抱えて、横っ飛びに逃げだしていた。


 空を切った刃が、半ばまで地面にめりこんでいる。


 痺れる手首を押さえて、弥生も慌てて遠くへ飛びすさっていた。 彼女は直感した。

 このヨロイ男は、今まで相手にしてきたどんな敵とも桁が違う。魔界から来た化け物なのだということを。

 黒騎士は、剣を地面から抜きとり、無言で構え直した。

 黒光りする甲冑に包まれた全身から伝わる、凄まじいまでのプレッシャー。

 正面に立つだけで、実際に圧力を感じる程である。


「あらあら、よく逃げたわね。でもムダよ、ホラ」

 うふうふ、と狂男爵が尖った爪の生えた指で夏見を指し示す。

 その手に握られたスーツケースがぱっくり割れ、じわじわ『闇』が滲み出てきている。


「うわ、やべえっ!」

 乱丸が青くなった。

「おい、夏見ィ! 中身がこぼれてやがるぜ、何とかしろよ!」

 胸から血を流して苦しんでいる夏見を、お構いなしにがくがく揺さぶる。


「ばか、何てことするの!」

 それを見て弥生が叫ぶ。


「うるせえ、さっきの虎もどきみてえに、ここいらのモン全て飲み込まれちまうぞ!」

 じわじわ、アメーバのように『闇』は広がりつつある。

「困りました、ケースが壊れることなんてあり得ませんので、私にもどうしたらいいのか……」

 それほどまでに、黒騎士の剣技が凄まじかったという事なのだろうが、とてもそんな事に感心している場合ではない。


 足元の草や石ころを取り込み始めたので、乱丸は夏見の手から、スーツケースを蹴り飛ばした。


 黒騎士を飛び越え、狂男爵の頭上へ。


 いちかばちか、こぼれだした『闇』の中に、狂男爵を飲み込ませようと企んだのだ。

 親玉さえなんとかすれば、こういうケンカは勝ったも同然だ。凄まじい戦闘能力を黒騎士が持っていたとしても、所詮手下にすぎない。


「くらえ!」

「ぎええっ!」

 面食らって、狂男爵が悲鳴を上げる。やったか?

 乱丸は牙を剥いた。


「ダメだ」

 狂男爵もまた、魔界の化け物であったのだ。

 ブフウ、と唇をすぼめて息を吹きつけると、それが突風になり、ケースをはじき飛ばしてしまったのだ。

 ごろんと地面に落ち、また『闇』を吐き出し続ける。


「イヤねえ、荒っぽいマネは嫌いだって言ったでしょ?」

 くねくねと身を揺らし、邪悪に笑った。

「それにしても手間をかけさせてくれるわねえ、もういい加減、ケリをつけましょうよ」

 頼みの綱のスーツケースを無くし、歯がみする夏見と乱丸に、再度黒騎士が襲いかかる。

 夏見を抱えている乱丸は、身をかわすのが精一杯だった。


「ちいいっ」

 その間に、狂男爵が『夏』の首に手をかけるのを目にしても、とても助けにいく状況ではなかった。


「待ちなさい、その娘から手を放しなさい」

 強引に乱丸の腕の中から脱出し、夏見は駆け寄ろうとしたので、その無防備な背中に黒騎士の大剣が振り下ろされる。

 ざっくり断ち割られるその寸前、


「やめて!」

 和美が叫んでいた。その髪が青い光を放ち、強力なサイコキネシスによって黒騎士の巨体をはじき飛ばす。


 がしゃがしゃあんなどと、すごい音をさせて黒騎士はひっくり返っていた。


 かつて、学園を襲った戦車すら叩き潰した和美の超能力である。いくら魔界の化け物とはいえ、立ち上がれまい。

 これには、狂男爵も素直に驚いたようだった。


「アタシのナイトを吹っ飛ばすなんて……『こちら側』にも、まだそんな力を使う者がいるのねえ」

 面白そうに、和美の顔をじろじろながめる。

 特に、ESPを使う時に輝く、彼女の青い髪の毛を。


「キレイね……」

 べろり、と尖った舌で唇を舐めあげた。


「でも、まあいいわ、今回はこの娘が目的だったしね。これでまた一つ、素晴らしい品がコレクションに加わるわ」

「ま、待ってください!」

 夏見が叫ぶ。すでに狂男爵は捕らえた少女とともに、輪郭が曖昧になっていた。


「安心しなさい、別に彼女を殺そうというのではないのよ。ただ、この美しさを『保存』するだけ。……素晴らしいことじゃない? 朽ちる事のない、永遠の美を彼女は手に入れる事になるのだから」

