猫になった彼女と、僕のメモワール
君は猫になった。
「猫って自由でいいよね」
突然の言葉に、僕は面食らう。
「は?」と、思わず素の声が出た。
酷い返事だと彼女は笑うが、僕はなぜ突然猫の話になったのかという謎に思考を囚われていてそれどころじゃない。
「だってさ、しなやかだし、可愛いし、頭もいいし、着の身着のまま放浪したって誰からも文句言われないのよ」
「いや、文句言う人はいるでしょ。汚いーとか、猫の糞がどうーとかさ」
「……」
彼女は唇を尖らせた。
僕の応えは彼女の望んだ応えではなかったらしい。
まあ、彼女が望んでいるであろう返事をするつもりは毛ほども無かったんだけれど。
僕は、手元の算数ドリルを捲りながら言ってやった。
「現実見なくちゃいけないじゃん、僕らは。明日からテストなんだから」
彼女は国語のドリルを、僕の真似をするように捲ったが、それだけだ。横に転がっている鉛筆を取って、問題を進める気もないらしい。
「私小学生よ?なんでこんな真剣にテスト勉強しなくちゃいけないのよ」
「しょうがないよ。僕達は世の中の平均より少し頭がいいらしいから。ついでに親も見栄っ張りなんだ」
それを聞いて嫌気がさしたのか、彼女ははあと溜め息を吐いた。
「私この間のテストの点数のことで怒られちゃった。満点なんて、稀にとるから良いんじゃない。そんなしょっちゅう取ってたら私がした努力が報われないわ。だって、全部当てて当たり前なんだもの」
「それで殴られたの?」
彼女の左頬を、僕はちらりと見る。
あんまりじっと見るのも悪いかなと思って、気にしてない感じに軽く言ってみた。
彼女は、否とも応とも言わずに、窓の外を眺める。
「あの人たちはほんとに大事なものがわかんないんだわ。かわいそう」
そう言って彼女は笑った。
泣きそうなような、それでいて硝子のように透明で、硬くて、脆い笑顔だった。
僕はその言葉を肯定と受け取ってしまって、そうすると何だかいたたまれなくなり、ドリルを閉じた。
そんなもの、いちいち気にしていてもしょうがないのに。
猫になんてなれるもんか。
僕は無性にイライラして、立ち上がった。
「今日は帰る」
「えっ?」
彼女が怪訝そうにしたが、なんて答えればいいかわからなくて思考をやめたら、こんな言葉が唇から転がり落ちた。
「僕は猫になりたくないから」
彼女は大きな瞳をさらに見開いた。
それで、僕から視線を外して、君は嫌なのね、と呟いた。
「そうだよ」
なんだかこのしんみりした空気が嫌で、逃げ出すように部屋を出た。
後ろからその空気が迫ってくるような気がして、彼女の母親が声をかけてくるのにもろくに返事をせず、早足で家へ帰った。
らしくないことを言う彼女も嫌いだし、彼女の両親も嫌いだ。あれは親じゃない、ただのキョウイクシャだった。
その後、僕は両親に怒られたが、聞く気にならず仏頂面を見せつけてやった。たぶん、勉強を放り出してさっさと帰ってきたことに怒ってるんだろう。
今は何を言ってもダメだと判断したのか、母さんは夕飯作りに戻って行った。
僕は自分の両親のことは嫌いじゃない。
ご飯は美味しいし、マナーや勉強についてはとてもうるさいけど、僕のことを考えてくれないわけじゃないから。
彼女の両親は、彼女のことを考えているのかな。
母親の方は優しい、と思う。僕には。
父親は会ったことがないから知らないな。
でも、彼女の頬に痣をつけたのは父親だ。たぶん。
その日は彼女と彼女の家族のことを考えながら眠った。
◆ ◆ ◆
次の日を、僕は暗雲垂れ込める心を抱えて過ごすことになった。
何ということは無い。謝る機会を逸しただけだ。
だって、別に喧嘩をしたわけじゃないだろ。変な空気になっただけ。謝る意味が分からない。
強いて言えば、その変な空気にしてしまったことを謝るぐらいか。
でも、先に変な空気の入り口を作ったのは彼女の方だ。
謝りの電話をしようとして弄っていた子機を置いた。
こんな気分じゃ、嘘のごめんねになってしまう。
結局電話を掛けられないまま、一週間が過ぎた。あれから彼女の家には一度も行っていない。
彼女の家の方からもお呼びはかからなかったし、一人で勉強した。
そんな退屈な日が半月続いた頃、2階の自室から出た僕は、我が家の空気がざわついているのを感じて、リビングに下りた。
様子がおかしい。母さんは受話器を片手に困ったような顔をしているし、父さんはソファに険しい顔で座っている。
「どうしたの?」
受話器を持っているという理由でとりあえず母さんに駆け寄ると、母さんは僕の頭に手を置いて、神妙な顔つきで言った。
「あのね、雪ちゃんがいなくなっちゃったらしいのよ」
えっ!と僕は声を上げた。
彼女が、いなくなった?
心臓が面白いように跳ねて、脳ははてなで埋め尽くされた。
どうして?いつから。もしかして、僕のせい?
