第9話「ひきこもりに慰められるとは……」
「……はぁ」
「どうしたんですか、楓くん。朝からため息なんて吐いちゃって」
学校へと続く道の途中で、隣にいる夏咲空乃が聞いてきた。彼女は今日も今日とて俺の家に勝手に忍び込み、ひきこもりライフを満喫している俺のことを邪魔してきたのだ。でも、女の子と一緒にいられるのはちょっと嬉しいかも……。
「なんだか最近、ひきこもりライフが崩壊している気がするんだよね……」
ここ最近……いや、今週は毎日登校している。なんか変だ。夏咲が一週間ほど前に俺の家に来てから、俺の生活がなんか変だ。
「いいことじゃないですか。元々、私は楓くんがひきこもらないようにすることが目的なんですから」
「良くないよっ!」
「朝から大声出さないでくださいよ」
夏咲が微かに顔をしかめた。俺の方が顔をしかめたい気分だよ! まったく。
「あんなに極楽だったひきこもり生活ができなくて、今の俺の体は限界なんだよ」
「そうですか? 朝までゲームやったり、アニメ見てる体力はあるじゃないですか」
「うぐっ……それを言われると弱い……」
俺はなにか言い返せる言葉はないかと必死に考える。しかし、一向に妙案なんて出てこない。悔しさに唇を噛んでいると、
「どうしてそこまで、学校に来たくないんですか?」
「どうしてって……。あれ、前も説明しなかったけ?」
「親友と喧嘩したとかどうとかっていうのは聞きましたけど」
どこか虚空を見つめ、思い出すような仕草を作る夏咲。
「そうそう。だから、あまり学校にいい思い出がないんだよねー」
ホント、これっぽっちも。
「そうなんですか」
「そうなんです」
「だったら――」
前方に向けられていた視線が俺へと向けられる。なんの色もないまっさらな彼女が俺に言う。
「新しく作ってみてはどうですか? 思い出を」
「新しく、ね……」
考えたこともなかったな。でも、いきなりそんなことを言われても難しいし。……なにより、ひきこもり生活の極楽さが俺を掴んで離さないのだ! まさに、禁断の果実とも言うべきか! あ、でも思い出ってもしかして。
「それって夏咲と二人だけのってこと?」
ふざけたように言うと、夏咲は拳を握った。
「寝ぼけてるんですね? だったら、一回殴って目を覚まさせないといけませんね」
ちょっと待ってよ! 好戦的すぎるよ、夏咲!
「ごめん。冗談、冗談!」
「そうですか」
冷めた声音で夏咲が拳をしまう。
危なかった。ホント、危なかった……。
「ほら、もうすぐ学校ですから、変なことばかり言わないでくださいね」
言われて正面を見ると、そこには見覚えのある校舎。やっぱり、今日もまた来てしまったようだ。はぁ……。一日が始まる……。
鐘が鳴ると、国語の先生が「今日はここまで」と言って教科書を閉じ、四時限目の授業が終わった。
クラスメイトたちは一斉に立ち上がり、学食へ向かったり、仲の良い者どうし集まり昼食を摂ったりし始めた。
当然、友達なんかいない俺は、カバンからコンビニ袋を取り出し教室を後にする。屋上に行って夏咲と一緒にお昼を食べるのだ。
本当なら屋上に行くのも夏咲と一緒が良いんだけど、いかんせん夏咲は先に行ってしまう。緊張してるのかな? 毎朝俺の家には勝手に入ってくるのに。
いつものように、屋上へと繋がる灰色の扉を開けた。
新鮮な風が体を撫で、とても気持ちがいい。もうね、教室にいると人が多くて大変なんだよね。
「また来ましたか。楓くん」
いつものように、夏咲はちょこんとベンチに腰掛け、ひとりでお昼ご飯を食べている。
「まあね。夏咲と一緒にご飯を食べたくてさ」
そんなことを言いながら隣に腰掛けようとすると、夏咲は俺が座れるように少しずれてくれた。相変わらず優しい。
コンビニ袋からおにぎりをひとつ取り出す。ビニールの包装を外し、一口だけ食べる。
隣に座る夏咲は、静かにコーヒー牛乳を飲んでいる。
俺たちの間を沈黙が支配する。でも、決して嫌な沈黙なんかじゃない。なにか話すことはないかと、あれこれ探さなければという焦燥感もない。ただゆったりとしている心地の良い時間だ。
