腫れた薬指
青年は彼女の机の上に積み上げた書籍をできるだけ音をたてないように置いた。
「あの、これで全部です」
「ありがとう。ごめんね、手伝わせて」
女性は大学ノートにペンを走らせたままそう言った。声は優しかった。
「いえいいんです。僕暇でしたし。先輩大変ですね、レポート」
「うん、期限が近いからねー。ペンだこが痛くなってきちゃった」
そういいながらも手を止めない。下をずっと向いているから赤い眼鏡が鼻からずりさがっている。指の関節のでっぱりを見つめながら青年は口を尖らせて言う。
「僕も、一年早く生まれてたらな……」
「え? なに?」
「なんでもないです! 先輩手を止めてください」
女性は青年を見つめ手を止めた。青年はそっと彼女の左手を手に取って、薬指のペンだこを指でなぞった。ぷくっとでっぱったそれは赤く肌が乾燥していた。青年は彼女の瞳をじとっと見る。
「先輩無理はしないで。僕なんでもしますから。あなたのためならなんでも」
「……谷口くん?」
「自分の体を大事にして。あなたの薬指はこんなに腫れている。指輪が、入らないじゃないですか」
「え、……あぁ結婚指輪? そんなまだはやい話だよ、相手もいないし」
「でも、」
「ペンの持ち方が悪いのは生まれつきでね。もうでっぱってるのよ、そこ」
女性は眼鏡をくいっとあげて、苦笑した。目が細くなって眉を寄せて、困ったように。
「……じゃあ、きつすぎない指輪がいいですね」
「でもわたし普段から指輪しないし。それこそプレゼントでもされないかぎり」
「そうですか」
「あの谷口くんそろそろレポート書きたいんだけど」
「あ、すいません」
青年はきゅっと彼女の細い指を握った。それからぱっと手をはなす。彼女は気にすることもなく席に座りペンを持ち、また続きを書き始めた。
青年は彼女の肩に流れる髪を見つめた。さらさらしてて柔らかそうな黒い髪。つい手が伸びて青年の指が彼女の髪に触れそうな時、
「谷口くん、ありがとう。ゼミはないの? もう行っていいわよ」
「あ……そうですよね。そうでした」
「そうでしたってあなた、今日何しに来たの」
女性は肩をすくめてまた笑った。小さく軽快に。青年はあくまで真面目な顔で背筋を伸ばして口を開く。
「先輩に図書館の本が高くて取れないから取ってってメールが来たから来ました」
「それはそうだけどさ、あなたがゼミがある今日にお願いしたんだからあるはずよね? 行きなさいよ、わたしレポートしてるからあなたの楽しいお話し相手にはなれそうにないもの」
「先輩のじゃましちゃうだけですもんね。わかりました」
「うん、ほんとうにありがとう」
「じゃあ、先輩。書きながらでいいからきいてください」
「ん、なぁに?」
青年は女性が顔を上げないのを確認してから静かに、呟くように告げた。
「好きです」
「え」
「じゃあ先輩、レポート頑張ってください」
青年は本の一つを掴んで顔の前に広げておおよそリンゴのように真っ赤な顔を隠した。
そして踵を返してすたすたと図書館を出ていく。
ある日曜の出来事だった。