そう思った途端、僕は駆け出していた。
ドアも閉めずに出ていく。
母さんの呼び止める声と、父さんの驚いたような声が追いかけてきたが、そんなものに反応している余裕はない。
全力で走り続けて、彼女の家へ飛び込んだ。
突然現れた僕に驚いた彼女の母親は、憔悴しきって注意する気力もないようだった。
小学生の女の子が、たった一人でいったいどこへ行けるというのか。
彼女の家は、大きな玄関を抜けるといろんな花が植えられた庭が広がっている。
彼女とよく花の匂いを嗅いでは、これはいい匂い、これは変、などと騒いだものだ。
それを思い出して、なんだか鼻がつんとする。
荒い息を整えながら周りを見渡して、僕は息をつめた。
一瞬、苦しいのも忘れた。
━━━━━なんだ、いるじゃないか。
庭に、白い小さな猫が、いた。
にゃあ。僕を見て鳴く。
わかってしまった。
あれは彼女だ。
彼女は、望み通り猫になったのだ。
どうして彼女の母親は気付かないんだろうと思う。
こんなに彼女のままなのに。
彼女は僕の横をすり抜けて、庭へ下りる石段に座っている母親にすり寄った。
母親は白い猫を膝に抱き寄せ、彼女に言った。
「どこに行ったのかしら、あの子。勉強ばっかりさせていたから、嫌になってしまったんだわ…。もっと遊ばせてあげれば、ううん、もっと遊んであげればよかったのよね…」
母親の目に溜まった涙がきらりと光った。
初めて、このひとはお母さんなんだと思った。
そのひとの腕の中で、彼女は満足そうに寛いでいる。
このままでいいのかな。彼女はそこにいるのに。
母親が、なんだか可哀相だと思った。
だから僕は、母親の横に飛び乗って、勢い込んで言った。
「大丈夫だよ、彼女はここにいるもの」
母親は、きょとんとした顔で僕を見た。
何を言っているのかわからないといった顔に、僕は歯噛みする。
「この白い猫が雪ちゃんなんだよ。おばさん…っ」
母親は僕の頭を優しく撫でた。
違う、そうじゃない。ただの慰めで言ってるんではなくて。
「ねえっ…!」
彼女がにゃあにゃあ鳴いている。まるで無駄だとでも言うように。
僕はたまらなくなって叫んだ。
「僕の言ってること解ってよ!!」
にゃあ!と彼女が一際大きく鳴いた。
その言葉を発した自分に、愕然とした。
は、と口から無意味な吐息が漏れる。震えているせいだ。
彼女が首筋を舐めてきて、僕も彼女の首に顔をうずめた。
そうして、彼女の母親に訴えるのをやめる。
僕は、全てを理解した。
うるさく鳴いていたのは、彼女じゃない。
必死に啼いていたのは、僕で。
気づいて欲しかった猫は、僕の方だったのだ。
大きな家に潜り込んで、退屈そうな彼女を見つけた。何となく居心地が良くて、退屈になるといつも彼女のところへ訪れた。
いつからか一緒に勉強をしている気になって、自分が人間だと思い込んだ。
僕の飼い主をはじめとして、人間達には僕の言葉が分からない。僕は人間のことをちゃんと理解できるのに。
それが寂しくて。
でも、彼女は違った。
なんだか、僕のことを解ってくれているように思った。
僕は、はっとする。
あの時、彼女は何て言った?
「僕は猫になりたくないから」
「君は嫌なのね」
そう言った。
ああ、彼女はやっぱり、僕の言葉を理解してくれていたんだ。
猫であることを忘れた猫。彼女の目には、僕は酷く滑稽に映っていたに違いない。
彼女は僕と同じ猫になれて、とても満足しているみたいだった。
僕も嬉しい。彼女と完全なる意思疎通が出来るようになった事が。
でも、彼女は猫に飽きてしまったら、また人間に戻ってしまうだろうか。
まあ、先のことを考えるのはよそう。
彼女が人間に戻ったとしても、僕らはきっと変わらない。
そして彼女は勉強をやめて、この家族のもとで今より幸せに生きる。
彼女の望んだように、僕も猫に戻って、着の身着のまま生きることにしよう。
◆ ◆ ◆
そうして、彼女は僕と共に猫のまま生きた。
彼女は何故か僕より先に、猫のまま死んだ。
彼女は猫で幸せだったのか、僕にはわからない。
でも、着の身着のまま生きて、家族からも可愛がられて一緒に遊んでいる姿はとても幸せそうに見えた。
彼女が幸せだったなら、僕もそれでいい。
猫も捨てたもんじゃないって、そう思える。
これが猫になった彼女の話。
僕の回想録。
久々に執筆したら、こんな物語。
思いつくままにだかだかと書いたわけです。
普段は展開や終わり方などを決めてから書くのですが、何故かこれは何も決めずに書き出して、最後は彼らが勝手に動いていきました。
そんな着の身着のまま出来上がった物語ですが、感想をいただけましたら、幸いです。
今後の励みにさせていただきます。
こんな拙い文章に、お時間をくださり、そしてここまでお読みくださった方、ありがとうございました。