エピローグ・遅咲きの白薔薇
ユージーンがフリージオに知らせをよこしたのは、当日の朝の事だった。なぜもっと早く言わないのかと文句を言いたいのを飲み込んで、フリージオは顔面蒼白で準備を始める。その姿を眺め、ユージーンはからかいの笑みを向けた。突拍子もない国王に付き合わされる事にフリージオが胃を痛めていると、シュタイナーが無表情で胃薬を差し出してきた。
「くれぐれも陛下に逃げられぬようにお願い致します。逃げられたらどうなるかは……分かりますね?」
冷え切った眼差しに、フリージオの胃はますます激しく傷んだ。
ユージーンがフリージオを連れて向かったのは、フレイル伯爵家であった。馬車から降りると、ウルフが二人を出迎えてくれる。玄関先には、大きな鞄を持ったジーナと、憑き物が落ちたかのようにスッキリとした顔をしたフィリックスも立っていた。
「二人とも、ジーナの見送りに来てくれてありがとうな。ぜひ、声を掛けてやってくれ」
今日は、ジーナが王都から離れ、修道院へと向かう日だった。修道院を始めとする教会は、政治に不可侵である代わりに王家からの干渉を拒否する権利を有している。一度保護されれば、国王であるユージーンでさえも手の出せない場所。世俗から離れ質素倹約を心掛け、婚姻を禁じ、神に身を捧げる。それが、ジーナの選んだ道だった。
「ジーナ、もう準備は全部済んだのかな? 忘れ物してない?」
「ユージーン! それに、フリージオ様も……ありがとう。見送りに来てくれたのね」
「うん。今日がきっと最後だろうから、いてもたってもいられなくなって」
ユージーンはジーナへ、手を差し出す。修道院は男子禁制。手紙こそ制限されていないが、外出や面会には許可がいる。家族であるフィリックスやウルフはまた会えるだろうが、ユージーンとフリージオにとっては、おそらくこれが人生で最後の邂逅だ。ジーナはそっと握手すると、ユージーンに柔らかな笑みを向けた。
「今までありがとう、ユージーン。私にとってユージーンは、大切な友達よ。修道院に着いても、ユージーンが幸せになるよう祈るから」
「うん、ありがとうジーナ。ジーナも、体に気を付けて元気でね」
ユージーンへ挨拶を済ませると、ジーナはフリージオへ深く頭を下げる。フリージオも、それに笑みで応えた。
「フリージオ様がいなければ、私は今ここにいられませんでした。助けてくださった事、背中を押してくれた事、全てに感謝しています。恩を返せないままお別れになるのは申し訳ないのですが……本当に、ありがとうございました」
「恩なんて、気にしないでください。私は自分の心に正直に生きているだけ。そしてそれは、誰にでも持ちうる権利なのですから」
「それは貴族でもそうだと、思われますか?」
「ええ。もちろん、正直に生きる道が楽な道とは限りませんが。自分の心に嘘を吐き、楽な道を進む者も、世の中には沢山存在するでしょう」
ジーナの選んだ道は、とても険しく厳しいものだ。修道女となれば、もはやシュタイナーが口を挟む余地はない。政略結婚を迫られる事も、良からぬ企みを持つ者に狙われる心配もなくなる。だがそれは、貴族として裕福に暮らしていた生活も、愛する人と顔を合わせる機会すらも諦めるという事でもある。結婚し子を授かり育てるといった、いわゆる平凡な幸せは望めないのだ。
「しかし、あなたの選んだ道を間違いだと言える者はどこにもいませんよ。遠い未来……陛下が太平の世を築き、国が盤石となったその時に、あなたを取り巻く環境がどうなるかは分かりませんから」
「……ありがとう、フリージオ様」
「ですから、陛下。私は国のためにお力を尽くし……って、あれ、陛下?」
フリージオがユージーンの方を見てみれば、そこにユージーンの姿はない。いつの間に消えたのか、誰も気が付いていなかったようで、全員の体から血の気が引いた。
「ちょっ、なんで、こんな時にっ……僕が後で怒られるんですよー!」
「わ、私探しに行きます!」
「いえ、フレイル伯爵令嬢はご家族との挨拶もあるでしょう。私がなんとかしますから、お気になさらず! 申し訳ありません、なんだか格好のつかないお別れになってしまいますが、失礼します!」
フリージオは慌てて首を振ると、皆に頭を下げて走り去っていく。湿っぽい別れとはかけ離れた空気に、ジーナとウルフは苦笑いをこぼしてしまった。
「最後までユージーンは、ユージーンらしいわね」
「そうだな。まあ、向こうに着いたら、手紙を書くといいさ。城に送るのは流石に無理だろうが、俺がユージーンに直接渡してやるから」
