愚帝礼賛(前)
大陸の東、彩の国は、西との交易も栄え、文化は爛熟し、大国の名に相応しい活気に充ち溢れていた。一方で貧富の差は拡大し、役人に不正は横行。年々治安も悪化しており、易姓革命を望む声もちらほらと聞かれ始めていた。
彩の君主が崩御したのはそんな頃である。死した帝には、孝節帝の謚号が贈られた。
さて、新たなる帝が立ったのだが、先帝の死後、足掛け三年は喪に服する期間である。とはいえ政務はそのまま引き継いで行うのが普通であるが、今上の帝はそうでなかった。父たる孝節帝の死後、服喪を理由に政務を怠り、ふらりと姿を消したかと思えば、後宮に入り浸る日々。今上帝への不満が募るのも最もであった。
今上帝の後宮には美姫ばかり。しかし皇后は未だ定まらず、跡継ぎたる子も未だ無し。宮廷は益々乱れると思われた。
これは、明亀二年、世に彩国中興の祖と言われる広徳帝が即位して間もなくの逸話である。
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崔薔花が後宮に参内したのは、孝節帝が崩御する三月程前のことであった。
取り立てて美人でもない、取り柄といえば真面目で勉強熱心な所くらいの自分に、美姫を侍らす帝(当時は太子)が通うはずもないと薔花は考えていた。そもそも帝に侍る女の身、真面目も勉強熱心も寧ろ欠点にしかならぬ。だから、帝が早々に自分を寝台に組み敷いたのも、その後も度々通ってくることも、薔花には未だ不思議でならない。
帝に嫁いで二年が経ったが、薔花にも他の妃達にも懐妊の兆しが見えぬ。今上帝は不能ではないか、という噂が、宮廷内では囁かれていた。
薔花は、今上帝が政務を顧みない暗君であるという世評をもどかしく感じていた。薔花と二人で話すときの帝は世間に明るく博識、明確な意志を持つ、名君の器を感じさせる男なのである。
だから、帝に会うとつい言ってしまうのだ。
「帝、いつまでもここで寝ておらず、朝見なさいませ。」
「まだ喪中だ。家臣に任せるよ。俺は父帝を喪った哀しみで、政務も手につかぬ。」
この調子だ。しかも、面白そうに目玉をくりくりさせながら言うのだ。
「ほら、お前が慰めておくれ。それから俺のことは、晴嵐と字名で呼べと言ったであろう。」
「帝!」
帝がいない間は、後宮で仲良くなった妃達とお茶を飲みながら、お喋りに興じることも多い。夫を取り合う仲ではあるが、中には気の会う者もいるのである。李礼熹、王千樹、黄芙蓉は、薔花の特に仲の良い妃達であった。
「帝はどうして政務について下さらないのでしょうか。いつもお願いしておりますのに。」
つい彼女らに溢してしまう。
「いつもお願いしてるのなんて、薔ちゃんくらいだと思うよ。」
「一応最低限の事はしていると聞いている。」
「何故薔花様はそんなに帝に政務についてほしがるんですの?帝が忙しくなり、こちらへの足が遠退くかもしれませんのに。」
三者三様の回答である。
「帝が政務を怠れば世の乱れ。民草の不幸です。それに、悔しいではありませんか!帝はあんなに素晴らしい方なのに、皆から暗君などと陰口を叩かれて……」
「薔ちゃんは帝が大好きなんだね。」
皆に生暖かい目で見られ、薔花は赤面した。
「だが、度々同じ耳に痛い事を言われて怒らぬとは、帝も中々器がでかいな。」
「口酸っぱく言われても実行しないところはふてぶてしいと思いますわ。」
彼女らの歯に衣着せぬ物言いに感心しているうちに、話題は変わっていくのであった。
帝は後宮の妃の元にはなるべく平等に通っていた。薔花の元に来ない日には別の者の所へ通っているはずである。そういう夜には、なるべく帝の事は考えないようにしているが、夜中ふと目を覚ました折などは、隣に温もりが無いのを寂しく思い、他の誰彼と体温を分かち合っているかと思うと、心の臓や鼻の奥がつきりと痛んだ。
薔花が後宮の中庭で遅咲きの梅を愛でていると、向こうから華やかな一団がやって来た。先頭は名家劉家の娘、白麗である。
「まぁ、誰かと思えば薔花様。余りに質素なお着物なので、女官かと思いましたわ。」
面倒な相手に会ったな、と薔花は思う。この集団はよく薔花や礼熹達に絡んできて、言いたい事だけ言って去っていく。薔花はいつも黙って耐えるのだが、何より嫌なのは、白麗が帝の閨での様子を自慢げに語る事だった。
「帝は私を優しく抱いて下さって」
「私のご奉仕に喜ばれ」
「私を皇后にしてくださると」
「朝まで放して下さらず」
この様な話を聞く度、嫉妬が胸に渦巻き、薔花は悲しくなるのだ。
「貴女はとっとと身を退きなさいな。」
白麗の話は終わった様だ。もう梅を愛でる気にもならず、薔花はとぼとぼと部屋に帰るのであった。