No.01 水の底
アタシはその日、何故だかわからないけれど、急に高い熱が出てうなされていた。
古びた団地に住んでいるアタシのお気に入りの公園は今日も雨で使えない。
せっかく学校を休めたのに、寝てなきゃいけないなんて……つまんない。
い……痛い……っ!
何で足まで痛くなって来るの?!
アタシ、何か怖い病気になっちゃったの……?
「ママ……ママっ! 痛いっ! 足も痛いよぉっ!!」
我慢出来なくなって、アタシは泣いてママに訴えた。
「こんな痛い足なんか、ちょんぎっちゃって!」
って。
いつもの、優しい大好きなお医者の先生が診てくれたけど、アタシの足がどうして急に痛くなって動かなくなったのかわかんない、って。
ママが、お医者の先生と内緒話をしてる。
お医者の先生が帰ると、ママはパパに電話してた。
パパが帰って来ると、ママは「この子をお願いね」と言って、出かけて行った。
どうして?
ママ、どうしてパパなんかにアタシを任せてどこかへ行っちゃうの?
アタシはこんなに怖いのに、こんなに痛いのに、どうしてママはどこかへ行っちゃうの!!
「ママ、ちょっと美容室へ行ってくるだけだから、待ちなさい」
こ、こんなにアタシが怖いのに、何で美容室なんかに行くのよ!!
突然、足の痛みも、熱もひいちゃった。
何で??
「そうか……よかった……」
そう言ったパパの顔は、とっても悲しそうだった。
……何故?
雨が上がってる。
公園の、あのお気に入りのジャングルジムで遊んで来よう。
玄関で靴を履いていたら、パパが大きな声で言った。
「今日は公園だけは絶対駄目だぞ!」
って。
しーらないっ。
パパなんか、いっつもママを泣かせてばっかりだから、嫌いだもん。
公園には誰もいなかった。
そりゃそうか、皆まだ学校だもんね。
雨は上がったけれど、公園はまだ水浸しで、空を見れば曇り空。
「ま、いっかぁ。ジャングルジムに上っちゃえば関係ないもん」
アタシはジャングルジムの方へ走って行った。
「あれ……? この水溜り……」
空が映ってるんじゃない、空の雲と違う、動いてる何かがあった……。
ちょこ、っと指をつけてみる。
……なんだ、変わりないか。
もうちょっと、とぷん、と掌を水溜りにくっつけてみ……たら、あれれれれ……?
どんどん、奥まで腕が入って行っちゃうよ?! 何で?!
ぷくぷく、ぷくぷく、沈んでいく――
不思議、息が出来る……。
上を見上げれば、水に映ったみたいにジャングルジムが見える。
アタシは、ゆっくり、ゆっくり、落ちていく。
猫ちゃんみたいに、くるん、と身体を回転させると、とん、と地面に足がついた。
なーんにもない、ここは一体どこだろう?
辺り一面、灰色の世界。
何かが遠くで動いてる。
目を凝らしてよくみたら、それは和服姿のママだった。
黒い着物に黒い髪を結い上げていたから、最初はママだって気がつかなかった。
「ママーっ!! アタシだよーっ! 見てっ、足、治ったよ! 痛くなくなったよーっ!」
大きな声で、ママを追いかけて走りながら叫んだの。
ママは、アタシの声に気づいて立ち止まって待ってくれる、って、当たり前に思っていたから。
――ママは、一度振り返って、また歩いて行っちゃった――
急に、アタシは怖くなった。
ここ、どこ?
ママは、何で待ってくれないの?
振り向いた時、泣いてたのは、何故?
「あなたの足の代わりを払わなくちゃいけない」
って、どういう意味?
「あなたは帰りなさい、来ちゃ駄目」
って、どうして?
走っても走っても追いつけない。
ママは、マッチ棒位に小さくなって、灰色の向こうに消えちゃった。
アタシは……どうやって帰ればいいんだろう?
ママを助けなきゃいけない気がする。
どうやって見つけたらいいんだろう?
「ママ――! ママ――っ!! 返事してー! アタシ、怖いよ、出て来てよぉーっ!」
声も響かない、静かな世界。
怖くて、寂しくて……。
アタシはその場にしゃがみこんで泣いちゃったの。
そしたら……。
地面が急に揺れ出して、どんどん、どんどん、溶けていく。
水みたいに、ゆらゆらになって……そこからナニカが、アタシの足を、引っ張った。
「キャ――――!! ママ――――ッッッ!!」
「よかった……っ、気がついたのね」
アタシ、どうしてたんだっけ?
気がついたら、アタシはお家のお布団で眠っていた。
お隣のおばちゃんが看病してくれていた。
そうか、ママは美容院だったっけ……。
「何言ってるの、お母さんがこんな時にあなたを置いて、そんなのん気なことする訳ないでしょう? お医者様を呼びに行ったんじゃないの」
おばさんが、変な風に顔を崩した。
「あのね、落ち着いて聞いてね。パパがあなたを残して行ってしまったのはね……」
ママが、死んじゃったんだって。
突然、倒れたんだって、道端で。
そのまま、死んじゃったんだって。
急に、心臓が止まっちゃったんだって。
パパが言ってた。
「今まで病気ひとつしたことがなかったのに」
って。
アタシは、悲しくなかった。
寂しくもなかった。
大人の皆に聞く前に、ママがもう死んじゃってる、ってこと、分かってたから。
アタシを一緒にあの水の底に引き込んだのは、変わり果てた姿のママだったんだもん。
ママは、最後の最後で、アタシより自分の命が大事と思ったんだ、きっと。
だから、もうママは要らない。