1・黄色い薔薇の君
今年も、中庭に黄色い薔薇が咲いた。相変わらず、宰相であるウルフは忙しく、ジーナはガゼボで一人、乱れ咲く薔薇を眺めていた。
ジーナは、美しい娘に育った。亡くなった母にそっくりだと、知り合いにはよく褒められた。朝の荘厳な光を閉じ込めたような金の髪は、毎日メイドに整えられている。成人の年である18歳を迎えても無垢さの抜けない顔立ちは、男女問わず人を惹きつける。会う者全てに褒められるものだから、ジーナも流石に自分が美しいのだという自覚はある。だが、裏打ちされた自信も、ジーナにとってはなんの意味ももたらさなかった。
「……まだ、フィリックスは戻らないの?」
控えるメイドに訊ねれば、そのメイドは眉を下げる。同じ質問を何度もされれば、どう答えたものかと悩むのだろう。真実がいつも安らぎをもたらすとは、限らないのだから。
ジーナは、幼い頃からさして変わらずに育った。父、ウルフが実直な人間であるように、ジーナもまた裏表というものが少ない人間であった。だが、幼い頃には天使のようであったフィリックスは、変わった。勉学を嫌って屋敷を抜け出し、数日後に誰かの口紅の跡と酒の匂いを連れて帰ってくる事の繰り返し。精悍な顔立ちはいつの間にか、下品な笑いを貼り付けたまま変わらなくなってしまった。
「ごめんなさい、困らせてしまったわね」
ジーナが謝れば、ますますメイドは恐縮してしまう。さらに困惑させてしまった事に苦笑いを浮かべながら、ジーナは庭の先、屋敷の入り口の方を見つめた。
約束を覚えているのは、自分だけ。そう思っても、ジーナは幼い頃、初めて心に咲いた薔薇を忘れられずにいる。どうしてフィリックスが変わってしまったのか。それが分からないほど、ジーナは子どもではない。しかし理由が理由なだけに、ジーナはフィリックスの奥に眠る誠実さを信じずにはいられなかった。
中庭に、風が吹いた。ジーナの髪を揺らしたそれは、すぐに収まり静寂に戻る。だがそれは、ジーナの心へ、一つの思い出を揺り起こした。
突然に強い風が吹き、ジーナの帽子はふわりと離れていく。たいした重みもない小さな帽子は、あっという間に中庭の端、大きな木の枝まで飛ばされてしまった。
「あんな高いところに……どうしよう」
たまにしか会えない父が、可愛いと褒めてくれたお気に入りの帽子だ。ジーナは慌てて駆け寄り、両手を伸ばして跳ねてみるが、全く届きそうになかった。
「ジーナ、そんなところでどうしたの?」
困り果てるジーナの元に現れたフィリックスは、赤い目を丸くして首を傾げる。ジーナはすぐフィリックスの胸に飛び込むと、木の枝に引っかかった帽子を指差した。
「どうしようフィリックス、ぼうしが取れないの……」
「ああ、あれは……確かに、取れなさそうだね」
「フィリックス、だれか大人を呼んできてほしいの。早くしないと、またとんでいっちゃうかも」
おてんばな娘なら、木登りの一つでもしたかもしれないが、ジーナは根っからのお嬢様だった。自力で取るという選択肢はそもそもなく、手を合わせてフィリックスに頼む。だがフィリックスはしばし帽子を眺めると、小さく頷きジーナに耳打ちした。
「ちょっと、帽子が飛ばされたところまで戻ってくれる? 今度は、大丈夫だと思うから」
「え?」
何が大丈夫なのかは分からないが、大好きなフィリックスの言う事だ。ジーナは疑問に思いながらも、帽子が飛ばされた位置まで戻る。フィリックスはジーナが立ち止まったのを確認すると、深呼吸して両手を帽子に向けた。
「ロロ・ブリジーダ」
離れたジーナに、唱えた言葉は聞こえなかった。だが、その瞬間、風がざわめき、フィリックスから小さな光の粒が溢れ出したのを見れば、何かが起こったのは明らかだった。
「なに、あれ……!」
