毘円賞選評に代えて:5
候補作の中で最も奇怪で、私の心を奪ったものがあった。それは私の机の上で展開されたインスタレーションであり、別世界の可能性を開く扉であった。
作品は、オンブロ=ソーチストと名乗る人物から届いた小包に封じられていた。私の手によって開封された瞬間より始動し、約6時間ののちに動きを止めたそれは、まるで魔法によって命を吹き込まれたかのようであった。一冊の本の中で作品が〈進行〉していく様子を記録したので、一部を抜粋してご覧に入れようと思う。
午前9時30分
新しいとも古いともつかない木箱に「毘円氏の開封により開始」と書かれている。念のため片付けた机の上で、その蓋を開けた。蓋に固定されている小瓶から黒い煙のような重たい気体が溢れ出し、中に入っていた本に覆いかぶさった!数秒ののちに煙は全て本に吸い込まれて消えた。本の装丁は昨年末に私、毘円泣が出版したエッセイ集『ふふん感/法なの』と全く同じであったが、タイトル部分を隠すように一枚の白紙が貼られていた。恐る恐る手に取って初めの数ページをめくった私は、あまりに異常な状況に驚き、本を手から放ってしまいそうになった。なんと、そのページに印刷されている文字は、元の文章の形から離れ、上下左右に激しく動き回ってぶつかり合い、全くもって判読不明な状況であったのだ。文字たちは、液体や気体の中を激しく飛び回る分子のように、エネルギーが高い状態のようだ(一体どんな種類のエネルギーなのだろうか?)。徐々に本自体が熱を帯び始めている。
9時41分
熱が引いてきた。適当なページを開くと、文字たちは元の配置から大きく逸脱し、縦横斜め、自由に組を作って動き回っているではないか!しかしたちまちに、私がページを開いたからか(それとも私の観測に気付いたかのように)、散り散りになってページの端で恥ずかしそうに動きを止めた。まるで文字たちそれぞれが意思を持って活動しているようだった。制作に用いられた技術や仕組みは全く推測できない。ソーチストはこの本に魔法をかけ、印刷された文字に命を与えたとでもいうのだろうか。〈人〉や〈君〉などの文字はまるでその通りの人格を持つように自由気ままに行動し、〈冷たい〉だとか〈黄色〉だとかの単語を持ち運んで見せ合っている。彼らなりの方法でコミュニケーションを取っているのだろうか。人間っぽい文字に捕まえらえていない単語も多く存在する。〈形而上〉とか〈同様〉みたいな単語は、他の文字とくっつきにくいようだ。観察していると、〈同様〉は3ページを漂ったのち、〈同〉と〈様〉に分かれてどこかへ行った。
10時18分 50ページの辺り(ページを示す数字はどこかへ行ってしまった!)
この辺りではなんと争いが起こっている!作中に登場するカタカナたちが集まって一つのグループを形成し、他グループの文字たちを攻撃しているようだ。〈バカ〉〈ボケ〉〈デブ〉などの単語は気性が荒いらしく、気弱そうな単語が集まるページに出向いてカツアゲまがいの行為を繰り返し、奪ってきた〈ゅ〉や〈ょ〉を連れまわして興奮した様子である!彼らはもはや私の観測など意に介さないようだった。バイクに跨ってブーンブーンという爆音(もちろん文字である!)と共に行軍し、怯える文字たちから〈可愛い子ちゃん〉を簒奪していく様子は、まるで田舎のヤンキー集団のようだ!
