いもむしのアップルくん
とある森の一本の木。その一つの林檎の中に小さな住民がいました。彼の名前はアップル、芋虫です。林檎の中に住んでいるからそう呼ばれている、ただそれだけの事です。アップルは住まいである林檎の中身を食べながら毎日を過ごしていました。アップルは住まいを確保しながら中身を食べていたので、傍から見ると彼の住む林檎の実は何ともないように見えました。
アップルはこのように賢いのですが、少々傲慢な所がありました。彼の噂を聞いて林檎をお裾分けしてもらおうと他の虫達が時々やって来ることもありましたが、アップルは絶対に分けてあげることはしませんでした。
ある春の日の事、いつものようにアップルが林檎を食べていると、何やら外が騒がしい事に気が付きました。一つだけ空いている穴から外を覗くと、美しい羽根を羽ばたかせて大空を舞う蝶の群れがいたのです。その美しい様に森の虫達は皆見惚れていました。勿論、アップルも例外ではなく。そして彼は、いつしかあの蝶達みたいに美しい羽根を手に入れて大空を自由に飛んでみたいと思うようになりました。
アップルには悩みがありました。それは自分が何者なのかわからない事でした。彼は気づいた時にはこの林檎の中に住んでいました。もしかしたら生まれた時からこの中にいたのかもしれないと思ったりもしました。彼は自分がどういう存在であるかを知りたかったのです。
夏も終わりに近づいてきたある日の事、アップルが住む林檎の前に客がやってきました。アップルが穴から顔を出すと、そこにいたのは天道虫のお姉さんでした。天道虫のお姉さんは森の中でも有名で、どんな悩みでも親身になって聞いてくれる優しいお姉さんです。
「あらアップル君、調子はどう?」
「あ…相変わらずっすよ」
「それで…順調なの?自分探しは」
「全然ダメっすね……」
すると、天道虫のお姉さんはこう言いました。
「それなら聞くけど、貴方は自分がどうあって欲しい?自分がどういう存在だったら良いと思ってるの?」
その問いに、アップルは以前見た美しい蝶の群れの事を話しました。
「俺もいつか、あんな風に綺麗な羽根を広げて自由に空を飛んでみたい!なんて思ってます」
「そう。芋虫ちゃん達はみんなそう言うわ。貴方はちょっと捻くれてると思ってたけど……中々可愛いところあるじゃない」
そう言うと天道虫のお姉さんは微笑みました。"可愛い"なんて初めて言われたので、アップルは照れてしまい、林檎の中に隠れてしまいました。その様を見て彼女はまた微笑みました。そして続けます。
「貴方に良い事を教えてあげる。貴方の様な芋虫ちゃんは、十分大きくなると蛹になって、やがて蝶になるの。貴方だってきっと綺麗な羽根を広げて空を自由に飛べる日が来るわ」
「マジっすか!?あ、でも……"蛹"って何ですか?」
「えっとね……簡単に言えば大人になる為の準備期間みたいなものよ。まぁ、何をするかって言えば…ただ眠るだけだけど」
「眠るだけ、っすか」
「えぇそうよ。あともう一つ、蛹になる前兆だけは覚えておいて。口から糸が出た時、それが前兆よ」
「うっす、分かりました!」
「ふふ、一緒に空を飛べる日を楽しみにしてるわ!」
そう言って天道虫のお姉さんは空の彼方に飛び去って行きました。
その日からアップルは、自分が憧れの蝶達のようになれるかもしれないとワクワクしながら林檎を食べていきました。自分が何者なのか分からないからこそ、彼の憧れである蝶である事に賭けてみたかったのです。
肌寒さが身に沁みる冬の日の事でした。
林檎の中身はあっという間に食べつくされ、大の字になって寝転がれる程に広い空間が出来上がりました。アップルは寝転がり無気力そうな眼で高い天井を見つめながら、ここまで住居を保ちつつ食料を独占できた己の天才ぶりに感嘆していました。
「それにしても寒くなってきたなぁ。ここまで寒いと動く気も起きねぇ……」
そう独り言ち、ゆっくりと重い身体を起こしながら深くため息を吐きました。その時、彼の口元から一本の白い糸が出てきました。一体何事かと思いましたが、天道虫のお姉さんが言っていた事を思い出し、すぐにそれが蛹化の前兆である事に気づきました。アップルは嬉しそうに立ち上がると、大きく息を吸って勢いよく糸を吐き出し、鼻歌混じりで蛹になる準備を始めました。
