5.延長戦
それから一週間、田上さんには会わなかった。
ユキイチでも、階段でも、マンションのエントランスでも。
私が避けているのか、それとも避けられているのか。どちらなのかも、分からなかった。
そんな日に飲み会があった。
一応自由参加とはなっている。けれど、よほどの用がなければ課の全員が参加する、そういうやつ。
独り身の私が断れるはずもなく、末席で適当な相槌を打っていた。こういう時、どんな話をすればいいのか、未だに分からない。
お酒はそこまで強くない。節約して貯めた五千円が、しょっぱいだけの居酒屋料理に消えていく。
どうしてだか、田上さんの作ってくれた筑前煮を思い出した。返そうと思っていたタッパはまだ家にある。
やがて時間がきてお開きになったところで、誰かが言った。多分幹事の後輩の塚本くんだったと思う。
「二次会行きましょうよ!」
勘弁してほしい、と思ったところで今日は金曜日だったと気づく。明日の仕事が、なんていう言い訳ができない。
この場で一番偉い課長の目が、私を含めた女性社員を順番に見つめていく。もちろん、不躾にならない程度にこっそりと。
私の隣に座るのは、子持ちの岩下さん。その隣が五十代の中川さん。そして、去年入ったばかりの桜井さん。
もう一度、課長の目が私のところに戻ってきた。
「じゃあ、島崎さん」
その時、私は直感した。
私は生贄にされたのだと。
「いやね、無理には言わないんだけど。こういう時はやっぱりねぇ」
それより先を課長は言わない。だって今はそういう時代だから。直接的にそういうことを言うと、色んなハラスメントに引っかかるから。
けれど、その目が物語っている。
女の子がいた方が都合がいいって。
「ああ、いや、えっと」
考えているうちに一軒目の店から出て、他の女性社員たちが連れ立って帰っていく。小さな声で「ごめんね」と、囁いて。私はまるで、宙に放り出されたようになる。
「あ、あの、私」
「なんすか。先輩は俺たちとの酒は飲めないって言うんすか!」
ああ、なんか結構酔ってるな、塚本くんなどと他人事のように思う。彼は彼で色々と気負っていたのかもしれない。けれど、今はそんなことを考えている場合ではない。
「いや、なんというか、その」
こういう時、なんて言えば角が立たないんだろう。
明日どこかに行くことにしようか。朝が早いとかなんだとか。自分より年下に絡まれると対処に困る。課長や上の人は遠巻きにそれを見ているだけだ。
「いいじゃないですか、ちょっとくらい」
赤い顔をした塚本くんが近づいてくる。アルコールと安っぽい油のおつまみの匂い。それがたまらなく恐ろしく思えた。
一瞬後ずさるようにしてしまってから、考えすぎだと気づく。
そうだ、別に大したことじゃない。ちょっと我慢すれば済む話だ。笑って座っていれば、きっとすぐに終わる。
諦めてひとつ息を吐く。塚本くんに肩を掴まれると思ったところで、声がした。
「島崎さん」
この一週間一度も目にしなかった長身が、そこにいた。
「田上、さん」
この場の誰よりも、彼は背が高い。まるで全てを睥睨するような青い目が、きらりと輝く。
「お食事ですか?」
低い声は殊更大きいということではない。それでも、みんなの耳にしっかりと届く。私は曖昧に頷くことしかできなかった。
そこで塚本くんが伸ばそうとしていた手をぱっと下ろした。
「なあんだ」
空気が変わったのを肌で感じた。塚本くんは胸の前で手を振って笑う。まるで自分の潔白を証明しようとするみたいに、大仰に。
「先輩も言ってくれたらよかったのに」
けれど、塚本くんは私を見ていない。見上げているのは、田上さんの方。
多分、彼は何かを色々と勘違いしている。
「彼氏いるなら、そうって。ねえ」
今までそんな素振りはちっとも見せなかったのに、そんな風に宣う。
「邪魔しちゃ悪いからね。島崎さん、また来週、会社で」
塚本くんの言葉を引き継いで、課長が言う。二次会に向かう背中が遠ざかっていくのを見て、膝から崩れそうになった。
