4・親子喧嘩
秘された黄色い薔薇の令嬢が、とうとう伴侶を決めたらしい。一目見て気に入って、なんとも情熱的に求愛したらしい。結婚は秒読みだそうだ。そんな噂が、尾ひれがこれほどかまでというほど付いて社交界に広まったようだ。ジーナの友からも、相手はどんな人なのかと手紙が山ほど届いている。聞くまでもなく、犯人はシュタイナー侯爵だろう。外堀を階段付きで埋められたようで、ジーナは毎日憂鬱だった。
「お見合いなんて、行きたくない……」
今まさに見合い用のドレスを着せられながら、ジーナは呟く。メイドは一瞬だけ手を止めるが、すぐに着替えを再開した。
「ごめんなさい。私いつも、あなたを困らせてばかりね」
「いえ、そのような事……」
「嫌な人間なの、私」
自分から申し出たのだから、今さら断る訳にもいかない。しかしこうも噂を立てられると、行ったが最後、止められなくなるのではないかと不安になっていた。もちろん、ウルフはジーナが嫌がれば、無理強いはしないだろう。しかし、婚約は既成事実として、周囲の記憶には残るに違いない。
フリージオ・サンスプライト侯爵令息。釣書を読んでみたが、どうにも掴みどころのない人物だった。歳は20歳、身長は176cm、体重は69kg。どこにでもありそうな数字だ。出身は、マクガフィン王国のサンスプライト領。書かれなくともそれくらい分かる。仕事は父親の補佐。跡継ぎなのだから当然だ。趣味はチェス。ジーナはチェスをよく知らない。特技は暗算。地味である。
人柄の手がかりとなる文字は、シュタイナー侯爵のものだった。肖像画は同封されていないため、顔は分からない。もしかすると、シュタイナー侯爵が強引に推し進めただけであり、相手方はあまり話に関わっていないのかもしれない。でなければ、赤の他人が書いた釣書など寄越したりしないだろう。
とにかく、この釣書からはフリージオがどういう人間なのか、全く見えてこなかった。父に聞いても、あまり覚えていないとの事。ひとまず、優しそうな印象だったらしい。
全く乗り気にはならないが、ジーナはなんとか足を動かす。相手方の家での見合いだが、隣にはウルフもいる。優しい人間なら、現場ではそう悪い事にもならないだろうと信じるしかなかった。
場に合った服装を整えられ、ジーナはウルフと共に玄関まで向かう。その途中、廊下で軽装のフィリックスと鉢合わせしてしまった。
「あ……」
他の男と見合いをするため着飾った姿など、見られたくない。ジーナは思わずうつむくが、こんな時に限って、フィリックスは二人の元へとやってくる。
「へえ、似合ってるじゃないか。フリオ? だったか? そいつも、この姿を見たら気に入るだろうな」
フィリックスの褒め言葉が、今はジーナの胸に痛みとして突き刺さる。聞きたくない。そう思うのに、フィリックスの声は止まらなかった。
「調べてみたけど、お相手も堅実で良さそうな男じゃないか。派手な男は駄目だ、お前も騒動に巻き込まれかねないからな。どこかの王様なんてもちろんだ。地に足のついた、真っ当な男。兄妹として、俺はそういう男がいいと思うぞ」
「……フィリックスは、それでいいの?」
「ああ、いいと思う。可愛い妹には、幸せになってもらわなきゃならないからな」
その言葉は、ジーナの心を折るトドメだった。フィリックスは確かに養子だが、ジーナは兄妹だと思った事はない。だがフィリックスにとっては、他の男との結婚を薦めるくらいの存在。気が付けば、涙が溢れていた。
「そんな嬉し泣きするなよ。おい、誰かジーナの化粧を直してやってくれ。じゃ、俺は街に出るから」
吐き捨てるだけ吐き捨てて、フィリックスは立ち去ろうとする。だが、ウルフがフィリックスの胸ぐらを掴み、怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ、フィリックス! お前は、全部分かってるだろう!」