ユージーンを純粋だと信じてやまない二人は、微笑ましくやり取りする。だがフィリックスは一人、申し訳無さでうつむいていた。
フリージオは胃痛に悩まされながら周辺を駆け回り、人気のない小さな川辺でうずくまっているユージーンを発見する。
「陛下、一体どうなされたのですか! まだ一言しか話してないのに、あれでお別れなんて……」
ユージーンの隣に駆け寄りしゃがみ込んだところで、フリージオは気付く。顔を伏せて隠したユージーンの肩が、酷く震えている事に。
「陛下……」
「……僕、ジーナが嫌いだ。結局自分達の事しか考えてないくせに、友達面して好意を押し付けて、僕を傷付けてる事にも気付かないくせに」
憎しみを隠そうとしない、直情的な言葉。だがそこに、底知れぬ恐怖は感じない。まるで小さな子どもが駄々をこねているような姿に、フリージオは戸惑いを隠せなかった。
「嫌い……嫌いなのに。僕の情緒はおかしいよ。勝手に涙がポロポロ出てきて、取り繕えなくなるくらい苦しいんだ」
「それは…………取り繕わなくても、よかったのでは?」
「だって、こんなの……格好悪いじゃないか……っ!」
フリージオは思わず、子どもへするように、ユージーンの頭を撫でる。勝手に触れるなど不敬だが、ユージーンは何も言わなかった。
「頑張りましたね、陛下」
「……フリージオ君が、僕を口説き落としにかかってる」
「冗談を言えるくらいなら、心配ありませんね」
ユージーンのすすり泣く声は変わらず、顔をあげる様子もないが、フリージオは笑い飛ばす。ただそばにいようと決めて、頭をぽんぽんと軽く叩いた。
一方、フレイル家ではとうとうジーナが出発する時間が迫っていた。荷物は既に馬車へ乗せ、後はジーナ本人が乗り込むだけである。ウルフはジーナを抱き締めると、最後に訊ねた。
「ジーナ。本当に……後悔しないか?」
「はい。だって、色々気持ちを押し込めてた今までよりも、今日の方が、晴れやかなんだもの」
「そうか……それなら、いいんだ。でもな、やっぱり違うと思ったら、いつでも帰ってきていいんだぞ。お前がどんなに間違えたって失敗したって、親は子どもの帰る場所だ」
「ありがとう、お父様」
ジーナがフィリックスに目配せすれば、フィリックスは照れくさそうに目を逸らす。今の言葉が本当に必要なのは、ジーナではなくフィリックスの方だ。しかし、もとよりジーナに心配はない。フィリックスはウルフを父と慕っており、ウルフはフィリックスを本当の子と思っている。色々軋轢はあったが、上手くいかないはずがなかった。
「さて……そろそろ、出発だな」
ウルフはジーナを離すと、フィリックスの背中を叩く。促されて前に出たフィリックスは、上手く言葉が出ないのか、咳払いしたり顎に手を当てたりと、落ち着かない様子であった。
「フィリックス。私、フィリックスが好きよ」
「っ! ジーナ、それは、その」
フィリックスはついウルフに目を向けてしまうが、ウルフは後ろを向いて知らない振りをしている。空々しく口笛を吹いているあたり、演技なのが丸分かりであった。
「今さら気にしなくていいわ。だって、ずっとそうだったもの。私の魂に根付いた気持ち。きっと何回やり直したって、この気持ちは変わらないわ」
「……何もしてやれなくて、すまない」
「ううん。全部話してくれて、嬉しかった。話してくれたから、私は自分の行きたい道を選べたの。私は、嫌な事から逃げるんじゃない。自分を貫くために、進むのよ」
ジーナはフィリックスの肩に手を置き、つま先立ちをして頬にキスをする。それはまだ、親愛の証であった。
「さようなら、フィリックス」
そう言って笑ったジーナは、満開に咲き誇る黄色い薔薇の花だった。
ジーナ・フレイルが修道院に入って24年ののち。『アカシアの王』ユージーンは、腹違いの兄であるフィリックスへ、ジーナとの婚姻を条件にフレイル家の家督相続を許可し、修道院との協議の末ジーナを還俗させた。これは政敵であるフィリックスへ、宰相辞任後は地方に籠もり実効支配力を失ったが、国民人気は高いフレイル家を与える事で、不満を逸らしつつ力を抑える策だったと言われている。さらに、子を授かる可能性のない年齢のジーナを与える事により、フィリックスが王家の血を引く跡継ぎを産ませる可能性を潰す意図もあったとも言われていた。