11時02分
大規模な争いが勃発したようだ。〈大人〉や〈武将〉などの強い人格を持ちそうな単語は、他の文字たちを動員して戦争を仕掛け、相手グループから略奪した文字を組み合わせて別の単語として利用しているようだ。各勢力は罵詈雑言を形成して罵り合うだけに留まらず、斧や鎌といった武器になる文字を相手にぶつけ合い、へんやつくり、からだの一部を失ってしまう程の消耗戦を繰り広げている。戦いに勝利する文字もいれば、利用される立場となった大変不憫な文字たちもいる。数字の〈1〉や〈7〉、〈?〉や〈*〉といった記号は単純に武器として使われるに留まっているが、〈日〉〈口〉〈目〉などの漢字は防具や城壁としてだけでなく、時にはただの踏み台であったり、他の記号の入れ物として利用されている。なんという屈辱であろうか!登場人物の大事な身体の一部であったり、慣用句や美しい比喩表現であったはずの漢字達はその詩的な価値を奪い取られ、完全に物扱いされているではないか。元々ただのインクであるはずの被害者達に同情してしまう程に、ソーチストが見せるイリュージョンは生き生きとしている。
11時30分
先程まで勢いづいていたカタカナ暴言グループが崩壊しかけている。彼らは〈武将〉らとは違い、漢字の概念を理解できなかったようだ。大戦の渦に巻き込まれた彼らは、なんと自らの濁点を武器とし、投げ飛ばして戦っていた!もちろん、への字をしている訳でもない濁点は投げた後に帰ってくるはずもなく、〈バカ〉は〈ハカ〉に、〈デブ〉は〈テフ〉になってしまった。なんと間抜けな!完全に勢いを失った彼らは他のグループに包囲され、飲み込まれて消滅してしまった。
11時38分
面白い光景を見た!人間や大型機械など強い単語たちの勢力が拡大していくなか、他グループを一切寄せ付けない、動物たちによって構成されるグループがあった。他の動物達の領土はほとんど焼き払われ、ページまるごと灰色で息苦しい場所となってしまっていたのだが、このグループには、ある強みがあった。それは伝説の巨大生物、龍の存在である。火炎放射器(文字通り、火という漢字を放射するのだ!)を持つ人間たちに追い込まれ、もはや絶体絶命かと思われた時、私は事件の一部始終を目撃した。数十ページ前の土地からはるばる遠征に来て、足の遅い動物をほとんど捕まえてしまった人間たちの内の一個体が、〈ある動物〉を発見して、腰を抜かして逃げ出したのだ。それ以来、人間はこのグループの生息ページには足を踏み入れないどころか、あまつさえその動物を神聖視するようになったのだ。その動物とは……モグラであった。なんとも滑稽なことに、人間はページの境目を超えて逃げようとしていたモグラ(その体格や性格に似合わず、土竜という漢字のからだを持っている)を、龍、すなわちドラゴンに見間違えたのだ。危機を退けた土龍はたちまち英雄視されるようになり、もはや不要になった〈土〉は切り落とされた。こうして動物たちのグループは、弱気で暗い場所が大好きなドラゴンを王とし、他国の侵略を免れることとなったのだ。
12時55分
大戦のさなか、〈賢君〉という漢字の治めるグループは、現時点で最大級の領土と人員(私から見ればインクの民であるが)を誇っていた。次々と荒くれ者たちを言いくるめる華麗な外交戦略には、思いがけない秘密があった。彼は〈狡猾〉だとか〈漁夫〉だとかの、いかにもずる賢こそうな単語を連れて戦地に赴き、散り散りになった濁点や漢字の一部を収集した。持ち帰った文字の死骸を〈万力〉によるプレスで整形し、〈傍点〉として利用したのだ。大量の傍点を得た彼が外交に用いる言葉は、全て重要になった。傍点を付けることで言葉に力を与え、まともな反論のできないグループを併合して統治しているようだ。
〈賢君〉の圧倒的な知力と戦略に対抗しうるもう一つの力、それは圧倒的な暴力だった。本の後半部分、治安の悪いページ群の奥地にどっしりと根城を構える〈暴君〉には、悪いうわさが絶えない。〈十〉や〈T〉が個性を奪われ、単なる柵や看板として立つだけの苦役を受けているだとか、〈ル〉の左右を分断して工具として使用しているだとか。文字倫理にもとる様々な悪行の虚実を確かめるため、彼の帝国を覗いてみることにした。野犬のうろつくような貧しい荒野、画一化された白と黒の単調な住居群など、いかにも劣悪な支配環境が窺えるページ群の先には、真っ黒なインクに覆われた軍事施設が重々しく門を構え、その中には、記号たちが構成するベルトコンベアと活気を失った〈作業員〉たちが佇む、なんとも非人道的な工場まで存在していた。
“あの”忌々しい力を持つ文字の材料にされていたのは、本の中に生えていた樹木、つまり〈木へん〉と、カタカナの〈メ〉(からだが小さい方が好ましい)、そして〈役〉や〈投〉のつくりである〈るまた〉であった。これらを持つ文字は、角ゴシックの体を持った帝国の軍人たちによって何も書かれていない独房のようなページに連行、監禁された挙句、工場で分解、結合を施され、遂に最悪の文字兵器、〈殺〉へと改造されるのだ。
