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ACT・1『中庭にて』


ACT・1


 今日も暑い一日だった。


 湿度の高い、じめついた空気が肌にへばりついてくるようだ。

 うっとうしい日々が続いている。

 そういえばこの一、二ケ月は、からりと晴れた青空というものを目にしていない。

 常に薄雲が空を覆っていて、朝、出掛ける際には必ず雨具を手にしていなければならないという生活である。


 今朝のニュ−スでは、気象庁がついに梅雨明け宣言をしない旨を発表していた。梅雨明けしないまま、そろそろ秋雨前線がやって来そうだというのである。

 この異常気象について、ニュ−スキャスタ−はしきりにエルニーニョがどうのとか、その反動でラニーニョがどうのとか、曖昧なコメントをぶつぶつとつぶやいていた。

 

 天気は悪いが、とにかく暑い。

 しかも、南国の島国のように、陽気さのある暑さではないのだ。こういった暑さは、不快なだけであった。

 

 八月に入ってからは、ずっと毎日がこの調子のため、世間的にもおかしな雰囲気が漂ってきていた。

 ささいな事でケンカをして、相手に重傷を負わす事件。

 夜泣きがうるさいという理由で、我が子を親がカッとなって殺す事件。

 突発的にヒステリー状態になり、意味をなさない事を口走り、路上で発狂するサラリ−マン。

 普段、特別問題を抱えていなかったはずのおとなしい高校生が、ある晩急に自殺を図ったり……。

 ひまつぶしのためだけに、無抵抗の小動物をなぶり殺す子供たちの増加……。

 

 夏らしい夏が来ないだけで、人々の心も歪み始めているようだった。

 

 ふと、街角で足を止めて、道行く人々の顔を見てみる。

 すると気づくはずだ、その顔には明るく開放的な表情は一つもないことに。

 うつむきかげんで、暗い目をした人々がぞろぞろと列をなして歩いていく。

 誰も空を見上げようとする者がいない。

 

 そこには、見ただけで思わず笑みがこぼれてくるような青空も、全身を焼き尽くしそうな燃えさかる太陽も、夏を象徴する入道雲もないからだ。

 あるのは重々しい鈍色をした雲。

 

……もう、八月も終わろうとしている。

 本当に、今年の夏は異常なのであった。


      ☆       ☆       ☆


 頭上の梢の中で、セミがかすれた声で鳴いている。

 普通であれば、それを見上げるには目を細め、まぶしい木もれ日に対抗しなければならないはずだ。

 が、こんなぐずついた天気ではその必要もない。

 重く湿った空気が、全身にぬるぬるした汗を吹き出させている。 今日もさっぱりしない一日であった。

 

 世の中の全てが、よどんだ雰囲気に包まれて、だらだらしているように思われる程である。

 だがしかし、そんなじめついた空気を吹き飛ばすかのような、パワ−に満ちている存在があった。

 元気のないセミの声を聞きながら、学園の中庭の一角で黙々と木刀の素振りをしている少女がそうである。

 

 長い髪をまとめるのと、汗止めの役目を兼ねたハチマキを締め、きちんと白い袴を着込んでいる。

 

 りん、とした表情。

 真っ直ぐ伸びた姿勢。

 斎木学園一といわれる女剣士、島村弥生であった。

 

 すっ、と木刀が頭上へ持ち上がる。

 ひゅっ、と打ち下ろされる。

 また、木刀が持ち上がる。

 ひゅっ、と打ち下ろされる。

 

 何の変哲もない素振りだが、しかし、それだけの単調な動きの中に、たまらない緊張感が秘められている。

 この不快な蒸し暑さの中で、彼女の周囲だけは空気の質が変化している。そんな雰囲気をまとっているようである。

 ゆったりとした動きの中から、びりっとした気迫が伝わってくるのだ。

 

 少し離れた所、ちょうど木の枝によって日影になっている芝生の上に、きちんと正座をしてその姿を見つめている少女がいた。

 セミロングの髪を、横で一ケ所結び、くりっとした大きな瞳で、静かに弥生の動きを眺めている。

 