部屋の中に数本太い糸を張りつけ、その上に寝転びます。そして自分の身体に糸を絡めて固定すると、全身を使って繭を作り始めました。その様子はとても楽しげです。全身を覆うように糸を編み、絡め、巻き付けを繰り返し、ようやく繭が完成しました。彼は満足げに笑いました。考えてみれば、他の芋虫達は同じような事を風が吹き荒ぶ肌寒い野外でやっている訳です。その点アップルは林檎の実と言う安全な場所を確保できている為ある意味勝ち組だ、と彼はそう思っていました。
「これで後は春まで待つだけだな!へへっ、楽しみ…だ……」
そして彼は長い眠りについたのでした。
冬の寒さも去り暖かくなってきた頃、アップルは遂に目を覚ましました。そして己の自由を奪っていた繭を破り、大きく伸びをしました。いっぱい寝たからなのか身体が心なしか軽く感じます。アップルは林檎の家を飛び出し、自分の姿が見られる場所を探しました。彼が見つけたのは林檎の葉に着いていた朝露でした。朝露に自分の姿を映した彼は衝撃的な事実に気が付きました。彼の背中には羽根が生えていたのですが、それは自分が夢に見た美しい羽根とは程遠い、薄汚れたような茶色い羽根でした。アップルは蝶ではなく蛾だったのです。アップルは朝露に映る自分の姿と空を舞う美しい蝶の姿を見比べて悲しみました。自分が何者であるか知ることができたのは良かったのですが、憧れとは程遠い姿であった事に絶望していたのです。しかしその時、アップルの身体はふわりと浮き上がりました。アップルは自分が空を飛べている事に気が付くと驚き、そして喜びました。自分の姿がどうであれ空を飛べる事がとても嬉しいようで、彼は何度も飛び回りました。始めは不格好でしたが次第にコツを掴み、やがて自由に飛ぶことができるようになりました。
暫く空の世界を楽しんでいると、アップルの視界には天道虫のお姉さんの姿がありました。彼女の元に飛んでいくと、アップルに気づいた天道虫のお姉さんは笑顔で手を振りました。
「あら、アップル君!」
「うっす!実はお姉さんに言わなきゃいけないことがあって……」
そしてアップルは少し俯き、自分が蝶ではなく蛾だった事を告げました。すると、天道虫のお姉さんは憐んだ眼で言いました。
「それは残念だったわね。それで、私が嘘つきだって言いに来たの?」
「そこまでは言わないっすけど、俺……」
とうとうアップルは泣き出してしまいました。すると天道虫のお姉さんは彼を優しく抱きしめて言いました。
「例えどんな姿であっても貴方がアップル君であることには変わりないわ。蝶みたいな綺麗な羽根じゃないけれど、貴方のその羽根も素敵よ。私は好きだわ」
「お姉さん……」
天道虫のお姉さんの言葉を聞いて、アップルは更に涙を流しました。天道虫のお姉さんはアップルの額にキスをすると、そのまま彼の手を引いて言いました。
「さあ、処女飛行といこうじゃない!私が思う存分付き合ってあげる!」
「……うっす、お願いします!」
アップルは涙を拭い、彼女に満面の笑みを見せました。そして二人は空の彼方へと飛んで行きました。
どうも皆さんご無沙汰しております、夕景未來です。このお話は私が夢と現実の狭間で見た光景にかなり脚色・加筆修正を加えて童話風味にしたものです。一体どんな光景を見たのか、と言いますと、ただただ目の前に大きな林檎があって、その中から芋虫(擬人化された姿)の青年が気怠そうな目でこちらを見ている―――というものでした。その光景があまりにも忘れられず、何かしらの文章に書き起こそうと思い、林檎に住む寄生虫を調べたら気色悪い虫しか出てこず、割とマシだった蛾の類って事にして物語を書き進めました。
童話風味という事で口語体に、振り仮名を入れる場所も多めにしています。そして光景の中に出てこなかったオリジナルキャラクターである天道虫のお姉さんを添える事で、主人公であるアップル君の心情に動きを持たせる事が出来たように思います。けだるげ不良系キャラに見えたアップル君がなんかやんちゃ系後輩キャラっぽくなっちゃいましたね(これはこれでアリかも?)。
日常生活にまで支障をきたす程作り込んだので世に出さないのは勿体ないと思い、思い切って投稿させていただきました。是非とも親子で読んでほしいです。以上。