フィリックスから溢れる光の粒は、帽子を包み込む。ふわりと浮かんだかと思えば、突風がジーナに向けて吹いてくる。思わず目を閉じれば、ぽすりと頭に何かが乗った。
「え?」
それは、先程光の粒に包まれたジーナの帽子だった。ジーナは慌てて帽子を手に取り眺めてみる。光の粒が、溶けるように消えていく。間違いなくそれは、ジーナの帽子だった。
「ジーナ、もう大丈夫だよ。よかったね」
「フィリックス……ねぇ、さっきのなに? どうやったの?」
駆けてきたフィリックスに、ジーナは思わず詰め寄る。フィリックスはジーナの勢いに目を丸くしながらも、にこやかに答えた。
「魔法だよ。この世界ではほとんど廃れてしまったけど、まだ魔法の力が残ってるんだ。さっきは魔法で、帽子の時間を巻き戻したんだよ」
「まほう? そんな、おとぎ話みたいな……ううん、でもフィリックスが使えたんだもんね。そっか、まほう、ってほんとうにあるんだ……」
ジーナはしばらく帽子を眺め、魔法としか呼べないその現象を思い返す。魔法は本来失われた技術だが、王族や神官など、魔法使いの血を色濃く引いた者だと発現する事もあると伝えられている。しかしあまりに使用者が少なすぎて、もはや大半の国民にとって、魔法とはおとぎ話でしかなかった。驚きであまり覚えていないが、キラキラと輝くフィリックスは神々しかった。何より、ジーナのために帽子を取ってくれる優しさ。おとぎ話に出てくる王子様のようで、ジーナの胸は高鳴った。
「フィリックス、ありがとう。まほう、使ってつかれてない? いっしょに、おやつでも食べよう」
「うん、ジーナが無事でよかった。一緒に行こう」
ジーナが手を繋げば、フィリックスは柔らかく握り返す。魔法の手はジーナより大きいが、まだ小さい。幼い心に宿る愛情は、魔法の光のように眩しいものだった。
だが、それを見ていた大人にとって、それは心温まる優しい光景ではなかった。離れて護衛をしていた騎士達は青ざめ、慌てて家令へと報告に走った。
思い出の帽子は、今でも部屋に飾ってある。中庭の木も、変わらずにジーナを見守っている。あの時は届かないくらい大きかった木だが、こうして見てみるとさほどの高さでもないかった。
(今なら、少し登れば取れそうね)
幼い頃は登るなどと思い付きもしなかったが、大きくなった今ならそれも選択肢として思いつく。どのみち、足首まで隠れるドレスと、低めだがヒールのある靴では難しいが。どの枝に引っかかったのか思い出そうとして、ジーナは木の周りをぐるりと一周してみる。しかし流石に、そこまで詳しくは思い出せなかった。
風は、あの日のようにざわざわと過ぎていく。葉の間から、光の粒が見えた気がした。懐かしさに身を任せ、ジーナが木の幹に手を触れた瞬間、静かな空間がびりびりと震えた。
「ジーナ!」
恐れを含んだかのような叫びと共に駆けてきたのは、ジーナの待ち人。肩まで伸ばした銀の髪を揺らし、汗だくで現れたのは、フィリックスだった。
「フィリックス……きゃ!」
フィリックスはジーナの右手首を掴むと、強引に引き寄せる。フィリックスに触れられるなど久々で、ジーナは思わず顔を赤くした。しかしフィリックスに、甘い空気は感じられない。ジーナはガゼボに引きずり込まれて、座らされてしまう。緊迫した様子に、ときめきはすぐに吹き飛んだ。
「どうしたの、そんなに慌てて? と、とにかく落ち着いて話をしましょう?」
だが、フィリックスはジーナの声などまるで聞こえないかのように、顔をぐいと近付ける。フィリックスの赤い目がジーナを隅々まで覗くと、やがて安堵の溜め息が漏れた。
「……いや、なんでもない。無事でよかった」
フィリックスは、そのまま向かいに座ると、髪をかき上げ乱暴に撫で付ける。乱れた髪はちっとも整っていないが、それはそれで男の色を感じさせた。
「ジーナ。あの木には近付くな」
