第20話「たまには良いこと言いますね」
翌日、久しぶりに夏咲に起こされ、俺は渋々学校に行くことになった。本当なら、放課後だけ登校して、深月が一歩踏み出す瞬間を見ようと画策していたんだけど、結局、朝から学校に行く羽目になってしまった。現実って思うように行かないよねー。
人の多さに吐き気を覚えたが、なんとか我慢し授業を乗り切った。
気づけばもう昼休み。
俺はカバンからコンビニ袋を取り出し、夏咲の方に目を向けたが彼女はもういない。どうせ屋上に行くんだし、一緒に行きたいんだけどな。どうして先に行っちゃうんだろうね。不思議だ。
そんなことを考えながら、俺は久方ぶりに屋上へと足を向けた。
彼女の名前を呼びながら屋上へ入る。
「夏咲―っ」
「人の名前を呼びながら入ってこないでください」
いつもの屋上のベンチには、ポニーテールの少女、夏咲空乃がちょこんと座っていた。相変わらずお昼ご飯はコンビニのおにぎりとコーヒー牛乳らしい。
「いいじゃん。別に減るもんじゃないし」
「減りはしませんが、あまりいい気分じゃなですね」
俺から目を逸らし、ボソッと夏咲が呟いた。
「聞こえてるから!」
「そうですか。すみません」
夏咲は小さく頭を下げたが、誠意というものがまるで感じられない。
素っ気ない態度に心を痛めていると、夏咲がふぅ、と息を吐いた。そして、彼女はそっとベンチの左端に寄る。
「いつまでそこに立ってるんですか? ここ、座ってもいいですよ」
「……へ? ホントに?」
一瞬、信じられなかった。今までは、俺が近づけばどけてくれていたけど、自分から座ってもいい、と口にするのは今回が初めてだ。
「ええ。本当です」
コクリと頷いた。……この子、優しい……。
俺は夏咲のご好意に甘え、空けてくれたスペースに腰を下ろす。
「ありがとね、夏咲」
「いえ、大したことじゃありませんよ」
言い終わると、夏咲はコーヒー牛乳を口にした。
俺も昼飯を食べようと、持ってきたコンビニ袋を膝の上に置き、中からカレーパンを一つ取り出す。
しばしの間、俺たちの間を沈黙が支配する。森閑とした屋上には、鳥の鳴き声と、風が吹き抜ける音しか聞こえない。言葉を交わさずにいる時間も、夏咲と一緒ならば何故か苦ではない。
思えば、夏咲と出会ってから一ヶ月ほど経った。初めて出会った頃はまだ残暑が厳しかったのに、今では少し肌寒い。木の葉も紅くなり、いよいよ本格的に秋になり始めている。
まさか、俺が今こうして学校の屋上で、物思いにふける日が来るなんて予想もしてなかった。ひきこもり生活を脱却するつもりは毛頭ないが、夏咲と一緒にこうして屋上で何気ないひと時を過ごすのは悪くない気がする。
「楓くん。さっきから、なに笑ってるんですか? 正直、ちょっと気持ち悪いです」
引き気味に夏咲に言われ、俺は慌てて頬の筋肉に力を入れる。
「酷いな。笑ってないよ。ちょっと、考えごとをしてただけだよ」
「考えごと、ですか?」
「うん。夏咲と出会ってから、かれこれ一ヶ月だなって」
「ああ、そのことですか」
「な、なんだか随分と興味が無さそうだね」
言うと、彼女は小さく首を横に振った。そして、横目で俺のことを見る。
「いえ、一ヶ月あっても楓くんを更生させられなかったので。これなら、まだまだ長引きそうだなーって思ったんですよ」
「残念ながら、俺はひきこもり生活をやめるつもりはないよ。今日は用事があるから来ただけだもん。それに、ひきこもることは俺にとっての信念だからね。そう簡単には、曲げないよ」
「だったら、その信念を曲げてみせますよ。必ず、楓くんが自分の意思で学校に行きたいと思えるようにね」
夏咲の目の奥に炎のようなものが見えた気がした。夏咲がその気なら、俺だって。
「望むところだよ。やれるもんなら、やってみろ!」
「ええ。やってやりますよ、楓くん」
俺は余裕綽々たる笑みで、彼女は力強い笑みで互いを見据える。
こうして、俺にはまた一つ、ひきこもり生活を続ける理由ができた。負けられないもんね。
