午前零時の鐘
おばあさんが言ったとおり、鐘の音が止むと途端に美しいドレスは消え失せ、輝かしい馬車はかぼちゃにもどり、馭者はネズミになった。
ソフィアは、小さくため息をつき、エプロンのポケットからクルミを出して、ネズミにあたえ、お疲れ様とつぶやいた。そして、空になったポケットに、片方だけ残ったガラスの靴を突っ込んだ。
「この寒空に裸足になるとはね」
ソフィアは、かぼちゃを抱えて、石畳を歩いた。幸い、魔法が消えたのは家の近くだったので、帰りついたらお湯を沸かして足を温めれば、しもやけになることはなさそうだ。
今日はお城で年越しの舞踏会が開かれている。義理の母と姉二人は、めいいっぱいのおしゃれをして出かけて行ったので、ソフィアは久しぶりにゆっくりと一人の時間が楽しめると思っていたのだけれど、どこから入ってきたのか、こぎれいな服装のおばあさんが暖炉のそばで微笑んでいた。
「あなたも舞踏会にいきたいでしょ?」
第一声がこれである。
ソフィアは失礼だと思いつつも、少々、このおばあさんはボケているのだろうなと思った。なので、適当に話をあわせる。
「そうですね。でも、わたしは舞踏会に出られるようなドレスをもっていないの」
「大丈夫、準備は万端。怠りなしよ」
そういってソフィアの手を取ると庭に出た。
そこにはかぼちゃと二匹のネズミが、ちょこんと座っている。
(えーっと…これをどうするつもりなわけ?)
ソフィアが怪訝な顔をしていると、おばあさんはにっこりと笑って黒いタクトを一振り。あっという間に、かぼちゃは馬車になり、ネズミは馭者になった。さすがのソフィアも、びっくりしたが一瞬にして、これは夢ねとため息をついた。
けれど、おばあさんが二度目にタクトをふると、ソフィアはあっという間に美しいドレス姿になった。
「あの、これはいったい?」
「もちろん、魔法よ。ああ、そうそう。大事なものを忘れるところだったわ」
おばあさんは、どこから出したのか、ガラスの靴を一足手にして、ソフィアの前にひざまずく。
「さあ、これを履いて」
ソフィアは割れるんじゃないかしらとおそるおそる足を入れてみたが、ガラスの靴にしては暖かくやわらかい感触だった。
おばあさんは、ぴったりねといい、一つだけ忠告をして姿を消した。その忠告こそが、午前零時の鐘の音である。十二回ならされる鐘の音が、終わると魔法は消えるからというものだった。
魔法の解けたソフィアは、裸足でかぼちゃを抱えて家に帰る羽目になったが、悪い経験ではなかったわねと思った。確かに噂通り、王子様は素敵な人だった。容姿だけでなく、言葉の端々に知性と思いやりを感じる。懸命にソフィアを口説こうとしているところも、なかなか大人の男としては可愛らしい一面であり、十分に魅力的ではあった。
けれど……ソフィアは足を止めて、路地を覗き込む。ひとつふたつ、丸くなって横たわる人が見えた。生きているか、死んでいるかはわからない。教会にさえ、入れなかった人だろう。
王都であるこの街でさえ、飢えて死にかけている大人や子供がいるのである。残念なことに、王子はその現状をしらない。誰もがこの現実を彼に隠しているせいだ。そして、ソフィアにとってその事実が、彼の魅力を損なうのに十分なほどの汚点なのである。
(気づいてくれるとありがたいのだけど……)
ソフィアは小さなため息をついて、家路を急いだ。もうすぐ我が家というところで、家の前で困ったように立ちすくんでいる人影があった。満月のおかげで、その人影が同じ年頃の少女だとわかった。それだけでなく、真っ白いきれいな寝間着に裸足という姿は、ただ事とも思えない。
「どうなさいました?」
ソフィアはなるべく優しい声で、たずねると少女は驚いて逃げようとした。
「待って!うちに用事があるのでしょう」
そういわれて、少女はおびえた蒼い瞳でソフィアを見た。
(ああ……なんて絶望的な……)
ソフィアは、少女の手をひっつかむと強引に家へ連れて行く。
(あら?わたし、暖炉の火を消し忘れてたかしら?)
