後日談 名前
タイトル『~の~』にしたかったのですが、思いつきませんでした……後日談で単語一つは初めてです。って思ったら『喧嘩』って付けてましたね、今(2月12日)に気づきました。
少し長めですが、二話にするには短すぎたので一話にしました。特別なことは起こらず、日常(?)の話だと思います。
今回の話はセリアが主人公……なのですが、セリアがちょっと嫌な子のような。どうしてもあの子が出てくると嫌な子になってしまうんですよね。
窓の外を見て、エデが残念そうにつぶやいた。
「あ、もうこんな時間かあ。ルーシェルたちと過ごすと時間が早く感じるのは何でかな?」
「ディーちゃん、そう言ったの何回目?」
セリアが笑いながら言うと、何回目かな、とエデも笑う。時間が早く感じるのはわかるが、セリアがエデと同じようなことを言ったのはせいぜい三回だ。なのにエデは、もう数え切れないほど言っている。それほどまでに彼女が自分たちと過ごすのを楽しんでくれていると思うと、嬉しくて更に笑ってしまった。
エデが失恋してから、一月余り。どこか悲しげでいながらも、エデは以前よりも明るい笑顔を見せるようになっていた。長年の片思いから解放され、すっきりしたのだろう。
失恋してから一週間ほどはエデに気遣っていたセリアだが、最近では普段どおりに接するようにしていた。
毎日というわけではないが、ほとんどの日にエデとクロードは来る。今日もまた、二人は遊びに来たのだ。ルーシェルとクロードをからかったり、メリアから仕入れた良い男の情報をエデに教えたり。色々と楽しんでいるうちに日が暮れてしまった。
「残念だけど、そろそろ帰らなきゃ。ほらクロード、本読んでないで帰るよ?」
立ち上がったエデは、クロードが読んでいた本を取り上げる。クロードは恨めしげにエデを見て、それから窓のほうへ視線を移すと、ため息をついて立ち上がった。遠くの空はうっすらと橙色をしていて、じきにその色さえもなくなりそうだ。
彼が立ち上がったのが合図のように、同時にセリアとルーシェルは立ち上がった。些細なことだが何だかおかしくなって、ルーシェルを見ながら小さく笑う。彼女も同じ気持ちだったのか、可愛らしく微笑んだ。
「じゃ、二人ともまたね! ……あ、言い忘れてたけど、明日は用事があって来れないんだ。ごめん、明後日は来るから」
エデは一瞬にして笑顔を曇らせた。毎日欠かさず遊びに来ていたら逆に心配なので、謝らなくとも別にいいというのに。
「エデもクロードも、たまには僕たち以外の人たちと過ごしたほうがいいと思う。謝る必要なんて全くないよ?」
「ルーちゃんの言う通りよ。私たちだって、こんなふうに毎日を過ごしてたら駄目な人間になりそうだし。……用事があるのって、ディーちゃんだけ? それとも、クロ君も?」
クロードも用事があるのなら、久しぶりに二人と一匹で過ごすことになる。話したり遊んだりするのもいいが、ゆっくり昼寝でもして過ごすのもいいかもしれない。
まだ返事を聞いていないのに、セリアはそんなことを考えて幸せな気持ちになった。エデとクロードには悪いが、セリアはやはりルーシェルとノギスと過ごすのが一番気楽でいられる。
「いや、俺はない」
クロードは首を横に振った。
すうっと幸せな気持ちが小さくなってしまったが、それを顔に出さないよう努力する。彼は悪くないのだ。ただ、セリアの気持ちを読み取れなかっただけで。
ちらっと隣を見ると、ルーシェルは嬉しそうにしていた。
(……ルーちゃんが嬉しいのならいいかな)
ルーシェルが気持ちを自覚するのはいつだろう。自覚したら、からかうのがもっと楽しくなるのに。
「セリア? な、何かちょっと寒気がしたんだけど。何考えてるの?」
「さあ、何かしら。ルーちゃんには、まだ教えてあげない」
そう言いながらエデを見る。彼女はその意図にすぐに気付いたのか、楽しげに笑った。クロードは嫌な予感でもしたのか、眉間にしわを寄せる。こういうときだけ勘がいいのはなぜだろうか。