「ああ、分かっていて言ってるよ。けど、父さんだって分かってるだろう? どの道が、一番丸く収まるか」
「俺は丸く収めたくて、お前達を育てて来た訳じゃない! 俺はお前達の父親だ。お前達が幸せを望むなら、なんだってしてやる! 諦めて逃げるな、フィリックス!」
フィリックスは離れようともがくが、鍛えられたウルフの腕はびくともしない。真っ直ぐに見つめるウルフの眼光に、フィリックスは目を逸らした。
「そんなに、俺は頼りないか? 息子一人を守れないような、そんな弱っちい父親に見えるか? 他の誰かなんてどうでもいい、俺はフィリックスに幸せになってほしいんだ!」
「っ、父さんが……貴方が『そんな』だから、俺は全部諦めるって決めたんだ!!」
フィリックスの言葉に、ウルフは目を見開く。瞬間、ウルフの腕の力が抜けて、フィリックスを解放する。
「と、父さ……」
「…………ごめんな、フィリックス」
フィリックスの目に入るのは、力が抜けてうなだれるウルフと、泣きじゃくるジーナの姿。傷付けられ、絶望に瞳を暗くした家族。フィリックスは今さら首を横に振るが、二人に今のフィリックスは見えていない。
「違う……そういう意味じゃない、俺は、ただ……!」
フィリックスは何か言おうと口を動かすが、言葉が出てこない。ジーナのすすり泣く声だけが、廊下に響いた。フィリックスは頭を掻きむしると二人に手を伸ばし、一つ深呼吸した。
「ロロ・ブリジー……」
「フィリックス」
だが、背後から呼ぶ声に、言葉は掻き消される。それは悪魔の囁きか、天使の福音か。いつ、どこから入ってきたのか、フィリックスの背後に立っていたのは、ユージーンだった。
「一度吐いた言葉は、元に戻せないんだよ。たとえ誰が忘れても……僕は覚えてるから」
「ユ、ユージーン……」
ユージーンの姿を見ると、フィリックスは幽霊でも見たかのように震え出す。だがユージーンはいつもと変わらぬ柔和な笑顔で、フィリックスの手を取った。
「でもさ、皮肉だよね。フィリックスのおかげで、僕は確信が持てたんだ。僕は本当に、フィリックスと兄弟なんだって。不貞の子なんかじゃなかったって」
フィリックスはすぐユージーンを振り払うと、ばたばたと足音を立てて逃げていく。ユージーンは手を振ってその背中を見送ると、絶望に暮れるウルフとジーナへ馬鹿みたいに明るく問い掛けた。
「はい、ここで問題! 僕は今日、何をしにここまで来たでしょーか!?」
「……すまない、ユージーン。今日は……帰ってくれないか?」
「駄目駄目、シュタイナーが遠くに離れてる今日じゃなきゃ、僕の計画が達成出来ないから。フィリックスに酷い事言われて泣きたいだろうけど、今日は予定通り過ごしてもらうよ!」
「いやな、ユージーン。だから今日は……」
「僕は、諦めないから。だから嫌でも、動いてもらうよ」
諦めない、という単語に、ウルフは口をつぐむ。ユージーンはすかさずウルフの手を握り、愛おしげに頬ずりした。
「ウルフのやって来た事は、決して無駄じゃない。僕はウルフが認めてくれて、本当に嬉しかった。一年間って期限はあるにしても、僕にジーナという可能性を残してくれて、ありがとう」
「一年間……?」
「僕は、諦めない。ウルフが信じてくれたから、僕はもう諦めない。ジーナも、ウルフも、皆守ってみせるよ。僕には、そう出来る力があるんだから。この国の、王様だから」
暗い影の差した心にとって、希望に満ちた光は眩しかった。無駄じゃないと言われて、温もりを感じて、ウルフは思わず涙ぐんでしまう。ユージーンは甘えるようにウルフへ抱き着いて、いたずらっぽく囁いた。
「だから今日は、とことんフリージオ君を邪魔してやろうと思って」
「……ん?」
「だから、フリージオ君の邪魔するんだよ。大丈夫、別に権力振りかざして脅す訳じゃないから。めちゃくちゃマウント取って、ドン引きさせるだけだから!」
