3・シュタイナー侯爵という男
「ジーナ。僕と結婚してください」
「……え?」
「今日こそは本気だよ。だってもう、ジーナは大人なんだ。貴族でいる以上、結婚しない訳にはいかない。ボヤボヤしてたら、他の人に取られちゃうでしょう?」
「で、でも、私その、そんな突然……」
「分かってる、ジーナは僕の事、友達だと思ってるんだよね。もちろん、王命で無理矢理頷かせるつもりはないよ。けどジーナがホントに誰かと結婚するまでは、どうなるか分からないから。だから、僕が成人するまでの残り一年で、考えてほしいんだ。ウルフ、ウルフもそれで……」
ユージーンがウルフに尋ねようとした、その時。
「お戯れは程々に、陛下」
いつの間に開いていたのか、広間の扉から冷え冷えとした空気が入り込む。こんな時間にやってくるなど、招かれていない客なのは平民の招待客にも分かる事だ。細い眼の間に、深く寄せられた皺。不健康なくらい青白い肌と細い手足。パーティーに似合わぬ軍服に身を包み、カツカツと乾いた靴音を立てて歩く中年の男。この場にいた全員が、凍りつく。オウル・シュタイナー侯爵。マクガフィン王国の大総督を務める、国内有数の大貴族である。
「げ、シュタイナー! なんでここに」
「こちらのパーティーは、今日の予定に組み込まれていましたから。いつもと違いましてね」
「うう、しょっぱなからイヤミ言わなくったっていいのに……」
「さて、フレイル伯爵。この度はご子息とご息女のご成人、誠におめでとうございます。奥方を亡くされ、ご苦労もあったでしょうが、こうしてこの日を迎えられ、喜びもひとしおと思います。これからもますますの発展とご活躍をお祈り申し上げます」
ピクリとも動かない表情筋と、抑揚のない低い声。マナーとして口にしただけの祝いの言葉だとありありと分かる態度に、ウルフは眉を寄せる。
「はあ……それはどうも」
「何か子猫が甘えて鳴いていたようですが、お気になさらず。そういう季節なのでしょう」
「待て、そんな言い方はないんじゃないか? ユージーンは真剣に……」
「今宵は猫の煩い日。真剣に取っては、そちらも困るのでは? 祝い話に一つ、私も参加させていただきたく」
シュタイナーはウルフの抗議をサラリと流すと、ジーナに一通の封筒を渡す。真っ白で何も書かれていないそれを、ジーナは戸惑いながらも受け取ってしまった。
「どうぞ、拝見なさってください」
「は、はい……」
口調は相変わらず無機質で、ジーナは縮こまりそうになる。言われるがまま開封して、すぐそれを後悔した。
「これは……釣書、ですか」
「フレイル伯爵家令嬢として、最高の国益を得られる嫁ぎ先かと。一考してはいかがでしょうか」
封筒に釣書などと書けば、受け取らないと踏んだのだろう。騙された、そう思っても、ジーナは釣書を大勢の人間の前で見てしまった。今から、燃やしてなかった事には出来ないだろう。
「俺を差し置いて、娘に直接渡すとは非常識ではないのか、シュタイナー侯爵。貴族の娘は、嫁ぐまでは親が監督する習わしだろう」
「都合の良い時ばかり貴族の慣習を持ち出されては困りますな、フレイル伯爵。その貴族の慣習を危険だと提唱し、この年まで娘に婚約者の一つもつけなかったのは、一体どなたか?」
「だからといって、こんな騙し討ちを!」
「ここは非公式の場ではありませんか。多少の無礼講は、お目こぼしくださるのでしょう?」
ウルフの言い分を逆手に取り、シュタイナー侯爵は完全に場を支配する。光と影のような立場の二人が対立すれば、また国を割る派閥争いが始まりかねない。国を思えば、ここはウルフが引くしかない場面だ。
「……いや、許さん。俺はジーナの父親だ。ジーナの意思を無視して押し付けようとする輩を、お目こぼしなど出来るか!」
「お父様!」
ウルフが引くものと思っていたジーナは、今にもシュタイナーに殴り掛かりそうなウルフを慌てて止める。ジーナの意思を何より一番に考えてくれた事は、嬉しかった。今も胸が熱くなって、涙が出そうである。だが、そんな父を守るために、ここは丸く収めなければならない。シュタイナー侯爵と対立すれば、ウルフとてただでは済まないのだから。
「お、落ち着いてください! 私、その……ちっとも嫌ではありませんわ! ほら、この釣書を見てください。この方のお名前、フ、フリオ……いえ違うわ、フリージオ・サンスプライト……だそうで、その……とっても、素敵なお名前……? ですから、きっと、たぶん……ええ、素晴らしい方に違いありません!」