セリアが少し首をひねっていると、エデが言った。
「じゃあ二人とも、また明後日」
「うん、また明後日」
「また明後日、ディーちゃん。……と、クロ君はまた明日」
手を振って別れの挨拶をしながら、二人のことを見送る。エデは元気よく手を振り返してくれたが、クロードは小さく振るだけだった。性格の違いとは面白いものだ。
完全に二人が見えなくなったとき、ふと思い出したようにルーシェルが訊いてきた。
「そういえばセリアって、この家に住むようになってから一人で出かけたことあったっけ?」
「……ルーちゃんがいないときに、暇だから出かけることはあるわ」
彼女の問いに、思わず顔をしかめてしまう。ルーシェルが家にいないとき、ノギスをからかうことに飽きたらセリアも出かけることにしていたのだ。
しかし、だ。
必ずと言っていいほど、会いたくない人物に会ってしまうのだ。出かけるたびに、今日は会うだろうか会わないだろうかと不安になってしまうのが嫌で、今では出かけないようにしている。あの男のせいで不安になるのは悔しいからだ。それくらいならば、出かけないほうがいい。
「へえ、あるんだあ」
不自然なところで会話が終わってしまい、セリアは小さくため息をついた。どうやらルーシェルは、セリアに明日出かけてほしいらしかった。クロードと二人きりになりたいからなのかはわからないが、無自覚にそう思っているとしたらその願いを叶えてあげたい。
「……明日私は出かけるわね。ノギス君にも家の外にいるよう、後で話しておくから」
「え!? セ、セリアに出かけてほしくて訊いたわけじゃないよ!」
ルーシェルはぶんぶん首を振る。
「いいの。ルーちゃんとクロ君が二人きりで、どう過ごすのかも楽しみだから」
二人きりで、はたして会話は続くだろうか。というより、そもそもクロードは会話をしようとするだろうか。無言で本を読み始める彼を見て、おろおろとするルーシェルが目に浮かんだ。きっとそうなったら、ルーシェルはこっそりとクロードが読んでいる本を盗み見るだろう。
からかうようにセリアが言うと、ルーシェルは顔を真っ赤にさせた。
「ふたっ!? ふ、二人きりでもいつも通り過ごすだけだよ!」
「そんなに顔が赤かったら、全く説得力がないのだけど」
一体何を想像したというのか。
ルーシェルは「うぅ……」とうなだれた。手を頬に当てて、顔の熱を確認している。手は白いので、より顔がどれだけ赤くなったのかわかる。
ルーシェルがそうしているうちに、セリアはノギスに声をかけた。丸くなってはいるが、眠ってはいないようだった。
「ノギス君、話は聞いてた? 明日、ルーちゃんたちのために出かけてほしいの」
「……わかった」
あれ、とセリアは目を瞬いた。今気付いたが、ノギスの声を聞いたのは久しぶりだ。しかも今の声に力はない。
この頃眠っていることが多くて元気がないが、まさか病気にでもかかっているのだろうか。
心配になって、セリアはかがんでノギスの顔を正面からじっと見た。人間とは違って、猫は顔を見るだけでは具合が悪いかあまりわからない。しかしどこか疲れているように見えるので、病気にかかっている可能性はある。
「心配しなくて大丈夫だ」
セリアの不安を感じ取ったのか、ノギスは立ち上がって大きなあくびをした。
もしかして、と少し思いついたことがあって、セリアはノギスに小声で尋ねた。
「……ねえ、ちゃんと食べてるの?」
「食べてる」
即答なのが、逆に怪しい。
「明日、魚かお肉買ってくるわ」
今の時期はどちらもあまり売っていないが、探せばあるはずだ。
セリアたちが話しているのが気になったのか、ルーシェルが近寄ってくる。
「こそこそ何話してるの?」
「んー、何でもないわ」
考え事をしながらだったので、返事が少し適当になってしまった。