「楓くん。さすがに学校にも慣れてきましたか?」
森閑とした屋上の中に、夏咲の鈴の音のような声が舞い降りた。
彼女の問いに俺は首を振って答える。
「いやいや。全然だよ。朝も言ったけど、ひきこもり生活ができなくなって、体が音を上げてきているよ」
「まったく……。まだ、そんなこと言ってるんですか」
「いつまでも言うよ!」
俺はポンと胸板を叩いた。
「そんな薄い胸板を叩かれても……。あの、思ったんですけど」
「ん? なになに?」
「そんなにひきこもっていて、どうやって二年生に進級したんですか?」
夏咲が俺の方を向いて、不思議そうに問うてきた。いつになく疑問に満ちた顔だ。
顎元に手を当て、考える仕草を作りながら続ける。
「普通に考えて、楓くんみたいに一年と三ヶ月もひきこもっていれば、留年とか退学になるんじゃないですか?」
じっと俺のことを見つめて離さない。
「えっとね……それはね」
無意識なのか、夏咲の顔がどんどん俺に近づいてくる。ちょっと近いって、近い! ドキドキしていることを悟られないように、繕いながら続ける。
「この学校って、テストで一定の点数以上取れば最低出席日数はクリアになるっていう校則があるんだよ」
「なんですか、その校則」
わかりやすく呆れる夏咲。
「いや、なんというか、ひきこもりに優しい学校だよね」
「そうですね。ちなみに一定点数っていくらくらいですか?」
「全教科九〇点以上。平均じゃなくて、全部が九〇点以上じゃなきゃダメなんだって」
結構ハードル高いんだよね……。
「授業の内容が解ければそれで良いということなんでしょうか?」
「ど、どうだろうね。さすがに、校則のことはわからないよ。でも、その校則があるおかげで、俺はひきこもり生活という極楽な生活を手に入れてるんだよ! 毎回テストのときは、死に物狂いで勉強するけど。それはもう吐血する勢いで」
「だったら、学校来て普通に授業受けてる方が楽なんじゃ?」
ため息混じりに聞いてくる。
俺はそんな夏咲の質問を鼻で軽く笑いながら、
「ひきこもり生活を堪能したら、そんなことは言えなくなるよ!」
「そうですか……。まぁ、いいです。そんな校則に頼らなくてもいいように、楓くんにはひきこもり生活から脱却してもらいますから」
夏咲は再びストローを口に咥え、コーヒー牛乳を飲む。
「いや、俺はもういつもの生活に戻ろうかと……」
「わかります。毎朝学校に行く生活ですよね」
悪戯っぽく夏咲が笑った。
「違うよ!」
あ。でも、毎朝夏咲が起こしに来てくれる生活ってのはいいかも。起きたら目の前に美少女がいるのは幸せ以外の何物でもないからね。
「はいはい。わかってますよ。ですが、私の目的はあくまでも、楓くんが普通に朝起きて学校に行くようにすることですから」
もう何度それを聞いたことか……。高島先生め、余計な相談を!
俺は苦笑いし、今後どうやってひきこもり生活に戻ろうか、とあれこれ思案を始めた。ていうか、学校の寮に住んでいる時点で、ひきこもり生活をするのはなかなか難しいんじゃないだろうか? あっれー。おかしいなー。
思いの外、俺はひきこもりにくい環境に身を置いているのかもしれない。
そんなことを思っていると、ふとあることを思い出した。
「あ。そういえばさ、夏咲」
「どうしましたか? 楓くん」
「鈴原とは友達になれた?」
「…………はい?」
「だから、鈴原とは友達になれたのかなって思ってさ。だって、夏咲が相談事を聞いている理由って、相談者と一緒の時間を過ごして友達になるためだって言ってたじゃん」
夏咲はつい一週間ほど前にそんなことを言っていた。自分から友達を作りに行くのは緊張するから、相談事を聞くという大義名分が必要だ、と。
しかし、日曜日以降、夏咲が生徒からの相談者第一号である鈴原と喋っているところを見たことがないし、一緒にいるところも見たことがない。一体、どうなったんだろう?
