悪戯は、唯一になりたい。
…結局、依澄さんは部活に来なかった。
傷付けてしまった。自己嫌悪が体を巡る。
「そこは#掛かってるんで…もうちょっと高めでも全然いいと思います。あとここからallegrettoなので110…120ぐらいでもいいかも知れませんね。結構アップテンポの曲なんで…」
「なるほどね…86小節目からのリップスラーはどうしようか、一年生にはまだ早いかな…」
「ですね、聞いて見たらわかるんですけどここ結構高いんで…音程もままならないままリップスラーさせるのは流石に酷ですかね。127小節からのタンギングは入れちゃってもいいと思います。これからの曲でもしょっちゅう出てくると思うんで慣れてもらうって意味でも。」
「ふんふん…」
「…あの。」
「ん?まだなんか付け加えある?」
「いや、違くて…何で僕パートリーダーの話し合いに参加してるんですか?一年生ですよ?」
「いやいや…君あたし達よりもホルンとか音楽理論について詳しいでしょ?だったら君に先導していってもらった方がいい合奏になること請け合いじゃん!」
「いやいや…名塩先輩もなんとか」
「そもそも私が提案したしなぁ…」
「…最高ですね、それ。」
「だってぇ!やるからにはいい合奏にしたいじゃん!私たちだってある程度の知識は持ってるけど夕透くんの力添えもあった方がもっとよくなると思うんだよぉ…お願い!」
「いや…立場上の問題とかあるんじゃないんですか?未橋先輩はどう思います?」
「え、あいや…私は何とも…」
「…まぁ、先輩方がいいなら自分もいいんですけど。」
「助かるぅぅ…!さすが夕透くん!!」
「そんなヨイショしなくていいですから…」
「………はぁ。」
あの日以来、どうにも名前を呼ばれることに落ち着かない。
…彼からなら尚更だ。文字通り心臓が跳ねて、まともな返答ができない。友達からも指摘された。練習もあまり身に入っていない。彼と同じ楽器な以上、練習する場所も同じなのだ。しかも隣同士で練習しているため、彼の、そして私の動作一つ一つが気になって仕方がない。彼からどう思われているのか、見られているのか、考えられているのか。しかも…自分から告白したのに、ドギマギしているのは自分だけ。彼はそんな事どこ吹く風で相変わらず飄々としている。自分はその飄々さに惹かれたので、有り難くはあるのだが…何だか納得がいかず、釈然としない。
告白されてもあまり自分のことを考えてくれていないのではないか、そう言う風にしか考えられない。しかも彼はそんなのお構いなしに普通に話しかけてくる。その度にドキドキしてしまい、まともな会話ができているかすら怪しい。
しかも彼のことを考えていると…どうしようもなく…その…盛んになってしまいそうだ。胸がキュンキュンして…途端に汗が出てきて…体が熱くなって口から息が漏れてしまう。
こんな私は初めてだ。今すぐにでも何とかしないと…
「…はぁ…。」
今日は午前練だったので、お弁当を食べてこのまま15:00ぐらいまで自主練をしようと楽譜整理をしながら考えていると、
「あ、未橋先輩。お疲れ様です。」
「ゆ、夕透くん…!?お疲れ様…。」
「未橋先輩はまだ帰らないんですか?」
「あ、うん…譜読みがあんまり進んでないからちょっと残ろうかなって。夕透くんは…?」
「自分は譜読みとかトリルとかフラッターとかの基礎練やろうかなと…」
「…あ、あのさ。」
「どうしました?」
「…よかったら…一緒にどうかな…?」
「練習ですか?もちろん!未橋先輩が一緒だと心強いです。」
「ほんと…?ありがとう!」
「未橋先輩って息遣い丁寧ですよね。昔からブレストレーニングとかしてたんですか?」
「あ、うん…ブレスは大切かなって。」
「そうなんですね…自分なかなかロングトーンが苦しくて…。コツとかないですか?」
「うーん…昔から気を付けてるのは口からとか鼻からって感じでどこから吸うのか考えるんじゃなくて肺に空気を入れるって考えたほうが私は楽に長く息を使えたかな。」
「なるほど…やっぱ意識的な問題もありますよね…ありがとうございます!」
「…えっとさ、私からも質問があるんだけど…。」
「僕が教えられることなら何でも教えますよ。」
「じゃあさ…」
ぐいっ
「は、はい…。」
「…何で私のこと…意識してくれないの…?」
「…えっ?」
「…ちょっとぐらい…ぎこちなくなったり…赤くなったり…目を逸らしてくれてもいいじゃん…。」
「…それは…。」
「…私だけときめいちゃってバカみたい。こんなに好きなのに…伝わってない感じがしちゃうもん。」
「そ、そんなことないですよ!?ちゃんと伝わってきましたし嬉しかっ」
「じゃ、じゃあっ…」
「…キス、してよ…夕透くんから…。」
「…は、はい…?」
「…いいの…?」
「え、あ、いや、了承のはいじゃなくて聞き返しの」
「うるさい…っ!…早くしてよ…」
「…さすがに学校じゃダメです。」
「…学校じゃなかったら…いいの…?」
「そういう訳じゃなくて…」
「…(がばっ)」
「あ、ちょっ」
どさっ
「…いたた…み、未橋先輩…?」
「…はぁ…はぁ…っ。」
「………………。」
「私じゃだめなの…?年上はヤダ…?こんな先輩はやだ…?もっと可愛くないと……やだ…ぁ…?」
「………………。」
「…夕透くんが後輩の子達と一緒にいるの見たら…息が苦しくなって…奪い去りたくなっちゃう。」
「ねぇ…私だけの夕透くんになってよ…独占してよ…。私、君以外はもう…目に入らないもん…。」
「………未橋先輩は、素敵な人です。」
「…!?」
「…だから、自分だけが独占していいような人じゃないです。」
「や、やだ、もっと私だけ、わたしだけ、わたしだけ…。」
「…そんな贅沢、自分にはできないです。」
「…わたし、君になら…何されても…っ…。」
「…ダメです。」
「…なんで…?私ほんとに君のことが」
「だからです。」
「…え…?」
「…僕のことを好いてくれてるのは分かりましたし、とても嬉しいです。でも…そんな優しい先輩に、自分を売るような真似、して欲しくないです。」
「…うぅ…うぅっ…。」
どこまでも優しくて、どこまでも分からず屋で、どこまでも常識人で、どこまでも…かっこよくて。
そんな彼と私とでは…きっと…
「…ご、ごめんね、わ、たし、帰るね。…ばいばい。」
ガチャ
「………はぁ〜……。」
また泣かせてしまった。あの件以来もう女性を泣かせないと約束したはずなのに。すぐに破ってしまった。
こんな自分と未橋先輩とでは…釣り合わない。
もう少し傷付けない言い方をすべきだったか、しかし…これ以上優しくしてしまうと、本当にあの人は悪い人に利用され、巻き込まれてしまう。大切にして欲しいのだ。自分自身を。そんなこと見過ごせる訳が無い。でも…
「泣かせるのは…はぁ…。」
課題曲の練習はやめた。短調の曲など、吹ける元気がなかった。