魚も肉も高い。ルーシェルに心配をかけるわけにはいかないから、彼女にお金は借りられない。セリアが持っているのは銀貨数枚だ。それでどのくらいノギスの食べ物が買えるだろうか。最悪、明後日エデにお金を借りて再び市場に行くことも考えなくてはならない。
返事が適当だったことに気付いていないのか、ルーシェルは「そっか」とうなずいた。
「……ってセリア! ノギスまでいなくなったら本当に二人きりで……な、何話せばいいの? 何もしなくて大丈夫? クロードはずっと本読んでるのかな? だったら僕は何もしなくても……? いや、でもクロードが何もしないからこそ、僕が何かしなきゃいけない?」
そんなに慌てなくてもいいのに。ルーシェルの慌てっぷりに、セリアは口元が緩むのを止められなくなった。ルーシェルの反応はやはり見ていて面白い。面白いというより、可愛いのほうが正しいが。
明日どうすべきか一生懸命悩んでいたルーシェルは、セリアが笑っているのに気付いてむっとしたような顔をした。
「もう、セリア。笑ってないで、明日どうすればいいか一緒に考えてよ」
「ふふっ、わかったわ」
二人きりになりたくないのならノギスを説得すればいいのに、彼女はそれが考え付かないらしい。ノギスはセリアよりもルーシェルの言うことに従うだろうから、きっと彼女が言えば明日は一日中家にいるはずだ。
ノギス君に頼めばいいんじゃない、とは言わずに、セリアは考え込んだ。
「そうね……。クロ君は絶対本を読むだろうけど。うーん、ルーちゃんは何がしたいの?」
「何がって、その、特にはないよ?」
特にはないという返事が一番困るのだ。ルーシェルがしたいことがあれば、クロードが本を読んでいる傍でそれをしていればと思ったのだが。
クロードはルーシェルが何をしていたって気にしないだろう。本を読む邪魔をする以外なら。
むむっとセリアは眉根を寄せて、提案をした。
「昼寝でもしてればいいんじゃないかしら?」
「あ、そうだね! そうしてれば二人きりでも気にならないし」
「……え、それでいいの?」
思わず訊いてしまうと、ルーシェルは首をかしげる。
「昼寝、したら駄目なの?」
駄目ではない。駄目ではないのだ。
しかし、提案した自分が言うのも何だが、せっかくクロードと二人きりなのに昼寝をして過ごすのはどうかと思う。
そもそも、ルーシェルは警戒心がなさすぎではないだろうか。ルーシェルはセリアたちよりずっと年上だが、見た目も精神も十六歳くらいだ。それなのにクロードと二人きりで、無防備に眠ってしまうのは危険な行為に思える。クロードに限ってそんなことはないだろうが、もしも襲われたらどうするつもりなのだろう。
セリアがぐるぐる考えて答えるのを忘れていると、ルーシェルはそれを肯定だと捉えたようだった。「駄目かあ」と言いながら、何か他にいい案がないか考え始める。
しばらく黙り込んだセリアは、おもむろに口を開いた。
「……いいと思うわ、昼寝をしたって」
「そうだよね。うん、明日はクロードが来たら昼寝しようっと」
ルーシェルは笑顔でうんうんとうなずく。彼女が昼寝をしたらクロードはどう反応するのか気になったから言ったのだが、そんなことには気付かない。ルーシェルは相変わらずルーシェルだ。
「じゃあ、明日よく寝れるように今日は夜更かししようかな」
ルーシェルの言葉を聞きながら、明日のことを思ってセリアはため息をついたのだった。
* * *
いた。
会ってしまった。
「……何でいるのよ」
苦虫を噛み潰したような顔で、セリアは言った。
「いたら悪い? 僕の勝手だと思うけど」
「悪いわ! ほんっとうに悪いわよ! どうしていーっつもいるのよ? 私の行動を監視でもしてるのかしら、変態君」
どうして必ず会ってしまうのだろう。嫌味のつもりで口にした言葉だったが、本当に監視されているのかもしれない。
二、三歩後ろへ下がって、少年を睨みつける。彼はむっとしたようにしながら首を振った。