「……よくそんなこと覚えてましたね」
心なしかさっきより元気がなくなっている気がする。あれ、もしかして……。
次の言葉を発しようと夏咲の口がゆっくりと開かれる。
「…………空振りです。清々しいくらいに」
言葉の最後にはぁ、というため息が聞こえた。
必死に思考回路を回転させ、フォローする言葉を選ぶ。
「ま、まぁ、そんな簡単に上手くいくことじゃないよね。だいたい、そんな簡単にいってたら苦労はしないよ。あははは……」
我ながら下手な慰め方だなと思っていると、夏咲がちらっと俺を見た。
「な、なに?」
「いえ……。ひきこもりに慰められるとは……」
「地味に傷つくよ」
俺の心にまたひとつ、新たな傷ができた。
「やっぱり、最後に説教くさいこと言ったのが原因だったのでしょうか」
「ああ、あれね」
あれというのは、夏咲が鈴原に言った言葉だ。本当なら、鈴原自身がしっかりと里山くんに謝るのが筋ではないか、というものだ。夏咲が俺以外の相手を咎めているところを初めて見た。
でも、そうなったのも、俺が里山くんの気持ちを考えて勝手に飛び出していったことが原因だ。だから、もし夏咲が鈴原のことを説教したことが原因で友達になる機会を失ったのだとしたら、俺にも責任がある。
「夏咲が説教しなきゃいけなくなったのって、もしかして、俺が飛び出していったからだよね? その……ごめんね」
俺は謝辞の意味を込めて頭を下げた。
「え、あ、いえ。どうしたんですか、いきなり」
夏咲は俺を見ると、困ったように手をバタバタさせた。そして、どこか気恥ずかしそうに、頬を人差し指で掻きながら続ける。
「そんなことはないです。楓くんの考えは正しかったと思いますよ。最初の計画では、鈴原さんだけが望んだ結果を手に入れることになって、里山くんのことは考えてませんでしたし。ラブレターの誤解を解いて、尚且つ里山くんの負う心の傷も最小限にするには、あのやり方がベストだと思っています。ですので、楓くんは悪くないですよ」
一瞬、涙で視界が滲んだ。この子……優しい……。
「夏咲……」
俺が少し上擦った声で名を呼ぶと、
「な、なんで目に涙を貯めてるんですか。拭いてください」
ポケットからティッシュを取り出し、俺に差し出す。
俺はありがたくそれを貰い、涙を拭った。
すると、夏咲は吐き捨てるように呟いた。
「はぁ……これでティッシュが一枚無駄になりました」
「えぇっ!」
「冗談ですよ」
特に表情を変えることなく夏咲が付言した。だったら、もうちょっとそう聞こえるように言ってよ!
俺が若干悄然とうなだれていると、突然、屋上の扉が開かれる音が聞こえた。あと一〇分もすれば昼休みも終わるというのに誰だろう。そう思い、そちらに視線を合わせる。
見れば、そこにいたのは、茶色い髪を肩の辺りまで伸ばし、俺や夏咲とは対照的に明るい表情をした女子生徒だった。
「あ、見つけましたわ」
そう声を上げた女子生徒は、夏咲のもとへと小走りで駆け寄る。え、誰? この子。
「あ、深月さん」
「ん? 深月?」
教えを請う視線を夏咲に向けるが、軽々とスルー。俺の扱いひどくない?
「夏咲さん、ですわよね? ちょっとよろしいですか?」
「はい。大丈夫ですよ。どうされました?」
俺の前で話を進めていく二人。なんだかアウェイ感が半端ない。
困った顔をしていると、夏咲が小さく嘆息した。そして、親切にも紹介してくれた。
「こちら、うちの学校の生徒会長、深月陽菜花さんです。ついでにお隣の二年二組ですよ」
夏咲の紹介をうけ、深月がこちらにペコリと頭を下げる。見たところ、結構リア充そうな外見だが、意外と礼儀正しいらしい。ていうか、二年生で生徒会長なんだ、すごいね!