 童顔のせいか、ぽわっとしたイメ−ジのこの娘も、弥生とはまた違うタイプの涼しげな雰囲気を持っている。

 蒸し暑さに不快そうな様子も見せず、きょとんとした表情のまま弥生の素振りに見とれていた。

 

 ひゅっ。

 ひときわキレのいい音をさせ、素振りが終わったらしい。

 刀を鞘に収める動作をして、ふっ、と弥生の全身に満ちていた緊張がほどけていく。

 ふう、と一つ息をつくと、厳しい表情で前方の空間を見つめていた弥生は、にっ、とさわやかな笑顔を浮かべて振り返った。


「ありがと和美ちゃん、もうお終いよ」

「お疲れさま、はい」

 そういって少女、相沢和美は弥生にタオルを手渡した。

 素振りの最中には気が満ちているためか、ほとんど汗をかかないのに、動きを止めた途端に全身に吹き出してくるのだ。

 

「あ、ありがと」

 ごしごしと、男っぽく顔をこすると、タイミングよく和美がスポーツドリンクを出してくれた。

 のどもカラカラだ。

 

「うわあ、サンキュ」

「ど−いたしまして」

 タオルを頭にかぶって、弥生は和美の隣に腰を下ろした。ごくごくと喉を鳴らして、スポーツドリンクを飲む。

「ぷはあっ、この一杯がもうサイコーよね」

 心底うまそうにつぶやく弥生の横顔を、くすくす笑いながら和美は見ている。

 

 渇きも癒えて、気持ちが落ちついた弥生はタオルで顔をごしごしやりながら、

「ホント、いつもつきあわせちゃって悪いわね」

 と片目をつぶった。

 ぷるぷると、和美は顔を振る。

「いいんですよ、夏休みっていったって別にすることないんですから」

「こおら、いい若いもんがそんなことでいいのかあ?夏休みはもう明日で終わっちゃうんだぞぉ」

 ぐりぐりと、弥生が肘で和美をつつく。

 

「そうですよねえ、もう夏休みが終わっちゃうんですよね」

 しみじみと和美はつぶやいた。

 

 夏休み終了、二日前。

 今日と、明日とでもう新学期が始まってしまうのだ。

 思わずため息がもれてしまう。

 

 学生にとって、夏とは「夏休み」を意味しているだろう。

 この長い休みが終わるということは、いくら暑さが残っていようとも、夏が去っていってしまうということなのだ。

 様々な思い出がたっぷりつまっている、約一ケ月間のかけがえのない時間……

 それが残りわずかというのを認識した時、彼らはふと寂しさを覚える。

 それはいわば、祭りの後の虚脱感と同じ気持ちであった。

 

「逆につき合ってもらっちゃってるの、あたしの方ですよね。弥生さん、結局一度も里帰りしなかったじゃないですか」

「あー、いいのいいの、家に帰ったってうざったいだけだからね」 手をぶらぶらさせて、弥生が笑う。

 和美が真剣に申し訳無さそうな顔をしたものだから、わざと口調も明るいものになる。

 それに気づいてか、和美も暗い表情になるのをこらえて笑みを浮かべてみせた。

 

 この斎木学園は全寮制である。

 

 長い休みになると、ほぼ全員が実家に帰るため、寮内に残るのは特殊な事情の持ち主だ。

 例えば、この相沢和美はある事情のため帰る家がない。その上、一学期の途中に転入してきたばかりなので、ロクな友達もできないまま、夏休みに突入してしまった。

 弥生が実家に帰らず、寮に残っていなかったら、ポツンと独りぼっちのつまらない夏になっていたことだろう。

 

 だが、そうはいっても和美に気をつかって居残っているというだけでもなかった。

「あいつが帰ってきたら、まっ先に殴りつけてやりたいもんね」

 少し前にも、こんな会話をした時、ぽつりと弥生は言ったのだ。

 