が、ジーナ・フレイルが修道女時代に書かれたものと見られる手紙が発見され、その説の信憑性が危ぶまれている。手紙には『貴方と共に過ごせる日を待ちます』と、当時からフィリックスを愛しているような記述が残されていた。元々義理の兄妹でもある二人であるがゆえに、それが家族愛であるか異性としての愛であるか、判断は難しい。しかしもしこれが異性としての愛であるとすれば、婚姻の意図がまったく変わる可能性がある。
ユージーンは、二人の親友でもあったという説がある。ユージーンが黄色い薔薇をモチーフとした物の献上を禁止したのは、それが3人の友情の証であり、特別に思っていたためだという。もしユージーンが親友である二人の愛を知っていたとすれば、政治的な混乱を引き起こさなくなるタイミングを図り、純粋な善意で二人を結ばせた可能性が浮上する。
しかしそれが真実なのだとすれば、ユージーンがジーナへプロポーズしたと記されたシュタイナーの手記と矛盾する。二人が愛している事を知り、応援するつもりであるならプロポーズはなかっただろう。だがユージーンはプロポーズから数ヶ月でジーナへのプロポーズを撤回していると同手記に記されているため、その数ヶ月の期間に二人の愛に気が付いた可能性も否めない。が、撤回はジーナ誘拐事件により、ジーナとシュタイナー、どちらを手元に残すかの二択となってしまったユージーンが、シュタイナーを選んだためと同手記には記されている。
ジーナ・フレイルの修道院入りは、逃げの一手だったのか。それとも結ばれる時をひたすら待つための攻めの一手だったのか。今後の解析が待たれる。
《とある歴史家の手記より》
コットン地方が誇る、黄色い薔薇の庭園。そこはウルフの思い出の地であり、ジーナにとって憧れであった。ウルフの宰相辞任と共に、コットン地方の一部を与えられたのは、おそらくユージーンの粋なはからいだったのだろう。居心地の良さに、ウルフはすっかり王都へ戻らなくなってしまった。
そして、ウルフと共に暮らしたフィリックスにとっても、もはやここは故郷だった。血筋ばかりを気にする中央の人間から離れ、慕う父と共に過ごす穏やかな日々は、フィリックスに安らぎを与えた。空気がよかったのか、ウルフは大した病気もなく天寿を全うした。二人で過ごした日々は宝物であったが、それよりも、やはりジーナも共に過ごした三人での生活が何より宝だった。
黄色い薔薇が風にそよぎ、香りと共に帽子が舞い上がる。深い皺が刻まれた細い手がそれを掴もうとするが、帽子はそのまま薔薇の中へと飛んでいってしまった。
「あら……もう、嫌だわ。せっかく二人で散歩しているのに」
「そういえば、おまえはいつもあの帽子を手放さないな。気に入っていたのか?」
黄色の日傘を持ち、歩むその足はゆっくりである。彼自身は背筋も伸び、しゃんとしているが、隣の彼女は長年の家事や労働の代償か、腰が曲がってしまったのだ。しかし、姿勢は歪んでいても、その話し方には品が滲み出ていた。
「だって、私ったらすっかり頭が白くなってしまったのだもの。おばあちゃんみたいだってあなたに思われたら、ショックだわ」
「そんな事思うものか。大体、俺は昔からそんな髪の色をしていたぞ」
「銀髪と白髪は、違います」
「どんな髪の色をしていたって、おまえが一番綺麗だ」
彼女が足を止めれば、彼の歩みも止まる。彼女の頭は真っ白だが、頬は真っ赤に染まっていた。
「ロロ・ブリジーダ」
風に吹かれて、彼女の白い髪が揺れる。光の粒が舞い、眩しさに彼女は目を閉じた。
「……昔も、こんな事があったな。あれは今回の思い出……だったよな?」
彼女の頭には、先ほど飛ばされた帽子が戻っていた。光が消えると同時に笑う、皺だらけの彼の顔が愛おしくて、彼女は彼に身を寄せた。
「ええ、それは間違いなく今回の私ですよ。先日話していた、ラズベリーパイを作るのに失敗した私は、違う私ですけどね」
「そ、それは……最近、どうにも物忘れが激しくてな。その、歳だ、歳のせいだ」
「ふふ、そんなに焦らなくても怒りませんよ。だって違う私でも、あなたの心を占めているのは間違いなく私なんですからね」
「それはもちろん! その……いつでも、何回やり直したって、俺は必ずおまえを愛するぞ」
黄色い薔薇の庭園で、二人は一対の白薔薇のように花を咲かせる。若さも、子も、後に残すものも何もない二人だが、庭園にあるどの薔薇よりも、彼らは愛を知っていた。
これにて本編完結です。次回以降は、出してはみたものの使わなかった伏線や、本編から削ったお話など、番外編として少し上げていきたいと思います。ここまで読んでくださってありがとうございました!