「あなたが、ひきこもりの小野宮くんですわね。高島先生から話は聞いていますわ」
「あ、それはどうも」
急に照れくさくり、軽く会釈する。あれ、夏咲以外に俺の名前知っている奴がいるなんて意外だ。ていうか、お嬢様口調なんだね。人生の中で初めて見たよ。
「それで、私になにか用ですか?」
夏咲が話を本題に戻す。
「あ、そうですわ。実は、ちょっとお願いしたいことがありますの」
深月の一言で、俺と夏咲は顔を見合わせた。これはもしかしたら、鈴原以来の生徒からの『相談事』なのではないか。
若干食い気味に、夏咲が深月の次の言葉を知ろうとする。
「そ、それで、お願いとは?」
コホン、と深月が一度咳払いをした。
「実は、この学校の風紀の改善に協力して欲しいんですの」
彼女の口から出てきた言葉はあまりにも普通だった。むしろ、生徒会長という役職を考えれば、それはいたって当たり前なことのような気がする。
「風紀の改善ですか?」
顎元に手を当て、しばし黙る夏咲。
その様子から察するに、この相談事を受けるかどうか考えているようだ。
「どうかしら?」
返答を要求する深月。
「……わかりました。風紀の改善に協力しましょう」
それを聞くと、満足げな笑みを浮かべ、
「ありがとうございますわ」
深月は右手を差し出し、握手を求めた。夏咲はそれに逡巡したが、やがて彼女の右手を取った。どうやら、交渉成立のようだ。
「風紀の改善か。大変そうだね、夏咲」
俺は他人事のように呟いた。まぁ、実際に他人事なんだけどね。事実、俺は来週からまたひきこもり生活に戻る予定だ。夏咲も深月に協力していれば、俺に構っている暇はないだろう。夏咲の声で朝起きれなくなるのはちょっとだけ残念だけど、ひきこもり生活を再スタートできるのなら、それに越したことはない。
「なに言ってるんです?」
「なにって、大変そうだねって」
「いやいや、楓くんも手伝うんですよ?」
「…………え?」
ちょっと言っている意味がよくわからないな。手伝う?
前回手伝ったのは、高島先生が目の前にいたのと、初めての相談者だったからだ。今回は二回目だし、もう充分だろう。
俺は夏咲に疑問を投げかける。
「それってどういうこと?」
「だから、楓くんは私の手伝いをするんですよ」
ゆっくりと聞き取りやすいように、夏咲が言い直した。
思わず思考が停止してしまう。
「さっき、ティッシュあげましたよね?」
「えっ、ティッシュくれたのって、それが理由っ!」
涙ぐんでいる俺に対しての優しさではなく?
「それは冗談ですが、私の目的は楓くんが脱ひきこもりをすることですので。お忘れなく」
「お忘れなくって……もう頭に染み込むぐらい聞いたよ、それ」
言うと、無表情だった夏咲が急に笑顔になった。それも、どこか悪そうな笑顔だ。
「何度でも言いますよ」
正直、ちょっと可愛かったが、俺はそんなんじゃ挫けない。
「そんな――」
俺が言いかけたとき、昼休みの終了を告げる鐘の音が鳴った。そのせいで、俺の声は遮られ、夏咲に届くことはなかった。
「では、深月さん。この話はまた明日」
「わかりましたわ。あっ、でも明日は土曜日ですわよ」
生徒会長、深月陽菜花の言葉に表情を固くする夏咲。
「そうですね……」
少し考えた後、彼女はゆっくりと自身の制服のポケットへと手を伸ばす。そして中から携帯を取り出した。
「あのメールで連絡を取りたいので、その……れれれれ連絡先を交換しませんか?」
噛みまくりだが、なんとか言い切った夏咲。プルプルと震えた手で携帯を深月へと差し出す。
友達作りが苦手な夏咲にとって、連絡を取りたいから、という大義名分があっても、自らメールアドレスを聞くということはきっとハードルが高いのだろう。
その証拠に、夏咲は顔中に変な汗をかいている。頑張って、夏咲! 俺はいつしか応援していた。
最初は訝しんでいた深月だったが、夏咲の言いたいことが伝わったのか、快く首を縦に振った。俺としては、ドキドキしながら変な汗をかいている夏咲を見れてちょっと嬉しかった。新鮮だね!
連絡先を交換した夏咲は、大切そうに携帯をポケットにしまう。
「それでは、そろそろ戻りませんと」
時計を一瞥し、深月は小走りで屋上から立ち去った。生徒会長という身分のため、生徒の模範として授業に遅れるわけにはいかないのだろう。
「俺たちも行こう、夏咲」
「そ、そうですね。行きましょう」
もとの表情に戻った夏咲は、コクリと頷くと、彼女もまた深月と同じように屋上を後にした。
彼女らに続いて俺も屋上を後にした。
こんにちは、水崎綾人です。
楽しんでいただけましたでしょうか。
もし、楽しんでいただけたのでしたら、とても嬉しいです。
では、また次回。