……行方不明の「あいつ」が帰ってくるのを待っている。

 

 それには、この「斎木学園」で待ち続ける事が必要なのだった。

「お兄ちゃん、どうしてるのかな……」

「そうねえ」

 ごろん、と弥生は芝生の上に大の字になった。

 灰色の、重苦しい空を見上げ、ため息をつく。

 

「どーも、休み前に大騒ぎしすぎたせいか、今年の夏ってパッとしなかったような気がするのよね……盛り上がらなかったっていうか気分的にこう……」

 

 その感覚が、弥生はうまく言葉にできないらしい。

 

「お兄ちゃんいなかったからですか? あたしも、なにか大事なものが欠けてたような感じがするんですよ」

 和美も同じような気持ちらしい。

 弥生の真似をして芝生に寝ころがり、空を見る。

 

「ねえ和美ちゃん、最近青空って見た覚えある?」

 何気なく、弥生がつぶやく。

「いえ……なんだかいつも雨の心配をしてた気がします」

 すぐ横に置かれたバッグの中にも、折り畳みガサが入っているのだ。

 

「そうよねえ、ったくヘンな夏だったわ、というより……」

 ちら、と和美と視線が合う。

 

「『今年は夏が来なかった』って感じ?」

 

 目で和美もうなずいた。

 はあ〜あ、と弥生がまた大きくため息をもらす。

 若い娘が、昼間っからため息ばかりついて、じめじめした会話をするのもサマにならない。

 

 何か、景気のいい話はないものかと考えを巡らして、弥生が口を開く。

 

「そだ、この間の美術館のドロボウ騒ぎ、あれってどうなってるのかしらね? 和美ちゃん、もう一回聞かせてくれない」

「ええ〜、やなこと思い出させないで下さいよぉ。それでなくても現場にいたってだけで、おまわりさんにさんざん事情聴取されたんですから〜」

 

 とほほ、と和美が情けない顔になった。

 

「いいじゃないの、新学期の学校新聞にさっそく載せるんだから、和美ちゃんの証言のおかげで犯人像が絞り込まれるかもしれないじゃない?」

「え〜ん、せっかく騒ぎが落ちついてきたのに蒸し返さないで下さいよぉ」

 

「いいえ、大衆は知る権利があるのよ、さあ現場に居合わせた者の生々しい声を私に聞かせてちょうだい!」

「何度も話して聞かせたじゃないですか! もう」

 ぷくっ、とほっぺたをふくらませて和美は話しはじめた。


      ☆       ☆       ☆


 二人が話をしていたのは、この日より少し前に起こった『美術品盗難事件』についてである。

 

 たまたま、和美がその時美術館にいたため、大騒ぎになる様子を実際にその目で見たという訳なのであった。そして、その盗難の手口も少々変わっており、この夏休み中の忘れられない出来事の一つとなったのだった。

 

 その日、和美は美術のレポ−トの為、一人で美術館に来ていた。 何でもいいから美術館に展示されている作品をもとに、感想を書いてこいという宿題なのである。

 今の時期、何が展示中であるのかも知らないまま出掛けてきたのだが、特設展示部門はルネサンスものであり、なかなか見応えのある絵画が揃っていたのでラッキ−であった。

 もともと油絵などを鑑賞するのは好きである。

 入場客のまばらな館内で、まず半日は時間を潰せると和美は思っていた。

 

 手にしたパンフレットの解説を読みながら、じっくりと、繊細かつ荘厳に描かれた作品を眺めていく。

 

 と、

 和美は一枚の絵の前で立ち止まった。

 そこには、一枚の祭壇画が展示されていた。その絵に和美は興味を持ったのだ。

 

『イーゼンハイムの祭壇画』

 

 パンフレットにはそう示されていた。

 しかし、実際に彼女が目を奪われたのは、その作品の一部であるキリストを描いた部分であった。

 それは、『キリスト磔刑図』と呼ばれるものである。

 

「………」

 

 和美は肌寒さを感じた。冷房の涼しさとは別のものである。

 