***
帰りのホームルームが終わると同時に、俺は教室から飛び出した。二年二組にいる深月のところへ行くのだ。
二年二組の教室に着くと、ちょうど良く深月が出てきた。
「あ、深月」
「楓……」
とてもか細い声。自信のなさそうな目。今の彼女は聞くまでもなく、新たな一歩に対して怯えている小さな少女だ。
俺の名前を呼ぶなり、深月はこちらに小走りで寄ってくる。
「やっぱり……私、怖いです……」
彼女は、今にも泣き出しそうな瞳で俺を見つめる。
これから踏み出そうとする一歩が怖くてたまらないのだろう。なにせ、深月にとってこれは、小さな一歩ではなく、とてつもなく大きな一歩なのだから。
だが、あえて厳しく問う。
「うん。わかるよ。だったら、諦める?」
結局は自らの意思で決めなくてはダメなんだ。誰かに後押しをしてもらうのはキッカケだけ。結論は自分で出さなければ、それはその人の選んだ道じゃない。
深月はしばし悩むような顔をすると、まだ不安の色が払拭しきれてない笑顔を俺に向ける。
「……いえ、やりますわ。私……やります」
「そうか。それじゃあ、行こうか」
「……はい」
憂慮の面持ちで彼女は首を縦に振った。
ちょうど下校時ということもあり、廊下は非常に混雑していた。部活動に向かう者、帰宅する者、友達と仲良く語らっている者など、廊下には様々な生徒が点在している。
俺たちはそんな歩きづらい廊下を、人と人との間を縫って生徒会室へと向かう。
隣には深月。足取りは決して軽いとは言えない。
でも、しっかりと前を見据えて歩いている。
特に言葉を交わすこともなく生徒会室の前までやってきた。
数週間前のあの時がフラッシュバックする。
それは俺だけではなく、深月も同じようだ。途端に怯えた顔に戻っている。
当然だ。あの日、絶望したのは他でもない深月本人なんだから。怖がるのはしかたないよ。
生徒会室から僅かに聞こえてくる声が、心臓の鼓動を加速させる。……俺まで緊張してきた。
「楓……」
深月が俺の制服の袖を小さく引っ張る。その顔は酷く青く、今にも吐きそうだ。
「どうしたの?」
袖を引っ張る力が少しだけ強くなる。
「私……。怖いですわ。怖い……けれど……行ってきますわ」
そう言って、彼女が俺に向けた顔は笑顔だった。とても力強いとは言えないけれど、なんだか頼もしい笑顔。
新しい一歩を踏み出すには、これ以上ないくらい最高の表情だ。
ならば、俺は彼女にどう返答したら良いだろうか。……いや、特に飾らずいつもどおりに。
「うん。頑張ってね、深月。もしダメなら、その時は一緒にひきこもろう!」
親指を突き立て、極上のスマイルでエールを送った。深月なら、きっと大丈夫。
俺の行動に少しだけフリーズした深月は、少しすると口元に手を当ててクスッと笑った。
「頼もしいですわね。では、行ってまいりますわ」
最後に凛々しい目つきに変わり、大きな深呼吸を一つ。
俺は深月の隣から離れ、生徒会室の外壁に寄りかかった。ここからは、深月の戦いだ。
深呼吸を終えた深月は、ガラガラと扉を開け生徒会室へと入る。
今、一歩を踏み出すのだ。
俺は目を瞑り、よく耳を澄まして生徒会室の中の会話を聞く。……やっぱり、心配だからね。
『み、深月会長!』
最初に声を上げたのは副会長だった。続いて書記、会計と深月の存在を確認したようだ。
生徒会室から深月の声が聞こえてくる。
『み、皆さん。……その……。今までごめんなさい!』
ひと呼吸おいてから深月は、少しばかり声を震わせながら続ける。
『私……自分のことに没頭しすぎて、周りが見えていませんでしたわ。今まで誰もやったことのない企画を、と思い水道からコーラを出そうとしたり、階段をエスカレーターにしようとしたりしました。プールの水を海水にしようとしたこともありまたわね。今になって思えば、非常識極まりない企画ですわよね……。ホント、副会長が仰るように世間知らずですわ。そんな私に、皆さんが呆れるのもわかりますわ。こんなダメで馬鹿な生徒会長の言うことなんて、適当に賛成して話しを早く終わらせたいという気持ちもわかりますわ。皆さんが気を遣ってくれているとも知らずに、信用されているとばかり思っていました……。本当に、呆れるほどアホな生徒会長ですわよね。皆さんが、私のことなんて信頼も信用もしないのなんて当たり前だと思いますわ……』