 うふ、うふ、うふ、という気色の悪い笑い声を残して、狂男爵の姿は消えてしまった。

『夏』はその間、遂に抵抗もせず、助けも求めず、無表情のまま人形のようにさらわれてしまったのだった。


『あちら側』へ。


「うわあああああああっ!」

 その分、夏見が叫び声をあげた。


『夏』を見守るべき自分が、成す術もなく目の前でさらわれてしまったのだ。悔やんでも悔やみきれなかった。

 黒騎士に向き直る。


「おのれえっ!」

 なりふり構わず、素手で殴りかかっていく。

 和美のESPで、まだ寝ころがっている黒騎士に対して、拳を振り上げる。

 がん! と一発殴っただけで、拳の皮がめくれ血が滲んだ。


「生きてるだけじゃ、ダメなんだ!」

 かまわず殴る。殴りつづける。


「永遠に生きたって、自分の成すべき事を果たさなければ、空っぽじゃないですか。その生には価値がないじゃないですか、輝きもないじゃないですか」

 素手で殴られても、黒騎士は少しも効いていない。こびりついた赤い血は、全て夏見のものだ。


「生まれたことが報われるように、命を輝かすことができるのは、自分自身の力だけなのに……ようやく手に入れたたった一度しかないチャンスを、あなた達は彼女から奪おうというのですか!」

 殴り疲れて、夏見が大きく息をついた時、物凄いパワーで黒騎士は立ち上がった。


「ぐっ」

 はずみで、夏見は地面に叩きつけられる。

 黒縁メガネが外れて転がったので、拾おうとしたその瞬間、

 背中から地面まで、大剣が一気に夏見を貫いていた。


 ごぼっ、と口から血を吐き、夏見は白目を剥いた。


「バカヤロウッ!」

 鬼のような表情で、乱丸が逆上した。黒騎士に突進していく。

「死にやがれ!」

 叫んだ乱丸の掌が、甲冑の腹の部分に吸いついた。


『神威』だ!


 フン!