この国では他に見かけない、冬の朝晴れのような髪色。いつの間にか、ジーナよりもずっと大きくなった体。貴族らしからぬ、胸元の空いた派手な柄のシャツを着ているのは、街へ繰り出した帰りだからなのだろう。握られた右の手首の感覚を思い出して、ジーナは思わず手を握り締めた。
「それは、どうして?」
「あの木は、今年の大雨で大分弱っている。いつ枝が腐り落ちるか分からないんだ。怪我をしたくなければ、絶対に近付くな。庭師には、俺から伝えておく」
「……分かったわ。フィリックスが言うなら、近付かない。教えてくれて、ありがとう」
「分かってくれたならいい。じゃあな」
フィリックスはぶっきらぼうに言い放つと、席を立つ。ジーナは、反射的に大声を上げてそれを引き止めた。
「だめっ……行かないで!」
せっかく、数日ぶりに会えた想い人だ。このまま別れたくなくて、ジーナは焦る。だが言葉で簡単に引き止められないのは、これまでのやり取りでジーナも察している。どうしたらフィリックスが残ってくれるか。ジーナが混乱のまま導き出したのは、脅しの言葉だった。
「このまま行ったら……私、あの木の幹を枕にして一晩眠るからね!」
子供っぽい脅しに、フィリックスは目を丸くする。一方でジーナは、心配を無下にするような言動に自己嫌悪を覚えていた。思わず口にしてしまったが、フィリックスの忠告を5分も経たずに破ろうとするなんて、嫌われてしまうのではないかと恐れた。
「まったく……はいはい、分かった。今日は家にいるから、きちんと部屋で寝てくれ」
フィリックスは眉を下げて肩をすくめると、もう一度席に着く。苦笑いする様子を見る限り、呆れはしても嫌われていないようだ。ジーナは安堵すると、久々に会えたフィリックスを改めて覗いた。
「お父様が、心配してるわ。フィリックスと話す暇がなくて、どうしたらいいか分からないって」
「どうって……俺の立場が立場だ。独立して一人暮らしするわけにもいかないだろうから、これまで通りここで普通に暮らすさ。なにか命令があるなら、従うし」
「独立……したいの?」
「普通の子どもは、成人したら独立するもんだろ」
ジーナと同い年であるフィリックスも、今年成人を迎える。貴族は一人暮らしこそしないが、親の仕事を手伝い、領地の管理を始めるだろう。社交もますます盛んになり、結婚だってしなければならない。
幸か不幸か、ジーナとフィリックス、どちらにも婚約者はなかった。ここ数年、ジーナは何度も父のウルフが釣書を暖炉へ焚べているのを目撃している。それが誰に宛てられたものかは分からないが、婚約者をあえて決めずにいたのは明らかである。
ジーナは一人娘だ。そして、フィリックスは養子であり、血の繋がりはない。誰しもが思うだろう。ウルフはフィリックスに跡目を継がせるため養子として育て、いずれジーナと結婚させるつもりなのだと。
「俺が、普通の子どもでないのはジーナも知ってるだろ? 父さんが俺の父親でなかったら、どうなってたかなんて分からない。今まで育ててくれた事には感謝してるから、これ以上は……いいんだ」
「そんな事ない! フィリックスは、フィリックスは……なにも悪くなんてないのに……」
「一生、ろくに働きもせず遊んで暮らせるんだ。考えようによっちゃ幸せな生活だろ? ちょっとくらい、オイタはさせてもらうけどな」
フィリックスは下品な笑いを貼り付けるが、ジーナは知っている。フィリックスは元々勤勉で、努力を苦と思わない性質。籠の中で歌って過ごす事を、幸せだと感じる人間ではないと。
「さて、湿っぽい話はよしとこうぜ。久々に家に帰ってきたんだ、たまにはゆっくり昼寝でもするかな」
だが、フィリックスは決して仮面を外さない。国のため、人のため、父のため、そしてジーナのため。今日も放蕩息子を装う。それが、ユニ・シルフィード侯爵令嬢の息子、フィリックスの選んだ道だった。