 そこに描かれたキリストは、あまりにも凄惨であった。

 通常イエスを描く場合、必ず描き手の、聖なる存在に対する畏敬と崇拝の気持ちが込められているものである。しかし、この絵には不思議に思えるほどそういった感情が抜け落ちていた。

 

 茨の冠を被せられ、十字架上で力尽きているその姿。

 土色で、断末魔の苦しみを留め半ば口を開いているその表情。

 既に死後硬直を起こし、半ば腐り始めている壮絶な屍として、凶暴なまでのリアリティをもって描き込まれている。

 普通の祭壇画に描かれる、美しいまでの聖性とは程遠い、謎めいた絵であった。

 

 和美は、パンフの説明に目を落とした。この絵はいかなる画家の手によるものだろうか。


……グリューネヴァルト。


 ドイツ・ルネッサンスの画家であった。ただし、この名前は通称であって、本名はマティスであったことが今世紀になってようやく判明した。

 

 というのも、サンドラールという文人が「ドイツ建築家・彫刻家・画家列伝」という本を編んだ時に、間違ってグリューネヴァルトの名で収録してしまい、なまじ名著であったためにそのまま名前が定着してしまったというのである。

 言い換えれば、それほど当の画家の影が薄く、足跡がつかめないせいであった。作品は残しても、人物を探るための手がかりが、きれいさっぱり見当たらないのである。

 

 まるで、画家の存在を示すものは描かれた作品だけであると、無言で主張しているかのごとく……。

 

 さらに、和美の手にしたパンフの中では彼を評して、「かすかな聖性の痕跡までものぞき去るという偏執にとりつかれた男」と述べられていた。

 

 たしかに、口から流れ出すよだれや粘った血の状態までも、執拗かつ残忍に描き出すこの画家の目は、ひたすら闇を見つめているかのようであった。

 吸い込まれるように、和美はその絵に見入っていた。

 

 その時、

 

 不意に背後から無遠慮な鼻歌が聞こえてきて、和美の意識が現実に引き戻された。

 

 はっとして振り向くと、『よろこびの歌』をハミングしながら通り過ぎていく男がいた。

 丸いサングラスで隠してはいるが、その奥にある鋭い眼光と、頬に刻まれた刃物傷を和美は見て取った。

 自分を見つめる和美の視線に気づいて、男はふてぶてしい笑みを口元に浮かべ、にやにやしながら去っていった。

 その後ろ姿が、まるでたっぷりと食事をした後の猫科の獣のように満足気で、しなやかな歩き方だと和美は思った。

 

 そういえば、小わきに何か箱の様なものを抱えていたみたいだったが、何だか判らなかった。

 

 別に気に留める事もなく再び絵の方へ向き直った途端。

 

 ジリリリリリリリリリリッ……!

 

 けたたましい非常ベルの音が館内に響きわたったので、和美は飛び上がって驚いた。

 辺りを見回すと、真っ青になった警備員がぞろぞろ出てきて、慌ただしく走っていく。


「ちょっと、ドロボウだってさ」

「何か展示されてたヤツが盗まれたらしいよ」

 ざわめく客たちの間で、そんなささやき声が聞こえてくる。

 

「どうやら宝石箱の一つがやられたようですよ」

「まさか……」

 思わず和美は口の中でつぶやいていた。

 

『箱』。

 

 そう、先ほど悠々と目の前を歩き去っていたあの男こそ、展示物を白昼堂々盗み出したドロボウだったのである。

 およそ、盗むという行為の、薄暗いイメ−ジを一切持っていない盗人だった。


      ☆       ☆       ☆


「と、いうのがその時の一部始終です。あーもう、何回おまわりさんに同じ事を話したかなあ」

 その日以来、弥生にだって何回も繰り返し聞かせた話である。

 同じことをしつこく口にしなければならないので、和美もいい加減うんざりしていた。


「でも、その犯人はまだ捕まっていない訳でしょ。警察としては少しでも手がかりになることが欲しいんじゃない?」

「手がかりって……、たくさんあると思うんですけど……」


 その点が不思議なのであった。

 男は人の見ている前で、堂々とガラスケ−スを開き(この時警報は鳴らなかった)、何気ない仕種で当たり前のように宝石箱を抱えて、走ることさえせずに歩いてその場から立ち去ったのである。