ずらずらと書かれた釣書を、あの短時間で目を通すなど不可能だ。ジーナが辛うじて覚えていたのは、相手の名前だけだった。しかし何か褒めなければと思い、ジーナはしどろもどろに、見てもいない相手を持ち上げた。
「お父様、私はもう成人です。自分の結婚相手くらい、自分で見極めさせてください。せっかくいただいた縁談ですから、とにかく一度会ってみますわ」
「ジーナ……」
ウルフも、決して馬鹿ではない。ジーナが何を思って会うと言い出したのか察して、眉を下げる。ジーナの頭に手を置くと、大きな溜め息を吐いた。
「……情けないな。俺よりジーナの方が、よっぽど大人だ」
「いいえ、お父様……私を思って怒ってくださった事、とても嬉しく思います。お父様は、いつだって一番の味方でいてくださるのですね」
ジーナはウルフに頭を下げると、心配を掛けないように微笑む。父を思う、澄んだそれに、周りの人間は皆思わず見惚れてしまった。
ただ一人、シュタイナー侯爵を除いて。
「さすがはフレイル伯爵令嬢、お美しさももちろんですが、頭脳明晰でいらっしゃる」
ジーナを騙せば、ウルフが激昂する。おそらくはそこまで全て、シュタイナー侯爵の計画の内だ。ジーナの口から、見合い相手に会いたいと言わせる事。それを周囲の人間に聞かせる事。見合いの申し込みが殺到しても、決して婚約者を定めなかった宰相の娘ジーナ。その彼女が、自ら見合いをさせてくれと願ったのだ。おそらくはすぐ、この騒動は貴族中の噂となるだろう。ユージーンがプロポーズした事など、話題にも上がらないくらいに。
シュタイナー侯爵は、恐ろしい男だ。ジーナは薄い賛辞の裏にある真っ黒な闇を垣間見て、ぶるりと震える。
「もー、シュタイナーいい加減にしなよ! ジーナ、怖がってるし!」
するとユージーンが、ジーナの前に立って、シュタイナーからジーナを隠す。
「ごめんねジーナ、このおこりんぼおじさんがいたら、せっかくのパーティーも盛り下がっちゃうよね。僕に首輪かけたら、大人しく帰ると思うからさ……来たばっかりで悪いけど、今日は城に戻るよ」
「え?」
「行こう、シュタイナー。これで満足でしょ?」
「陛下のご命令とあらば、お供いたしましょう」
「あ、それとフィリックス」
ユージーンはぽんと手を叩くと、口を開いたまま硬直しているフィリックスに耳打ちする。
「僕は別に、この日にこだわってる訳じゃないから。次止められたら、もっと前の日に動くよ」
小さな声は、フィリックス以外誰も聞き取れなかった。だがそれを聞いたフィリックスが、たちまち青ざめ頭を抱えたのを見て、周囲の者は戸惑い不審がった。
「……だから、後で泣いても知らないからね、って言ったのに」
フィリックスが膝から崩れ落ち、ウルフとジーナが心配してかけ寄れば、周りもそれに注目してしまう。立ち去るユージーンの姿など、誰も気にしてはいなかった。
「……陛下、被っている猫が剥がれていますが宜しいので?」
「どうせ、誰も僕の事なんか見てないよ」
ただ一人、シュタイナー侯爵という男を除いて。
フィリックスはそのまま意識を失い、高熱を出してうなされる。パーティーは中止となり、ウルフとジーナは招待客への詫びもそこそこに、すぐフィリックスの元へと駆けつけた。医師は、体に問題がある訳ではなく、疲れから来る熱だと診断して帰った。ひとまず命に関わるものではないと分かり、二人は安堵の溜め息を同時に漏らした。
「ジーナ。釣書、見せてくれるか?」
しばらく二人はフィリックスを心配して眺めていたが、やがてウルフが話を切り出した。ジーナが渡せば、ウルフはそれを憎々しさで睨みつけながら目を通した。
「フリージオ・サンスプライト侯爵子息……か。乱以前からの由緒正しいお貴族様だな」
「その方は、シュタイナー侯爵の派閥なのですか?」
「いや、シュタイナー侯爵に派閥はない。というか、シュタイナー侯爵が派閥というものを毛嫌いしているからな。貴族は皆等しく国王陛下の下に並んで頭を垂れるべしって」
「では、なんの意図があって、こんな縁談を……」
ウルフはしばらく考え込み、記憶を辿る。
「…………サンスプライト侯爵家と縁を結べば、新興貴族だと文句をこぼす奴らが少し静かになるな。逆に、向こうは古くから王家に仕える貴族だが、取り立てて大きな功績はない。うちと縁を繋いでおけば、名前だけの貴族だと馬鹿にされる事も減るだろう」