言い終える頃には涙声になっていた。それに時折、生徒会室から鼻をすする音が聞こえてくる。きっと、深月は涙を流しながら語っているのだろう。
だが、彼女の話しはまだ終わらない。言わなければいけないことがまだ残っている。
『それでも、私は皆さんのことを信頼していますわ。心から大切な存在だと思っていますわ。……わかっていますわ、信頼の一方通行だということは。でも……閉じこもっている時に気づいたんですわ。……いえ、気づかされたんですわ。私にとって皆さんがどれだけ大切な存在なのかを』
生徒会室から聞こえてくるのは、深月の心からの叫びと、願い。
他の生徒会メンバーは、ただ押し黙って彼女の言葉に耳を傾けている。
間々、上擦りながら、言葉をつっかえながら、深月は願い続ける。
『おこがましいことはわかっていますわ。どうしようもない生徒会長であることもわかってますわ。もう、階段をエスカレーターにしようとしません。プールの水を海水にしようともしません。だからっ……もう一度、私を皆さんと一緒にいさせてください……。皆さんに迷惑をかけないように精一杯頑張ります。だから……』
副会長が深月の言葉を遮る。
『もう、いいですよ。深月会長。俺たちの方こそ、……すみませんでした』
申し訳なさそうな声音で、副会長はそう告げた。彼に続き、会計、書記の順で深月へ謝罪を口にする。
『俺たち、深月会長のことをわかろうとしてませんでした。会長が持ってくる企画に対して、いつもすぐに実現できないだろう、て決めつけて、考えることもしてませんでした。でも、三週間前、夏咲さんに『最低ですね』って言われて気づいたんです。自分たちの酷さに。俺たちの方こそ、また深月会長と一緒にいたいと考えています。お願いします』
瞬間、むせび泣く声が聞こえてきた。深月のものだ。
『い、いいんですの……。本当に……?』
『はい。こちらこそ、よろしくお願いします』
今度はピンク髪の会計女子の声が聞こえてきた。続けて、書記の鈴原も深月に優しい声をかける。
『お願いします。深月さん』
『み、皆さん……。皆さん……。あ、ありがとうございます…………。また、よろしくお願いしますわ……』
今度は悲しみではなく、喜びの涙が深月の頬を伝っていることだろう。どうやら彼女は自分自身の力で一歩を踏み出せたようだ。生徒会メンバーと何人たりとも切り離すことのできない強い絆で結ばれたのだ。
よかったね、深月……。
彼女の願いが叶ったことに、俺まで嬉しくなり、思わず口元が緩んでしまった。少しばかり、目頭が熱くなる。
「ここにいたんですか、楓くん」
「あれ、夏咲」
廊下の奥の方から、夏咲が歩いてきた。
「ホームルームが終わってすぐに飛び出していくのでどこに行ったかと思ったら……。って、生徒会室の前でなにやってるんですか?」
怪訝な目で俺を見てくる。なにもやってないから。そんなに疑いの眼差しを向けないで。
「深月が新しい一歩を踏み出すところを見てたんだよ」
まぁ、厳密には聞いてた、だけれど。
そう言うと、夏咲は急に俺から目を逸らし、浮かない表情になった。
「新しい一歩、ですか……。とういうことは、和解したんですか?」
「そうだよ」
夏咲は俺の目の前の壁に寄りかかり、俯きながら小さくため息を吐く。
「なんだか、今回も結局楓くんが解決しちゃったんですね」
「え?」
床に向けられた夏咲の視線は俺に合わせられることはなく、淡々と彼女の口から言葉が吐かれていく。
「鈴原さんの時も、深月さんの時も結局は楓くんが全部解決してくれました。それも最適な方法で。もし私一人で鈴原さんや深月さんの相談事に臨んでいたら、不完全な状態での解決になっていたと思います。本当に、自分が無力に感じますよ。私は……皆さんのお役に立てたんでしょうか……」