 館内は空いていたとはいえ客がいたのだから、当然、目撃者は一人や二人ではなかった。

 展示物を守る警備員も配置されていた。

 にも関わらずこのドロボウを取り逃がし、今日に至るまで未だ逮捕できないでいるのであった。


「ミステリ−、よね」

 にやっ、と笑いながら弥生が言ったので、思わず和美が身を固くする。

 こんな目つきをする時の弥生は、ロクなことを考えていないという事が和美にも判っているのだ。


「この話を学校新聞で取り上げて、しかも、それが犯人逮捕のきっかけになったりしたら、うれしいわよねえ……」

 そう言いながら、ちらりと横目で和美を見る。


 それを見た途端、和美の全身に冷や汗が吹き出てきていた。

 夏休み前にこの目つきで睨まれた後、新聞作りの手伝いのため二日ほど徹夜状態で働かされたという苦い思い出があるのだ。

 新聞作っている間、弥生は異常な体力を発揮し、完成するまでぶっつづけで原稿を書き続ける。それこそ一睡もせずに。

そして他人も平気だと思ってるから、同じペースで作業をさせられるからたまらない。

また、この人は何か無茶な事を言い出すのではないだろうか……

ドキドキしながら、弥生と目が合わないように横を向く。

 

と、

その時だった。

 

ざあっ、と突風が吹き抜けていき、ふと空気の質が変わった様な気がした。

 頭上で鳴いていたセミの声が消える。

 