窓から明かりが漏れていたが、とにかく家の中へ入った。部屋の中は暖かく、暖炉の前で揺り椅子に沈み込んだ父の姿があった。暖炉の火はおそらく父が入れたのだろう。疲れて眠っているようだが、仕方ない。
ソフィアは、かぼちゃをテーブルにおき、父を叩き起こした。
「……ひどいよ。ソフィ……僕はつかれているのに……」
寝ぼけ眼の父にごめんなさいねとソフィアは微笑む。
「でも、お客様なの。その席を譲ってあげて」
父は眠そうな顔で少女を見た。そして一気に眠気がふっとんだように立ち上がった。
「リリア様ではありませんか!そのような格好でいったい何が……」
「アンダーソンさん……私……」
蒼い瞳から涙がこぼれる。おろおろする父をソフィアは、押しのけてリリアを揺り椅子に座らせた。
「お父様のお知り合いなのね。とにかく体がひえきってらっしゃるの。わたしは桶をとってくるから、お湯を沸かしてちょうだい」
ソフィアは父にそういうといそいそと台所へ向かう。父は娘に言われるがままに、暖炉にやかんをかけ、小さな鍋にミルクを入れて温める。ミルクが暖まると、お客様用の一番きれいなカップに注いで、お砂糖を一匙加えるとリリアにすすめた。
「これを飲んでください。落ち着きますよ」
リリアは涙をぬぐってカップを受け取った。
ソフィアが大きめの平たい桶を暖炉の前において、やかんの様子を見る。思ったよりはやく熱くなったようで、やかんのお湯を桶に注ぎ、水差しの水で温度を調節してリリアに足をいれさせた。そして、タオルと靴下と靴を二人分用意して、ソフィアも桶に足を入れた。
「さて、お父様。こちらのお嬢様はどなた?」
「クロム男爵の三番目のお嬢様だよ」
リリアは、申し遅れました、リリア・クロムですと深々と頭を下げた。
「ああ、あなたが……父を首にしようとした男爵に口添えしてくださったお嬢様でしたか。その説は大変ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「いいえ、結局、私の助言もむなしく……アンダーソンさんには本当に申し訳なく思います」
「リリア様、あなたは何も悪くありません。仕方がなかったのです。もともと私をお雇いになったのはヘーゼル様ですから……」
ソフィアはぬるくなった桶の湯にやかんのお湯を足す。
(よくある話だわ)
父に家の帳簿を見てほしいと依頼したのは、リリアの祖父であり、息子のガリアではない。ガリアは、いわゆる放蕩息子でヘーゼルの頭痛の種だったが、武功で爵位をいただいたクロム家を三代目でつぶすわけにはいかないと、父を招いて経済の勉強を息子に強要した。それが、失敗のもとでもある。もともと、父親に反発するばかりのガリアが商人のいうことなど、聞くはずもない。
結局、ヘーゼルが亡くなってしまい、目の上のたんこぶのとれたガリアは、父をとっととお払い箱にしたのである。そのとき、果敢にもガリアに意見し、父の解雇を止めるよう進言したのがリリアだった。彼女は祖父のいいつけで、父から経済について学んでいたのである。
父はよく褒めていた。素直で聡明なお嬢様だと。そんな彼女が、寝間着一枚で靴も履かずに家を飛び出してきたからには、かなり深刻な事情があるのだろうとソフィアは思った。
「さ、足を拭きましょうね。靴下も靴もわたしのもので申し訳ないのですが、我慢なさってね」
「ごめんなさい。不義理をしたのは私の父なのに……こんなに親切にしていただいて……」
リリアは顔を覆い、声をこらえて泣いていた。
「何をおっしゃいますやら。不義理をしたのは、あなたではないわ。それにうちへ来てくださって本当によかった。一時期とはいえ、父の大事な教え子のあなたが凍死でもなさったなら、立ち直らせるのにわたしが骨を折ることになりますからね」
「ソフィ……どうして君はそう一言も二言も多いんだい……僕は君をお嫁に出すのが心配だよ」
父は娘に苦言をいわれて、ため息をついた。
「しかたがないでしょう。お父様は商売は上手だけど、大事な人を失くすと途端に気力を失うのだから。それにうちにはお金を湯水のように使う人たちがいるんですからね。馬車馬のように働いてくださらないと破綻してしまいますわ」
ソフィアは、できるだけ明るく父をこき下ろす。父もそれをわかっているからこそ、リリアにあなたの爪の垢でも飲ましてやりたいと大きくため息をついてみせる。リリアは懸命に涙を拭き、アンダーソン親子に微笑んでありがとうと言った。
「お礼なんていりません。それより、事情を聞かせていただけませんか。私にできることがあれば、貴女だけでもお助けして差し上げたいのです」
リリアは、家の恥をさらすことをお許しくださいと十字を切って、二人にクロム家の現状を話した。