 手加減抜きの、全身全霊を込めた必殺の一撃を放っていた。

 たとえ牛であっても、この一発で即死させる力を持っている程の爆発力であった。

 黒騎士の動きが、ぴたりと止まる。


「やった!」

 弥生が歓声をあげた。この技のすごさは、良く知っている。


しかし――――、

 黒騎士は倒れもせずに、夏見に突き刺した剣を放して、そのまま乱丸の横っツラを殴り飛ばした。

 その桁外れのパワーに、乱丸の身体はトラックにでもはねられたように吹き飛び、長老の木にぶち当たって、根元に崩れ落ちた。


「乱丸!」

「乱丸さん!」

 弥生たちは固まってしまった。


 もう、どうにもできない。この魔界の騎士には、どんな攻撃も通用しないのだ。

 黒騎士は、夏見の背中を貫いた剣を抜いて、ゆっくり弥生と和美に向き直った。

「ひ……」

 蛇ににらまれたカエルのようであった。


 これが、魔界の使者の力というものなのだろうか。

 しかも、足元にはこぼれた『闇』が、だいぶその量を増してきているのに気づいた。

 これも大問題だ。このままこぼれ続けたら、どうなってしまうのだろうか。

 それを想像し、ぞっ、と身を震わせた時――――、


「二人とも、大丈夫ですか?」

 落ち着いた声が、どこからか聞こえてきた。

 はっとして、弥生と和美は顔を上げる。

「京平!」

 美しい顔をした魔法使いが、そこに立っていた。


       ☆       ☆       ☆


 端正な顔をしかめて、京平はその場を見回した。


 血を流す夏見。

 木の根元でのびている乱丸。

 怯えた弥生と和美。

 無言で、ぬうっと立つ黒騎士。

 そして、こうしている間にもスーツケースからじわじわ滲み出てくる『闇』。


「ひどい有り様ですね」

「……来たのかよ、京平」

 その時、うーんと呻いて、頭を振りながら乱丸が意識を取り戻した。


「ええ、あなた方だけで何とかできると思って、手を出すつもりは無かったのですけどね、爵位を持つ『あちら側』の住人が相手ではちょっと分が悪いでしょう」

 言いながら、京平はポケットからハンカチを取り出した。


「特別に、ボクの力を貸してあげますよ」

 ひら、とハンカチを振ると、何も無かった空間に忽然と白銀の光を放つ剣が現れた。

 それを右手で握り、左手は腰に当てて、京平は優雅なフェンシングの構えをとった。

 すっ、と鋭い切っ先を、黒騎士の喉元に向ける。

「生徒会長として、我が学園の生徒が傷つけられるのを黙って見ている訳にはいきませんしね」

 細められた彼の瞳に、魔性の光が宿る。

 それに反応したのか、黒騎士も金属をきしらせる音をたてながら身構えた。


「いけえ、京平! やっちまえ」

 座り込んだまま乱丸がかけ声をかける。

 それを合図に、黒騎士の大剣がうなった。

 でかい岩の塊も、あっさり真っ二つにできそうなパワーを秘めた一撃が、京平の真上から降ってくる。

 対する京平の剣は、まるでつまようじのように頼り無く思えた。


「あっ!」


 しかし、二人が交差した瞬間、弥生は思わず声をあげていた。

 京平のか細い剣が、見事に大剣の攻撃をさばいたのだ。

 キン! と、耳が痛くなる程高い音がして、京平の刃は黒騎士の脇腹を切り裂いていた。

 それを見て、今度は和美が声をあげる。


「あれ? 空っぽ……」

 何と、黒騎士の甲冑の隙間からは、何も見えない、がらんどうだったのだ。

 ぱちり、と乱丸が指を鳴らす。


「なるほど、おかしいと思ったぜ。いくら重装備してても神威が通り抜けねえはずがねえからな」

『神威』は内部に衝撃を与える技だ、しかし、肝心の中身がなければ通じるはずもない。


「愚かなマリオネット……お前の主人は家に帰ったのですよ。君も一緒に帰ったらいかがですか?」

 京平が、白銀のきらめきをたたえた切っ先を黒騎士に向けると、何か感じるものがあったのか、じりじりと後退った。


「あ、待て京平、そいつを逃がすな!」

 慌てて黒騎士の後を追おうとした乱丸だったが、たたらを踏んで立ち止まった。

「わわっ」

 黒騎士と彼らの間に、スーツケースからこぼれた『闇』が充満しているのである。


「やべえ……手がつけられねえぞ」

 青くなって乱丸は飛びすさった。大量の『闇』が、そこら中を這いずり始め、地面の草や石っころを取り込みつつあるのだ。


 乱丸は弥生と和美の方を、真剣な表情で見た。


「こういう言葉を知ってるか?」

「何よ?」

「“後は野となれ山となれ”」

「はったおすわよ、このバカ!」

 きいっ、と弥生が目をつり上げる。


「そんな事言ってる場合じゃないですよっ、夏見さんが!」

「あっ、いけない!」

 見ると、地面に倒れている夏見の全身が、『闇』に取り込まれそうだ。


「くそっ……ととっ」

 夏見の側まで一足飛びに乱丸がジャンプしたが、抱え上げる寸前足の裏がずぶりと沈み込んだ。

 見ると、『闇』がタールのように足首までからんできていた。

 引いても、抜けない。


「うわわわわっ、京平! 助けてくれえ!」

 乱丸が情けない悲鳴を上げると、京平はカッ、と目を見開いて剣を足元に突き刺した。

 そして、両手の掌を胸の前で向かい合わせ、何事か異国の言葉をつぶやき始める。


「フセルニ、アルタス、ロニシュ、ダミシュ……」


 低い低い声で詠唱されるそれは、魔法の呪文のようであった。

 一度目を閉じ、そして再びその目が開かれた時、両目は紅に染まっていた。


「……アドニエル、バリエル!」

 京平は呪文を唱え終えると、地面に刺した剣を抜き、横殴りに一振りした。

 すると、


 ごお! とうなりを上げて、一陣の風が渦を巻いた。


 小さく悲鳴を上げて、和美が髪とスカートを押さえる。

 見よ! その風によって、全てを飲み込む『闇』が、霧のように散り散りになり、薄れていってしまったではないか。

 それを確認して、京平はハンカチを空へ投げた。


 ふわり、と意志があるかのように宙を舞い、それはスーツケースに被さって、これ以上物騒な『闇』を吐き出すのを封じ込めた。


「ふええ、ヤバかったなあ」

 夏見を抱えたまま、乱丸が大きくため息をつく。

「もう少しで、取り込まれちまうところだったぜ」

 ジーンズの膝のところまで、黒い染みがついていた。手で払うとぱらぱらと『闇』の残りカスがはげ落ち、消えていく。


「ちょっと、あんたはどっちでもいいけど、その人は大丈夫?」

 弥生が聞いた。

「何て言い方しやがる。それに、このおっさん二度も剣で刺されたんだぞ、大丈夫な訳ねえだろうが」

 ぐわっ、と乱丸牙を剥く。と、腕の中の夏見が、「うーん」と唸った。まだ、生きてる!