何か、

 何か不思議な気配によって、その時学園内の空気が支配されていた。

「?」

 それは少女たちには、胸の中でもやもやするものとして感じられた。無意識のうちに、芝生の上に身を起こす。


「……静かね……」

 頬を指で掻きながら、弥生がぼんやりと周囲を見回す。

 そして、目を細めた。

 和美も弥生が見つめる方向に顔を向ける。


 校門のところ、そこに誰かが立っていた。遠すぎるのと、角度のせいで顔は見えない。だが……、

「まさか……」

 弥生は思わずつぶやき、和美は胸が高鳴るのを感じた。

 その背格好から、彼女たちが待ち続けていた者のように見えたのだ。

「帰ってきたの!」

 次の瞬間、二人は思わず走りだしていた。


 校門のところに立っているのは、若い男だった。

 少年と言っていい。


 肩にナップザックを無造作に引っかけている。

 片手をジーンズの尻ポケットに突っ込み、もう片方の手で頭をばりばり掻きながら、斎木学園の全景をゆっくり見渡しているようだった。


 ふと、すっと手を伸ばす。

 伸ばした手のひらで、自分の目の前の空間の感触でも確かめるようにして、また頭をばりばりと掻く。

「ま、いつ来てもすげえ所だな、ここは」

 ふん、と鼻を鳴らしてつぶやいた。


 と、

 こちらに向かって、ものすごい勢いで駆け寄ってくる二人組の少女に少年は気が付いた。

「あん? 何だ?」

 怪訝そうに、少年が片眉を上げる。そうしてる間にも……


「お兄ちゃん!」

 小柄な方が、叫びざまミサイルのように飛びついてきた。

「一郎っ!」

 少し遅れて、白い袴姿の方も突っ込んで来た。


「どあっ!」

 思わぬ強襲に、少年が叫び声をあげる。

 その瞬間、少年の首に抱きつこうとした和美の身体が大きく宙に浮いていた。


「え?」

 と見るや、ふわりと羽毛が舞い落ちるように優しくしりもちをつかされていた。


「お前ら、何のつもりだよ?」

 少年が今の一瞬、飛びかかった和美の身体を、鮮やかな空気投げで後方へ放り捨てたのだが、あまりの早業に、和美自身は何が起こったのか理解できていない。

 目をぱちくりさせて、固まってしまった。

 それに、今の少年の声は……


「あ、あれ? ゴメン、人違いだったわ」

 想像していた人物ではない事に気づいた弥生が、慌てて謝る。

「和美ちゃん、こいつ一郎じゃないわ……」

 はっとして、しりもちをついたまま和美は顔を上げた。

 少年を見上げる。


 とたんに、彼女の瞳に失望の色が浮かんだ。


「何か知らねえが、誰かとオレはそんなに似てるのかい?」

 少年は、そんな和美に手を差し伸べてきた。

 手を取って立たす、なんてことはせずに、むんずと襟をわしづかみにして、和美の身体を子猫のように持ち上げた。

 やり方がいちいち荒っぽい。


 確かに、落ち着いて見れば体格が似ているだけで、少女たちが待っているあの男とはだいぶ顔だちが違っていた。

 髪型も違うし、目付きもここまで鋭くない。おまけに右の頬に浮かんでいるのは刃物傷ではないか。


 強いて言えば、にっ、と唇の端を吊り上げる笑い方。そのふてぶてしい表情が似ているといえば似ている。

 少年は片方の眉を上げた。


「何だよ、誰かと思えば弥生じゃねえか。このオレを見忘れたかのかよ?」

 言われて、弥生はようやく気がついた。


「あら、あんた乱丸……御咲乱丸? ひっさしぶりねえ!」

 この少年は弥生の知り合いだったものか、ぱっと彼女の表情が明るくなる。と、表情はそのまま、弥生の木刀が予告もなしに少年の頭上に振り下ろされた。


「でえっ!」

 悲鳴をあげつつ、少年はあわてて真剣白刃どりで受け止めた。

「こ、このおてんば……、久しぶりだってのにいきなり何しやがる……」


「ほほほ、これは失礼、ちょっと手がすべったみたい」

「ざけんなこのブス、何か恨みでもあるのかよ」

「あ〜ら、あんた、まさか恨まれてないなんて思ってないわよねえ……?」


 ほほほ、と弥生が笑う。

 へへへ、と乱丸が笑う。


 木刀を押す力と、押さえる力とで二人の腕がぶるぶる震えていながら、互いの顔は引きつった笑みを浮かべているという、妙な光景であった。


「あの〜」

 おずおずと和美が声をかけると、それを合図に二人の身体が、ばっと飛びすさって距離を取った。

 どちらもどれだけの力を込めていたものか、今のわずかな押し合いだけで、ぜいぜいと息を切らしている。


「ったく、相変わらずロクな事しねェな。ジャジャ馬め」