「監視なんてしてないよ。というか、それはこっちの台詞だって。どうしていっつも会うの?」
じっと見つめるが、嘘をついている様子はない。
はあっとセリアはため息をついた。
「知らないわよ。私は今日、ルーちゃんのために家を空けてるんだけど。あなたは何でここにいるの?」
ここ、とは市場だ。ノギスが食べられそうな魚か肉がないか探していたら、ばったり彼と会ってしまったのだ。この間会ったのは公園で、その前に会ったのは図書館。その前には……どこだっただろうか。出かけるときには、どこであろうと必ず会う。
市場で会ったこともあるので警戒していたのだが、人がたくさんいすぎて少年である彼の姿は近くに来るまで見つけられなかった。
なぜ会ってしまうのだろう――アーサーに。
アーサーは淡い水色の布でできた袋を持ち上げてみせた。買ったものを入れる袋らしい。
「僕はおつかい。トニーが風邪ひいたから、早く治るように葱とか大根とか。あとは、高いけど蜂蜜もちょっと買ったんだ」
「……そう。なら早く帰ったら?」
もう買いものを済ませたのなら、セリアと話していないで早く帰ったほうがいい。アーサーは嫌いだがアンソニーは嫌いではないので、あの小さな子が風邪をひいたと聞くと心配になってしまった。
アーサーは少し唇を尖らせる。
「その言い方、僕にさっさと帰れって言ってるみたいだね。実際そうなんだろうけど。……せっかく会ったんだから、セリアと話してから帰ろうと思ったんだよ」
セリア、とアーサーに名前で呼ばれるのは不愉快な気持ちになった。
アーサーと出会ってから、あと三ヶ月ほどで一年になる。ルーシェルに石を投げようとしていたことを根に持っているのかと訊かれたら、答えは否だ。嫌いになった原因はそれだが、嫌いのままでいる理由は違う。どんな理由なのかは自分でもわからないが、嫌いになった原因とは違うのだ。
嫌いである相手に、名前を呼ばれるのは嫌だ。しかし、名前で呼ぶなというのは流石にひどいだろう。
アーサーが話したいと言うのなら、とりあえず適当に会話をして早く帰らせよう。それが自分のためでも、風邪をひいているアンソニーのためでもある。
素直にアーサーと話すのは悔しいので、セリアは彼の顔を見ずに口を開いた。
「それで? 何を話したいの?」
「何をって……別に決めてないけど。んーと、立ち止まって話すのは他の人の迷惑になるから、歩きながら話そっか」
決めてないのなら私はこれで、と言おうとしていたのだが、アーサーはセリアの言葉を聞かずに歩き出してしまった。
仕方なく、セリアはアーサーの後を追う。人の話はちゃんと聞いてほしい。こちらもアーサーの話を真面目には聞いていないから、何も文句は言えないのだが。
「セリアはさ」
歩きながら、アーサーは話し始める。
「僕のこと名前で呼んだことないよね?」
「そうだった?」
彼の前で呼んだことはなかったかもしれない。ルーシェルやエデとの会話のときには、普通に『アーサー』と呼んでいたが。
そうだよ、とアーサーは拗ねたように言う。
「呼んでくれないの?」
そう訊かれると、呼びたくなくなった。アーサーが望むことをわざわざするなど、悔しいではないか。
ふんっとセリアはそっぽを向いた。
「あなたのことを名前で呼ぶなんてお断りよ」
「どうしたら呼んでくれる?」
お断りだと言っているのに、アーサーはしつこく訊いてくる。どうしてこの男は、セリアが嫌がることをさせようとするのだろうか。今話しているのだって、嫌でたまらないのに。
セリアがなかなか答えないからか、アーサーは立ち止まって振り向いた。いつの間にか人の少ないところまで来ていて、立ち止まっても他の人の迷惑にはならない。
「僕のどこが嫌いか教えてくれない?」
「全部」
即座に答えると、アーサーはむっとする。全部が嫌いだと言われれば、むっとするのも当然のことだろう。
「具体的には?」
「顔も声も性格も何もかもよ」