「乱丸君、『あちら側』の住人は精神生命体です、物理的に肉体を傷つけても、なかなか死にはしませんよ」

 乱れた前髪を指で整えながら、京平が説明する。

「そうか、じゃ、このおっさん助かるんだな?」

 言うなり、乱丸は夏見の身体を地面へ放り投げた。


「……ッ!」


「ばばばか! なんて事するのよケガ人に!」

 弥生が目を見開く。


「うるせえ、男なんかいつまでも抱いてられっか! それより」

 ばっ、と腰を落として周りを見回した。

「おい、ヨロイ野郎がいねえぞ!」

 そういえば、今の騒ぎに紛れてあの巨体が消え去っていた。


「そうですね、多分家に帰ったのでしょう」

 落ち着いた声で、京平が言う。

「そうか、じゃ一安心ね」

 ほっとして、弥生は肩の力を抜いた。和美も気が抜けたのか、青い髪の色が、元に戻っていく。


 とてつもない敵だった。


 京平が来てくれなかったら、皆殺しになっていたかもしれない。立ち去ってくれて、本当に助かった。


「アホか! あいつを逃がしちまったら、『夏』を助ける手がかりがまるっきり無くなっちまうじゃねえかよ!」

 かーっ、と叫んで、乱丸は頭を掻きむしった。


「あ……」

「しまった」

 和美と弥生は顔を見合わせた。

 ぎらり、と乱丸の目がつり上がる。


「まったく、これだけコケにされたのは初めてだぜ。ボコボコ殴られた上に、獲物まで横取りされちまった」

 ぎらぎらした目で夏見を見下ろす。

 その口が弱々しく動いていた。


“助けなければ……”


 意識のない状態でも、まだうわごとでつぶやいているのだ。


「おっさん……」

 地面に片膝をついて、乱丸は夏見に語りかける。

「安心しろ、とは言わねえ。けどな、あいつらはオレの獲物を、目の前で奪っていきやがった。オレもプロだ、泣き寝入りは絶対にしねえ。怪盗としてのプライドをかけて、あの娘を絶対に盗み出してやる」

 はっきりと、乱丸はリベンジを誓う。


「よく言いました、君の口からそのセリフが出れば、もう大丈夫ですね。何であっても、盗めないものはないでしょう」

 京平が笑みを浮かべる。


「でも、手がかりが無いって……」

 不安そうに和美が言う。

 乱丸は京平を見た。


「もう断らせねえぜ京平、何とかして、あのくそったれヤロウの居場所を“視ろ”!」

 頼むというよりは脅す口調で言うので、京平は苦笑した。

「タロットでも水晶玉でも何でもいい。てめえの“魔法”ってヤツをちったあ役立ててみやがれ!」


 今さっき、どうにも手に負えなかった『闇』を、京平の魔力であっさり封じ込めてもらった事など、すっかり忘れているらしい。


 幼い弟を見つめるように、京平は優しい目をして、「はいはい」と答えた。

 右手の人指し指をこめかみに当てて、少し考え込む。それだけしか動きは見せず、何の魔力の発動も感じられなかったが、不意に京平は伏せていた目を上げた。


 和美の顔を見る。


 その美しすぎる瞳で真っ直ぐ見つめられて、ついどぎまぎしてしまう。


「な、何でしょう?」

「相沢君、ポケットの中にあるものは?」

「え?」

 言われて慌ててポケットを探ると、一枚の紙切れが入っていた。 美術館の入場券の半券だ、出し忘れていたらしい。

「ははあ、なるほど」

 それを見て、なにやらうなずく京平に、


「何よ、なにか判ったの?」

 と、弥生が尋ねる。

 京平はうなずいて、乱丸の顔を見た。


「ありましたよ、手がかりが」

「おう」

 思わず、乱丸は身を乗り出して京平に迫った。

「早く教えろよ!」


「手がかりは……」

 京平は、和美のつまんだ紙片を指さしてつぶやいた。


「グリューネヴァルト」


 と。







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