そうか……夏咲は自分が鈴原や深月になにも出来ていないって思ってるんだ。だから、いつになく悲しそうな顔で俯いているのか。
「役に立ってるよ。絶対。だって、夏咲がいたから鈴原や深月の相談事を解決できたんだよ」
確かに、今までのことを思い出してみれば、最終的になにかをしたのは俺だ。でも、それはただ、一番最後になにかをしたのが俺であるという順番の問題だ。それに、夏咲の積み重ねがなかったら、俺だってなにも出来なかった。
「どういうことですか?」
上目遣いで俺を見る。
「だって、夏咲が鈴原と里山くんのデートに付いて行くって計画しなきゃ、俺はきっと里山くんの気持ちも考えずに、鈴原だけが救われる方法を良しとしてた。それに、深月の時は夏咲がいたから俺も考えを改めたんだ」
「……私がいたから?」
小首を傾げ、眉根を寄せた。
俺はコクリと大きく頷く。
「そうさ。短い時間ではあったけれど、夏咲や深月との思い出がキッカケで考えを改めたんだ」
「そう……なんですか」
「うん。だから、夏咲は役に立ってるよ。絶対! 俺が保証するよ」
「そう……ですか。……ありがとうございます」
小さな声だったけれど、確かに聞き取ることができた。
夏咲はなんだか照れくさそうに髪の毛をいじりだす。
「ひきこもりもたまには良いこと言いますね」
「それ褒めてるの!」
「褒めてますよ」
俺から顔を背けそう言った彼女が、はたして本当にそう思っているかはわからない。だけど、こんな会話が堪らなく心地いい。
そんなことを思いながら、生徒会室の方に再び耳をそばだてる。先ほどまでとは打って変わり、談笑している声が聞こえてくる。これなら、安心だ。
「それじゃ、そろそろ帰るかな。マイホームに」
壁から背中を起こし、玄関へと続く廊下を歩く。
後ろから夏咲がついてくる。
「いいんですか? 深月さんを待たなくても」
「大丈夫だよ。だって、深月は生徒会のみんなと楽しそうにやってるじゃん。俺たちの役目は終わったんだよ」
「そうですね」
生徒会室の扉は閉められているから中の様子は窺い知れないけれど、深月の笑う声が確かに聞こえる。幸せそうに談笑する声が。それは、新しい一歩が無事に踏み出せたことを意味する。深月にとって、長かった夜がようやく明けたのだ。
「さて。一通り用事も終わったことだし、ようやく元通りの生活ができるよ」
「それって、ひきこもり生活ってことですか?」
半笑いで夏咲が俺の顔を窺ってくる。
「もちろんさ。帰ったらひとりパジャマパーティーだよ」
俺は拳を天井に突き上げ、意気込みを示す。
「そうですか。なら、私もお付き合いしますよ」
「なるほど、なるほど。……って、はい?」
予期せぬ返答に思わず聞き返した。あれ、聞き間違いかな?
「だから、私も付き合いますって。明日は土曜日なので」
「え、待ってよ。どうしたの急に? もしかして、本当にデレ期?」
「そんなわけないじゃないですか。私が楓くんにデレる意味もわかりませんし」
「だ、だよねー。えっと……だったら、どうして?」
「なんとなく、そんな気分になったんですよ。ダメでしたか?」
ダメかどうかと聞かれれば、ダメとは言えない。むしろ、女の子が来てくれるのは嬉しい。
「い、いや、ダメじゃないけど……」
「そうですか。じゃあ、大丈夫ですね」
「え? あ、うん」
一体、どういう風の吹き回しなのか、俺にはわからない。でも、不思議と悪い気はしない。
夏咲は少しだけ歩速を上げ、俺の前に出る。ポニーテールを揺らしながら、くるっと振り返った。
「さぁ、帰りましょう。楓くん」
そう言って微笑んだ夏咲の笑顔は、夕日に美しく照らされていた。
こんにちは、水崎綾人です。
今回でこの話はとりあえず完結となります。お付き合いありがとうございました。
機会があればこのお話の続編を書きたいとも考えております。
ありがとうございました。




