3.思い出す景色
「あー凹む……」
夜の帰り道、誰もいないことをいいことに、私は小声で呟いた。
なんてことはない。仕事でちょっとした失敗をした。
確認用のエクセルの行がズレていて、支払期限を見誤った。だから、期限が迫っているのに担当にリマインドをしなかった。
何とかギリギリに気づいて今日リマインドをしたから間に合ったけれど、処理はばたばたになって、挙句の果てに
『もっと早く教えてくれたらよかったのに』
と言われる始末。
それはそうだけど、そもそも支払い期限を確認するのはそちらの領分では、という気もしなくもない。ずっとずっともやもやしている。ただ私は何も言わずに、愛想笑いで誤魔化した。
いつからだろう。こんな風に当たり障りなくこなすことは上手になった。
自分の側に引き受けてしまう方が、ずっと楽だから。ただ飲み込んだ分だけ、お腹は空く気がする。
かと言って、家に何かがあるわけでもない。もらった筑前煮は全部食べてしまった。
電車の中で見てしまったメッセージアプリには、追い打ちをかけるようにお母さんから。
『あんた、ほんまにええ人おらんの』
どうやら帰ってこないのは恋人がいるからだと思いたいらしい。都合のよさになんだか笑ってしまった。ふわふわのうさぎのスタンプだけを送って、あとは何も返信していない。
「なんかいいことないかな」
いつも思い出す景色がある。
実家のお正月。床の間の前の上座には祖父がどん、と座っている。その隣りに父がいて、弟がいる。
弟の御膳に上るおかずは、私やお姉ちゃんのものより一品多かった。
母も祖母も動き回っていて、子供の私とお姉ちゃんは、その部屋の隅で遊んでいる。
私はずっと、お正月が好きじゃなかった。年が変わる晴れがましさのようなものを素直に受け取れるようになったのは、ここ最近のことだ。
祖父に呼ばれたお姉ちゃんが時々お酌をしてみせれば、「はるちゃんはええお嫁さんになる」と言われた。
私にはそれが、どうしてもそれが出来なかった。
「あっ」
ぼんやりと歩いていたら、マンションの前の縁石に蹴躓いた。パンプスの踵が歪に減っていたのを忘れていた。
「いったぁ」
思い切り膝小僧を擦りむいたら、ボトムスまで切れてしまった。これ気に入っていたのに。つくづくツイてない。
蹲ったまま、マンションを見上げる。膝がじんじんと痛んで、階段を上れる気がしなかった。こういう時、エレベーターがないことの意味を痛感する。
都会の空では星が見えない。ただ夜の闇に、ぽつりぽつりと部屋の明かりが灯っている。五階の私の部屋は、暗い。
実家では、宛がわれていた北側の六畳間だけが私の世界だった。
そこにある全てがたまらなく嫌だった。
あの頃は、この世のどこかに私の理想を汲み上げてくれる王子様がいて、思いもよらない素晴らしいことがあるのだと心のどこかで信じていた。
都会に来れば、何か変わると思っていた。新しい自分になれると、漠然と思っていた。
けれど、そんなことはまるでない。
「島崎さん?」
振り返れば、田上さんがいつものようにユキイチのレジ袋を提げてそこに立っていた。
「田上さん」
そういえば、あの角部屋の明かりも点いていない。袋の広がり方からするとまた牛乳だろうか。この間も買っていたような気がしたのに。
「田上さんは週に何本牛乳を飲むんです?」
「そんなことより、どうしたんですか」
私の声を遮るようにして、田上さんが屈む。切れ長の目が私の膝に釘付けのようになる。
「えへへ、ちょっと転びまして。ついでに休憩していたところです」
「休憩って……」
呆れたように田上さんが言う。
私に向かって伸ばされた手の指先が、微かに震えている。
振り切る様に頭を振った後、田上さんは持っていたレジ袋を肘に掛けた。続いて、その辺りに放り出されていた私のトートバックも。
「ひゃっ」
足がふわりと宙に浮いた。
急に田上さんとの距離が近くなる。
「おおお、下ろしてください! ちゃんと歩けますよ!」
手足をばたつかせていたら、ぐっと抱き込まれるようになる。ぴたりと体が密着して、石鹸のような不思議な香りがする。シャンプーか何かだろうか。
ちらりと、青い目が私を見る。
「お言葉ですが」
睨んでいるようなその目と、見つめ合った。
「本当に、その足で五階まで歩けるんですか?」
途端に何も言い返せなくなる。
歩けないということはないだろうが、かなりしんどいだろうとは思う。
だからこそ、私はあそこでああしていたわけで。
「その、すみません……」
不注意が続いて転んだ挙句、隣人にまで迷惑をかけてしまった。穴があったら入りたいし、願い叶うなら消え去りたい。そんな思いできゅっと身を縮めた。
低く田上さんの声が、静かに響く。
「いえ、僕が勝手にやったことです。落とすのは不本意なので、どこかに捕まっていてくれれば」
そのまま、田上さんはさっと目を逸らす。彼が歩く度にレジ袋が揺れるかさかさという音がする。
「はい……」
いわゆるお姫様だっこというよりは、荷物の搬送に近い。
言われるがままに、広い肩に手を置いた。
自分のものよりも数段高い体温に包まれる。これは彼が男だからなのか、それとも人ならざるものだからなのか。
どこを見ていいのか分からなくて、私は田上さんの肩越しに見える夜の街だけを見ていた。
「鍵は、どこに」
田上さんが立ったのは、私の扉の前。ここまで来てもまだ、彼は私を下ろそうとはしなかった。
「あ、えっと、鞄の内側のポケットに」
すぐになくすから、リールの付いたキーケースを鞄の金具に留めてあるのだ。
「すみません、では」