セリアはそっけなく答えた。顔を見ると何だか変な気持ちになるし、声を聞くといらいらする。もっとも、彼のことを考えるだけでもいらいらするのだが。どうしても、アーサーのことは好きになれない。
好きなところを挙げろと言われれば何も答えられないが、嫌いなところならばいくらでも答えられそうだった。
心の中だけで嫌いなところを挙げていっていると、アーサーは近くに置いてあった長椅子に座った。買いものに疲れた人が座れるよう置いてあるもので、セリアも数回座ったことがある。
(そこまで長話をするつもりはないけど……歩き疲れたし、座ろうかな)
少しためらいながらも、アーサーの隣に腰を下ろす。隣とは言っても、できるだけ彼との距離が遠くなるよう端っこだ。
アーサーはセリアが座るのを見ると、口を開いた。
「顔とか声は直せないけど、性格なら直せるかもしれない。どうすればいいの?」
「……別に私に嫌われててもいいんじゃないの? どうして性格まで直して、私に嫌われないようにするのよ」
性格を直してまでセリアに嫌われないよう努力するなんて、理解できない。
だから尋ねたのだが、なぜかアーサーは首をかしげた。
「……ん?」
口を開ける様子はない。しかし何か言うまで待とうと、セリアはアーサーを見つめた。彼は眉間にしわを寄せて「んー?」と考えている。一体どうしたのだろうか。
しばらく待っていると、やがてアーサーはしれっと言った。
「わかんない」
「ちょっとっ。こんなに待たせておいて、わかんないっていうのはないでしょう?」
つい立ち上がって、座っているアーサーを上から見下ろす。こんなに待ったのに、返ってきた答えは「わかんない」だけだったのだ。わからなくとも、何か考えて適当に答えてしまえばよかっただろうに。
セリアが立ち上がったからだろう、アーサーも立ち上がる。
「わかんないんだって。まあでも、嫌われたくないからどうすればいいか教えて」
「自分で考えたら?」
答えをすぐに他人に求めるのは、悪いことだ。ずっとずっと考えて、それでもわからなかったときには教えてもらう。それが正しい、とは言い切れないが、そうしたほうがいいと思うのだ。
「考えたってわからないから訊いてるんだよ。もう大分前から考えてるんだけど」
「……大分前?」
どのくらい前から考えていたのだろうか。
セリアの疑問がわかったのか、アーサーは「四ヶ月くらい前から?」と言う。
四ヶ月考えてわからなかったのに、アーサーは今まで訊いてこなかった。自分だったら一ヶ月で答えを求めているだろうと考えて、悔しくなった。
「はあ、教えてって言われても……。とりあえず、あなた」
わざと大きなため息をついて、セリアはアーサーを見据えた。
「口調を変えてくれないかしら? 口調を変えるのが無理でも、自分のことを『僕』っていうのはやめて」
ずっと思っていた。アーサーとルーシェルの一人称は同じで、しかも口調が似ていると。大好きな彼女と大嫌いな彼が似ているなんて、とても嫌だった。
アーサーは難しい顔をして尋ねてきた。
「僕……じゃなくて、俺、って言えばいい?」
「ええ。それならまだいいわ」
同じ口調でも、一人称が違うと印象はガラリと変わるだろう。
うつむいて何度も「俺」と小さくつぶやいていたアーサーは、しばらくして顔を上げた。
「俺って言えば名前で呼んでくれるんだよね?」
「そうするとは一言も――」
「呼んでくれるんだよね? 俺は呼んでほしいんだけど」
誰も彼の意見は訊いていない。
そう思ったのだが、アーサーの一人称が『俺』に変わっていることに気付いて、セリアは押し黙った。確かに先ほど言ったことは、『俺』と言えば名前で呼ぶと言っているふうに聞こえなくもない。
期待したような顔をして待っているアーサーは、セリアが断ったらどんな反応をするだろうか。名前で呼べば、嬉しそうに笑うことは決まっている。