「ごあいさつね、あんたこそどーせロクな用事で来たわけじゃないクセに」


「あの〜」

 道端でケンカをする野良猫のように、鼻の頭に皺をよせてにらみ合う二人に、再び和美が声をかけた。

「二人とも、お知り合いですか?」


「まあね」

 と、二人同時に答える。


 むっ、とまた互いににらみ合って、ようやく興奮がおさまったのか、弥生が木刀を下ろした。

 それでも、少年は油断なく三歩後退し、間を充分取ってからファイティングポ−ズを解く。

 片手で髪の乱れを直しつつ、和美に笑いかけた。


「初めまして、オレの名は御咲乱丸だ、よろしく」

「あ、どうも、相沢和美といいます」

 ぺこり、と頭を下げる。


 さらに、すっと乱丸が手を伸ばしてきたので、和美も握手に応じようとした時、

「ちょっと待った」

 木刀を片手で突き出しながら、弥生がそれを遮った。


「和美ちゃん、あんまりこいつに近づいちゃだめよ」

「何だてめえ、まだケンカ売る気か?」

 くわっ、と牙をむく乱丸を、弥生は横目でじろりとにらみ、


「あんたも相変わらずね、そのクセいい加減直しなさいよ」

 と言う。その言葉には、半ばあきれているような感じが含まれていた。


「?」

 きょとんとした表情で、和美が乱丸の顔を見つめる。


 それに気づいて、乱丸はバツが悪そうに指で鼻の頭を掻いた。

「何だ、バレてたのかよ。弥生、腕を上げたな」

「おせじはいいから、さっさと返しなさいよ」

 木刀を肩に担ぎ、空いている左手を突き出す。

 その手の上に、乱丸は胸ポケットから手帳を取り出し乗せた。


「まったく、手クセの悪さは全然変わらないんだから……」

 ぶつぶつ言いながら、弥生は受け取ったその手帳を、そのまま和美に差し出す。

「はい、これ和美ちゃんのでしょ?」


「え……?」

 手にして初めて和美は目をむいた。

 確かにこれは和美の生徒手帳だ、しかし何でこれが乱丸のポケットに入っているのか?


「多分、さっき放り投げられた時ね、あの一瞬にすりとったんだと思うわ」

 あっさりと弥生が言う。


 当の乱丸は、口笛を吹きながら横を向いて、聞こえないふりをしている。


「それより恐ろしいのは、すりとった手帳の中身にほとんど目を通しているのよ、こいつは」

 とんでもないことを弥生は言った。


「まさか」

 和美はまずそう思った。あのわずかな一瞬に手帳をすり取るだけでも神業なのに、一体いつ手帳の中に目を通すヒマがあったというのか?

 和美は乱丸の顔を見た。

 ニヤニヤしている。

 そして和美にそっと近づき、耳元に口を寄せ何事かぼそぼそつぶやいてウインクした。

また、和美の目が驚きに見開かれた。

 

今、乱丸が和美に告げたのは手帳に書かれた内容だったのだ。


出席番号、血液型、生年月日……


 得意そうに、乱丸は和美のびっくりした顔を見ている。


「ま、いきなりつっかけてきた奴の正体を手っとり早く調べるためだったんだがな」

 弥生がふん、と鼻を鳴らす。


「ホント、油断もスキもあったもんじゃないわ、判ったでしょ和美ちゃん? この大ドロボウに近づいたが最後、すれ違いざまに下着だって抜き取られちゃうからね。絶対そばに寄らないこと」

「え? そんな事……、もしかして弥生さん、やられた事があるんですか?」

 思わず声を高くした和美に、弥生は口を閉じてしまった。

 心持ち顔が赤くなっている、それが答えだろう。


 乱丸に視線をやりながら、我知らず和美はワンピースの胸元を押さえていた。


「こらこらこら弥生ィ、てめえの偏った紹介のせいでオレの人格が疑われてるじゃねえか!」

「なぁーに言ってんのよ、ドロボウをドロボウと言ってどこが悪いっていうの?」

 その弥生の言葉に、乱丸は「やれやれ」と肩をすくめて、ため息をつき、

「判ってねえなあ」

 とつぶやく。


「何かっこつけてんの、いい? 和美ちゃん、この男はね、もともと斎木学園の生徒だったのよ。でも『学園のルパン三世』とアダ名されるほど手クセが悪くてね、去年ついに退学させられちゃったというろくでなしなのよ」


「はあ……ドロボウさん、ですか」

 珍しいものを見るように、和美は乱丸を見つめた。

 そして、ぱちくり、とまばたきする。


“……鋭い目つき、頬の刃物傷、不敵な笑み、の、ドロボウ?”


 何で今まで気づかなかったのか!

 サングラスをかけていたとはいえ、こいつが美術館の宝石箱盗難の犯人ではないか!