やがて、すっかりその姿が見えなくなってから私は口を開いた。
「……その、すみません」
「いえ。僕も皆さんがいらっしゃるのに、声をかけてしまって」
申し訳なさそうに田上さんが目を伏せる。見れば、田上さんの手にはいつものようにレジ袋がある。仕事の帰りなのか、大きめのリュックも背負っている。
「偶然通りかかったら、気になってしまったので」
この辺りには確かスーパーがある。家の反対方向だからあまり来ないけれど、夕方以降にタイムセールをすると聞いたことがあるから、大方それを狙ってきたのだろう。
「迷惑だったら」
「そ、そんなことないです!」
急に彼氏だなんて言われて迷惑だったのは田上さんの方だろう。
けれど、彼はそんな態度を少しも見せなかった。
通行人の人が何人か振り返って、遮るようにそう口にした自分の声が思いのほか大きかったのだと気づく。
「……帰りましょうか」
「そう、ですね」
ちょっとだけ距離を開けて、二人連れ立って歩く。どうせ帰る方向が同じだから、そうするだけだ。他意は、ない。
明るいネオンと客引きの声が響く繁華街。遠目に見れば星のように見えるかもしれないけれど、これらは随分と粗悪な代替品だ。
それらを眺めながら、私はさっきの茶番のことが頭から離れなかった。
「私たちって、一体、なんなんでしょうね」
そう切り出してしまったのは、私もきっとお酒が入っていたからだと思う。
私の言うことは何一つ受け入れられなかったのに、田上さんが現れただけで全てが変わった。
ここにある差は、なんだろう。
「女はきっと、家畜なんですよね」
口に出してから、納得した。これはずっと、私が薄っすらと、けれど確かに感じてきたことだった。
家畜。人の役に立つために育てられるもの。
「どんなに仕事を頑張っても、何をしても、所詮牛みたいにしか見てないんですよ。だからあんな簡単にランク付けしてみせるんです。最初からずっと、平等じゃない」
一度口を開いてしまったらもう、止まらなかった。
使えるか使えないか。価値はそこにしかない。食べられるために、私たちは生きている。
ただ人間でいたい、それだけなのに。
実家の景色がまた蘇る。
ああ、そうだ。お母さんもおばあちゃんも、家畜だった。
私はそれがずっと嫌だった。
上がったと思ったすごろくの、永遠に続く延長戦。私は未だ、あの続きにいる。
値踏みされて、侮られて、それでも愛想笑いをして。
そうして少しずつ、私の中の何かが擦り減ってきた。
「ばっかみたい」
吐き捨ててしまったら清々しくなれるかと思ったのに、そんなことはなかった。
ただ舌に苦さのようなものがざらついて、ひどく気持ちが落ち着かない。
八つ当たりだって頭の中の誰かが言う。
いっそ泣くぐらいの可愛げが私にもあればよかったのに。
こんなことが言えたのは、相手が人間じゃないからだ。ただのおとなりさんなら、こうはいかない。
私を文字通り食べてしまえる、怪異の王。
その人は、何も言わずに私の隣にいた。
「あ」
塗り込めたような闇から、ぽつりと雫が落ちる。
それはすぐに瞬く間に数を増して、アスファルトにいくつも染みを作っていく。
「天気予報通り、降ってきましたね」
そう言って、田上さんはリュックから折り畳み傘を取り出して広げた。朝時計代わりに流しているテレビがそんなことを言っていた気がする。こんなことならちゃんと見ておけばよかった。
模様も何もない実用性だけを追求したようなシンプルな紺色の傘は、田上さんが持っているとしっくりくる。
そして彼は広げた傘を私に差し出してきた。
「使ってください」
「えっ、でも」
普通の傘よりは小さいけれど、これなら多分二人で入ることもできるはずだ。そう思ったのに、
「いいから」
ほとんど無理やりとばかりに私の手に傘を握らせたかと思うと、田上さんは歩き出してしまう。
長身は足も長い。すたすたと歩けば、すぐにその広い背中は見えなくなる。
そこでやっと、田上さんはずっと、私に合わせてゆっくり歩いてくれていたのだと気が付いた。




