愚帝礼賛(中)
「終に妃が帝の御子を宿した。」
という噂が後宮に広がったのは、先帝の喪が明ける二月程前のことであった。子を宿した妃が誰かはまだ知らされていない。男児を産んだ妃が皇后になるのだろう、とは元より言われていた事だ。御子を宿したという妃は今、皇后の椅子に最も近い。誰がそうなのか、憶測ばかりが飛び交っていた。
「帝は喪が明けたら皇后を決めるって仰ってたよ。」
「では、産まれる子が男児でなくても、その御子の母を皇后とする気なのか。」
「若しくは全然違う人を新しく連れてくるのかも。」
「しかし御子の母は、国母となる可能性が高い訳だ。」
礼熹と千樹が話している。薔花はつい先日、月の障りが来たばかりだ。帝の御子を宿したという妃が羨ましく、孕まぬ我が身は恨めしい。慶事を素直に喜べぬ自分の浅ましさに、薔花は落ち込む一方であった。
「薔ちゃん元気ないね。」
と言われても、上手く返事もできぬ。皇后という身分が欲しい訳ではない。ただ、帝の隣にありたい、帝との愛の証が欲しい。だが何よりそれこそが一番の我が儘だと薔花は思うのだった。
「ところで、芙蓉殿が珍しく静かだな。普段なら此処等で毒舌が出そうなものだが。」
千樹が言った。確かに今日、芙蓉はまだ一言も発していない。
「芙ちゃんどうしたの?」
「……実は私、月の障りがまだ来ておりませんの。」
皆一瞬言葉に詰まった。
やがて千樹が、彼女にしては珍しくおずおずと訪ねた。
「そ、れは、帝もご存知の事なのかい?」
「ええ、先日ご相談させていただいて。侍医が診て下さって、そうしたら……」
芙蓉はそのまま口をつぐんだ。
「お、おめでとうございます!」
薔花は叫んだ。そして自分に言い聞かせた。これは慶事である。しかも自分の友人の。芙蓉は美しく頭の回転も早い才色兼備な女性だ。言葉は厳しいが心は優しい。帝を隣で支えるにはぴったりだ。
他の二人も薔花の勢いに押されたのか、次々と祝いの言葉を述べている。
その日薔花は眠れなかった。目を閉じると涙が溢れてきた。
しかし事はこのまま平和には進まなかった。この日から芙蓉が、度々嫌がらせを受けるようになったのだ。
「皆さん、そんなにぴったり守っていただかなくても大丈夫でしてよ。」
芙蓉は穏やかに言う。
「でも先日は、食事に鼠の死骸が混入されていたではありませんか!」
「その前は寝台に芋虫がいっぱい入れてあったし。」
「部屋の角に巫蟲の呪い箱が置いてあることもあったな。」
芙蓉がされた嫌がらせは、幸いにも(と言うべきか)どれも毒、暴力といった重大な物ではなかった。しかし、毎度毎度の事では心労も溜まる。母体に影響が出ては大変だ、と薔花は考えた。なので、同じ様に考えたであろう礼熹、千樹と共に、なるべく芙蓉の側を離れない様に行動しているのである。
二人の活躍は素晴らしい。平気で布団から芋虫を摘まんで箱に回収していく礼熹。蛇、百足等が蠢く呪い箱を庭にぶちまける千樹。薔花には、食べられなくなった食事の代わりに自分の食事を分け与えることくらいしかできなかった。私って役立たず、と落ち込み、却って芙蓉に励まされる有り様である。
「薔花様が私を心配してくれるだけで嬉しいですわ。けれど、私の代わりに落ち込まないでくださいな。」
やはり芙蓉は帝と並ぶにふさわしい。そう思う度、薔花の胸は痛むのだった。
「私、お腹に御子がおりますの。」
そう白麗から言われて、薔花は初め意味がわからずぽかんとした。
「……帝のですか?」
「当たり前でしょう。」
不快そうに白麗が言う。
言われて薔花は気付いた。孕んだのが芙蓉だけとは限らない。現に、帝は今も薔花の元に通って来る。
「……おめでとうございます。お体にお気を付けて。」
自分の声を遠くに感じる。
勝ち誇った顔をして、白麗は遠ざかっていった。
その夜、帝の訪れがあった。
「薔花は俺がお前に皇后になってくれと言ったらなってくれるか?」
薔花は哀しかった。帝に御子がいなかった頃ならば、喜んで頷いたであろう。帝の隣ならば、辛い事も耐えられる。
けれど今は、御子の母が皇后になるべきだと思った。
「御戯れを。私、皇后様にも御子様にも誠心誠意お仕えします。だからどうか私のこともお側に置いて下さい。」
「俺が薔花をどこかにやる訳ないだろう。それから晴嵐と呼べと言っている。つまり嫌ではないんだな。」
今更そんな夢を見せるのは止めてほしかった。が、そのまま帝に貪られ、薔花は何も考えられなくなった。その夜は夢も見ず、深く眠った。隣に暖かい体温があるのが幸せだった。
翌朝、帝は爆弾を投下した。
「皇后を発表する。妃を全員集めろ。」