堂々と嫌がらせ宣言をするユージーンに、ウルフは脱力してしまう。人の見合い現場をかき回すなど、本来は叱りつけないといけない状況だ。だがあまりに天真爛漫で、なんとなくそれを咎める気持ちにはならなかった。
ウルフは、気付いていない。実際自分が当事者になると、案外気付かないものである。明らかな部外者を、さも関係者のように押し通して連れて行く。それは『シルフィードの乱』のきっかけとなった建国パーティーの日、ユリカが使った手口と全く同じである事に。
「だから、ジーナもごめんね? もう今日は外に出たくないだろうけど、僕に付き合ってほしいんだ」
「でも、私……」
「僕と一緒でも、辛いかな? 大丈夫、僕は、絶対ジーナを一人にはしないから」
そしてジーナも同じく、乾いた心を無償で潤す雨のような声に揺らぐ。動けない時に差し出された手は、まるで光の指標のようだった。
「まずは、お化粧直しかな。泣いてるジーナも可愛いけれど、その顔を見ていいのは僕とウルフだけだから」
「っ、ごめんね……、ごめんなさい、ユージーン……」
ジーナはその時初めて、ユージーンの愛情に気付いた。幼なじみでも、姉弟のような愛情ではなく、ジーナという一人の女を慈しむ愛情を。今までさして本気にせずかわし続けてきた事に、ようやく罪悪感を覚えた。ウルフの言う通り、ジーナは考えなければならない。太陽のようにジーナを照らす男に、どう応えるべきなのか。
ジーナもまた、気付いていない。ユージーンがフィリックスの吐いた言葉を覚えているという事は、暴言を吐いた時、既にユージーンは近くにいたという事だ。だがユージーンは、慌てて駆けつけた訳でもなく、怒りで我を忘れた様子もなかった。気付かれないよう足音を忍んで近付き、恐ろしいほど冷静に声を掛けたのだ。それは、天真爛漫なユージーンらしくない行動であった。
「前を見よう、ジーナ。小さい頃は僕が二人に引っ張られてたけど、今度は、僕が手を引くから」
涙に濡れたジーナに、ようやく笑みが戻る。ユージーンはジーナに真っ白なハンカチを渡すと、キザったらしくウインクした。
「このお礼は、ハンカチを洗った後に刺繍でもして返してくれたらいいから。そうだな……ユージーン大好きって入れてくれたら最高だけど、ジーナをいつでも思い出せるように、黄色い薔薇がいいな」
「ふふ……ユージーンったら、よくそんな手を思いつくわね。分かったわ、感謝の気持ちを込めて刺すから」
光が差せば、暗闇も恐れずに済む。ジーナはユージーンの笑みを見ながら、その影にいるフィリックスを思う。
(……フィリックスの事。子どもの頃の憧れとして、折り合いをつける時が来たのかもしれない。私ももう大人だし、いつまでも過去に縛られる訳にもいかない。あれだけ言われたんだもの、もう……諦めないと)
瞼を閉じれば、鮮明に浮かぶ黄色い薔薇の庭園。いつか見たいと話した、約束の場所。どこまでも広がる、終わりのない薔薇の中で、幼いジーナはフィリックスと向き合う。
「ジーナ。僕と、結婚してください。僕と一生、一緒にいてください」
風が吹いて、帽子が舞った。光の粒と共に、青い空へと昇っていく。薔薇の甘い香りが、花びらと共に下りてきた。
「うん……わたしも、フィリックスが好き。フィリックスが、大好き!」
駆け寄って抱きつけば、フィリックスは頬を赤く染めながら笑う。その表情が愛おしくて、ジーナは頬にキスをした。
「ずっと、ずっと一緒よ!」
目を開けば、薔薇はどこにもなかった。ふわふわしていると思い込んでいた幼なじみと、迫る見合いの時間がある。ジーナの両手は、幻よりも大きくなっていた。
「お父様、ユージーン、少し待っていてね。大丈夫、きちんと行くから」
ジーナは二人へ一礼すると、廊下を戻っていく。現実と戦うため、グズグズしていた自分の顔を戻すために。歩いていくジーナの背筋は、ピンと伸びていた。