「え? それでは、本当に、政治的には良い縁談なのですか?」
「まあ、向こうの家に功績はないが、悪い噂もない。むしろ地に足のついた堅実な経営をする家だと、評判はいい方だ。今まで婚約者がいなかったのも、おそらくは乱の影響だろうな。あまり覚えていないが、子息も穏やかで良さげな男だった気がする」
先の乱は、婚約破棄から始まった事件だ。婚約する事でいざこざが起きるなら、いっそ婚約などしなければいい。ウルフがそう提唱し、国王であるユージーンも婚約者をあえて定めなかった事もあって、今のマクガフィン王国に、表立って婚約という契約を結ぶ者は少なかったのだ。
「では、どうしてシュタイナー侯爵は、こんな縁談を?」
思わずジーナは、ウルフへ同じ質問を投げかけてしまう。もちろん一番は、国益を考えずジーナへ言い寄るユージーンへの牽制だろう。だが、わざわざジーナにとって良縁を選ぶ必要はない。ウルフはシュタイナー侯爵にとって、友好な関係の存在ではないのだから。
「多分、力関係のバランスを取ろうとしているんだろうな。うちが栄えすぎず、かといって足を引っ張られない程度に。サンスプライト侯爵家は、貴族皆を横並びにするのにちょうどいい相手だ」
「皆が横並びになるなど、可能なのでしょうか?」
「横並びでありたいと思わない者にまでそれを強制するから、シュタイナー侯爵は評判が悪いんだ。ただ……奴に、私心はない。それだけは確かだ」
話だけ聞けば、シュタイナー侯爵はただの公平な人だ。皆が横並びであるなら、不平等である事がきっかけの争いはなくなる。野心を持たず、私心なく王家に仕えるつもりならば、彼の主張はなんら問題がない。
「私……この話、お受けした方が良いでしょうか」
「ジーナ、それは違う。確かにシュタイナーの理論は効率的なんだが、人には感情が伴う事を配慮していない。心を殺して義務だけを果たすなんて、そんな人生を生きられる奴なんかほとんどいないよ」
「ですが……」
「お前が心から望むなら、サンスプライト家の令息でも構わないさ。けど、ユージーンの事も、しっかり考えてやってほしい。今日のあれは、本気だった。家柄がどうとか義務がどうとか、言い訳をして、真剣な思いから逃げては駄目だ」
「私が望めば、ユージーンと結婚してもいいと?」
「望むならな」
ウルフは視線をフィリックスに向けると、眉間に皺を寄せる。未だ熱にうなされる姿は弱々しく、体は大きいが小さく見えた。
「フィリックスだって、望むなら……」
汗をかいた額に手を伸ばそうとして、ウルフは首を振る。伸びた手は空気を掴み、そのままだらりと下がった。
「いや、悪いのは俺だな。未来ある子どもが、心のままに生きたいと言えない世の中にした、俺の責任だ」
「お父様、お父様が悪いはずありません! これほどまで私やフィリックスを思ってくださるお父様に、なんの非があるのですか! 私は、お父様が大好きです」
だが、ウルフは頭を垂れたままである。
「いっそシュタイナーが欲に塗れた俗物なら、追い落とすのも楽だったんだけどな……」
なんて、俺らしくない発言だな、とウルフは一人ごちると、ジーナに笑みを向ける。心配させまいと振る舞う父の姿に、ジーナは思わず唇を噛んでしまった。
「フィリックスの事、頼んだぞ。目が覚めるまで、そばにいてやってくれ」
そう言い残して、ウルフは部屋を立ち去っていく。ジーナはしばらく閉じた扉を眺めていたが、フィリックスが小さなうめき声を上げた事で、ジーナの神経は一気に張り詰めた。
フィリックスは寝返りを打つと、また寝息を立てる。心配で張り裂けそうな心臓が落ち着いた頃、ジーナはフィリックスの、熱で熱くなった大きな手を握った。
「私が望めば、フィリックスと……」
想像したのは、余計なしがらみを捨てた未来。だが、その未来が来ないのは、ジーナが一番よく知っている。綺麗に着飾っても、たいして褒めてくれないフィリックス。朝帰りで、他の女の痕跡を残して帰ってくるフィリックス。会えない日に心を痛めている間、フィリックスは街で楽しんでいるのだ。
愛し合っていなければ、意味がない。ジーナが望んだところで、フィリックスに覚悟がなければ未来なんてありはしない。叶う事のない望みに、ジーナの頬は涙で濡れるのだった。