 ぽかん、と口を開く。確かに弥生の言うとおり、この男はドロボウらしい。しかし、和美には乱丸が悪い男には思えなかった。


「『学園怪盗』と本人は呼ばれたかったんだけどな」

 悪びれず、乱丸は片目をつぶってみせる。

「オレの盗みは『芸術』だぜ。 絶対盗めそうもないもの、金額や一般大衆の価値観では計れない貴重なもの、何よりこの……」

 どん、と力強く、乱丸は自分の胸を叩いた。


「このオレの魂が認めたものしかタ−ゲットにしないってのがオレのポリシ−な訳よ、判るかい? 『ドロボウ』なんて下世話な表現でオレの哲学を形容しないでもらいてェな」

 力説する乱丸を、弥生は小馬鹿にするようなジト目でにらんでいた。


「何か言いたげだな、弥生?」


 それに気づいた乱丸が、横目でにらみ返す。

「べえつにいい」

 乱丸から視線を外し、斜め上方の空間をぼんやり見ながら、とぼけた口調で弥生は答えた。


「ただね、『女生徒百人切り』とか言って、休み時間に廊下を歩いてた女のコのブラを見境なしにすりまくった例の事件も、あんたの芸術やら哲学の一部なんだなと思って……ちょっと、どこ行くのよ?」

 そっと、忍び足でその場から離れようとする乱丸の襟を、弥生ががっちり捕まえる。


「お前な、つまらんことをいつまでも覚えてるとハゲるぞ」

 その声は、先ほどの力説を行ったものと比べると、いくぶん小さくなっていた。


 ぷっ。


 思わず和美は吹き出していた。

 こらえきれずに、笑い声がもれてしまう。


 決して、人の物を盗む事を容認する訳ではないが、この御咲乱丸という男、悪いヤツではなさそうだ。たしかに手クセは悪いのだろうが、『人間』は悪くなさそうである。でなければ、弥生がこんなに気楽な接し方をするはずがない。


 それに、先ほど自分の盗みを『芸術』と言い切った彼の目。その瞳に一瞬きらめいた光を、和美は印象深く覚えていた。


 無邪気に、壮大なスケールの夢を見つめる瞳。


 例えば小さな男の子が、青いでっかい空を見上げる時の両目にたたえた光。それに近いものをこの少年から感じ取ったのだった。

 何か大きな夢を持っていることを感じさせる男だが、弥生が言うには『下着ドロボウ』にすぎないという。

 そのギャップが妙に面白くて、和美は笑うのをやめる事ができなかった。


「ちょっと和美ちゃん、大丈夫?」

「ご、ごめんなさい。だって、おかしくて……」

 心配になって覗き込む弥生に、うっすら浮かんだ涙を拭いながら和美が答える。


「見なさい、あんたのせいで和美ちゃんがおかしくなっちゃったじゃない。そもそも、学校やめたあんたが、何で今になってノコノコ現れたのよ?」

 その言葉に、乱丸は何かを思い出したように手のひらに拳を打ちつけた。


「そうだ、オレはてめえと漫才するために来たわけじゃねえんだった」

 つぶやいて、ふっと校舎を見上げる。

「今日は、蘭堂京平に会うために来たんだよ」

 ばりばりと、頭を掻く。


 ぴく、と弥生の片方の眉がつり上がった。


 聞き慣れない名前を出されて、和美が弥生の顔を見る。

「弥生さん、京平さん……って?」

「この学園の生徒会長よ、……乱丸、あんた一体何を……」

 弥生の問い掛けには答えず、すでに乱丸は歩き出していた。


「また、後でな」

 振り向きもせず手だけ振ってみせ、乱丸は校舎の中に入っていった。

 その背を見送った弥生の顔に、かすかな緊張が見られる。

 和美もそれを感じ取っていた。


「ねえ弥生さん、その蘭堂さんでしたっけ? 私たちの生徒会長って、どんな人なんですか?」

 和美はこの学園に転入してまだ日が浅い、生徒会長のフルネームも、今初めて耳にしたのだ。


 一体、この奇人変人ぞろいの斎木学園における生徒会長とはどんな人物なのか? 少なからず興味をそそる人物だ。


 弥生の唇が動く。

「生徒会長……蘭堂京平はね、『魔法を使う』と言われているわ…」

 そう言った弥生の頬を、ぬるい汗が一筋、流れ落ちていった。






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