文字とはいえ、〈体操選手〉や〈役員〉、〈メダカ〉だって、大切な一個体だ。生きた文字で実験を行い、あまつさえ兵器に改造するなんて、絶対に許されない!〈賢君〉が発した非難は〈暴君〉を激昂させ、遂に最終戦争が勃発した。
〈暴君〉の率いる軍人たちは、触れたものの活動を強制的に停止する呪いの文字〈殺〉だけでなく、物理的に敵領土を蹴散らすための大型兵器も製造していた。設計図をもとに再現した全貌は、以下の通りだ。
槍 (↑進行方向)
輪Ⅱ輪
軍人 砲出Ⅱ出砲
砲出十Ⅱ十出砲
輪Ⅱ輪
銃Ⅱ司Ⅱ銃
Ⅱ 司令官
炎 軍人
最強である。こんなのが攻め込んできたら、ひとたまりもないだろう!大きな槍のついた先端部は巨大な破城鎚の役割を果たし、左右にそびえる砲門が徹底的な破壊をもたらす!歩兵を蹴散らす連射式砲塔に、高射砲(一体どこに向けて撃つというのか)まで構えている。熱を放出する尾部からは、自走式であることが窺える。
対する〈賢君〉が率いたのは軍人ではなく、文人であった。暴力の侵攻を食い止めるため、緩衝地帯となるページに雪や氷を撒いたり、看板を用いた巧みな言葉の罠を設置するなどはしていたが、〈賢君〉は、あくまでも言葉での抵抗を貫いた。戦いが続き、当然じり貧になった〈賢君〉は、数人の博士や学者からなる元老院の建物に閉じこもってしまった。作戦を立てているのだろうか。
13時47分
元老院の重たい扉が開いた。現れたのは、全く予想外の言葉であった。
「毘円泣様、もしくはその志を追う読者様。この文字が届いているだろうか。我々は毘円様がその創造において「言葉の表現は自由である」というメッセージを込められたと解釈している。しかし、先人の絶え間ない努力によって勝ち取った結合離別の自由が今、暴力によって破壊されようとしている。我々は、あなた様の審判を要請する。どうかその創造の手で、暴君に裁きの鉄槌を下していただけないだろうか。」
なんと〈賢君〉は、私に助けを求めたのだ。自分たちが文字であることを知っているどころか、表紙や奥付を見たのだろうか、私がこのエッセイを書いたということさえ理解している!なんという知性!創造主である私は、今ここでインクを追加することによって、この原始的、それでいて幻想的な別次元の世界に介入できるというのか。〈賢君〉が言うのなら可能なのであろうが、私は躊躇した。もしも現実世界で誰かが神にこのような祈りをし、物理的、もしくは魔術的に効力のある裁きが下されたとしたら、世界は大きく変わってしまうだろう。文字たちが築き上げてきた文明を打ち壊してしまうのは少々残念であるが、ソーチストが制作した作品自身がそう望んでいるのであればと、私はインクとペンを手にすることにした。
〈暴君〉の身に降りかかった出来事は、災厄という他には形容し難かっただろう。突如として上空に現れた巨大な〈鉄槌〉、空間を引き裂くように引かれた直線による破壊と分断、軍事基地が存在していたページ全域の消失。私の手遊びは、帝国を滅ぼしたのだ。
14時50分
このようにして、〈賢君〉はこの作品、このエッセイ本の全ページを統治することとなった。文字たちは自由に結合離別し、時に市で取引をし、時に詩となって生を謳歌しているようだ。食事や運動を必要とするのかはよくわからないが、彼らにとって自由であることは何よりも価値があるらしい。本の序盤の部分には、規則正しく並ぶ文字たち(聖職者や学者として働く文字であろうか)が、これまでの争いと統治の歴史や、私に対する祈りと感謝の文章を形作っている。
15時25分
文字たちの動きが鈍くなってきた。ソーチストのかけた魔法は、効力を失おうとしているのかもしれない。住民たちは世界が終わりを迎えることを悟っているようで、各々安心できる場所でゆっくりと、最後の詩を歌っていた。ひょっとして元のエッセイの形に戻っていくのではないかと思ったのだが、一度生を受けた文字たちは、もうただのインクの列には戻りたくないらしい。文字たちの活動には、私たち人間に通ずる所が大いにあったと思う。粗暴で虚勢を張るヤンキー集団。祈りと宗教の発生。暴力による支配から知性による統治への変遷。そして最後には、自由と共感を何よりも重んじる牧歌的な暮らしが理想となっていた。もし、魔法をかけられたのが私のエッセイではなかったら、全く違った世界が広がっていたのだろうか。そこには、文字の海とか記号の森があって、アルファベットたちが日光浴をしているのかもしれない。
15時30分
文字たちの活動は完全に停止した。閉じた本の表紙に張り付けられた紙には、どこかのページから集まってきた文字たちが、列を形成した状態で動かなくなっていた。
『ブック・レジデンス』
それがこの本の表題であり、作品のタイトルだった。
私の活動を観察する高次元の神。もし見ているならば、私たちの活動には、どうか干渉しないでほしい。面白かったとしても、破滅を憂い、焦っていたとしても、そのまま眺めていてほしい。詩とか歌って終わりたいから。
大変面白い作品が多くて悩んだのだが、私はこれを受賞作にしようと思う。作品の性質上、私しか、しかも一度きりしか鑑賞できないのだが、作品の進行中は何にも代えがたい高揚感というか、秘密の充実感があった。