名前で呼ぶくらいはいいではないか、と一瞬考えてしまって、慌てて小さく頭を振る。名前で呼びたくない。名前で呼ぶのは負けな気がするのだ。彼に負けるなんて絶対嫌だ。
しかし、どうしよう。彼の望みを聞き入れるのも嫌だが、断るのも嫌だ。
(……もしもしょんぼりされたら、私が悪いことしたみたいになるじゃない)
色々考えているうちに、名前を呼ぶくらいでこんなに考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
もう別に、いい気がする。
しぶしぶとセリアは口を開いた。
「アーサー、私もう行くから」
「へっ?」
唖然としたような声が聞こえたが、気にせず走り出す。これ以上アーサーと話す気にはなれなかった。
追いかけてくるような足音は聞こえなかったので、振り返ってもアーサーが見えないところまで行って立ち止まる。そこまでの距離でもないのに、息切れが激しかった。やはり運動不足だろうか。もう少し運動をしなければ。だとしたら、ルーシェルと一緒にしたほうがいい。彼女も運動不足だし、一緒にやったほうが楽しいだろう。
取り留めのないことを考えながら、セリアは口元を押さえた。
「……ぷっ」
近くにいた人々に訝しげに見られ、はっと表情を引き締める。
だが、すぐに元の表情に戻ってしまった。
(ああいう反応するとは思ってたけど、本当に予想通りの反応するなんて……っ!)
気を抜くと、声を上げて笑ってしまいそうだった。
大きく息をはき真面目な顔を作って、セリアはノギスへのお土産を探し始めた。この辺りは、雑貨やすぐに食べられるようなものを売っている店が多いようだ。
きょろきょろしながら歩いていると、干し魚を置いてある店を見つけた。小さめだが、値段は高い。
うーん、と考え、結局は買うことに決める。店の主人である男性にお金を払って、セリアは干し魚を五つ受け取った。
(今頃ルーちゃんはお昼寝中なのかな?)
もうそろそろ太陽が真上に差し掛かる。ルーシェルはすやすや熟睡しているのだろうか。昨夜ルーシェルは遅くまで起きていたから、彼女の眠りを邪魔したくはない。今帰るのは駄目だ。色んな店を冷やかして時間を潰そうか。
そう考え、セリアは歩き始めた。しかし、店を冷やかして歩くのは楽しいは楽しいが、こんなことならアーサーともう少し話していればよかった。誰かと話していると、一人で過ごしているよりも時間を早く感じるのだ。それが大嫌いな相手だったとしても、だ。
(まあ、素直に『僕』を『俺』に変えたし……)
大嫌いではなく、ただの嫌いなのだと思うことにしよう。大嫌いでなかったら、また次に会ったときにはそれほど冷たい態度は取らなくてもいい。取りたくて取っているわけではないのだが、ただの嫌いだったら随分楽になりそうだ。
(そのうち嫌いが普通に変わりそうね)
普通から好きに変わることは、絶対に有り得ないと言い切れるが。
ふと、セリアは後ろを向いた。アーサーの姿はない。当たり前のことだったが、なぜか寂しくなる。そのことに気づいて、セリアは一人首を横に振った。
アーサーがいなくて寂しいなど、そんなことを考えるはずがない。
(……一人でいるのはやっぱりつまらないし、ルーちゃんには悪いけどもう帰ろう)
そうっと窓から中の様子を伺うだけでも、楽しいかもしれない。眠っているルーシェルの横で、クロードがどう過ごしているのかとても気になる。
よし、と帰ろうとすると、丁度お腹がキュルキュル鳴った。ばっとお腹を押さえ、周りの人に聞かれていないか確認する。誰もこちらを注目していないので、気づかれなかったらしい。
ほっとして、今度こそセリアは家に向かって歩き出した。
家に戻るとルーシェルとクロードは二人とも熟睡していて、セリアは呆れながらも笑ってしまった。
そろそろ後日談を終わらせたいなあ、とか考えています。って言っても、次の更新も遅くなるでしょうが……。




