番外編1:その後の銀鼠家
オフィスの中、凪の妖術による氷から、ようやく抜け出すことのできた絵里香は激高していた。
「なんなのよ! あの状況で何も起きないなんて、どうなっているのよ! 凪様、もしかして不能なの?」
凪に飲ませた薬は、効果のあるものだったはずだ。
使用する前に、適当にばらまいて実験もしている。
薬を飲ませたαたちは我を忘れ、面白いくらい盛っていた。
「なのに、私を襲わないなんて、信じられない」
自分を魅力的な女だと認識している絵里香は、ただ狼狽した。
そこらの男たちが目の色を変えて欲しがる絵里香を、凪は発情状態にもかかわらず拒絶したのだ。
(こうしてはいられないわ。凪様は、あのドブネズミの実家へ向かったはず)
仕方が無かったとはいえ、素直に情報を吐いてしまったことを後悔しつつ、絵里香は急いで部屋を出ようとする。
だが、行く手に凪の部下たちが立ち塞がった。
「この雑魚が! 命令よ、道を空けなさい!」
絵里香は憤った。
(妖術すら使えないくせに、βのくせに、一丁前に対抗してくる。身の程をわからせてやらないと)
絵里香は自由になった腕を振り上げ、二体の鼠形の傀儡を生み出す。
傀儡は命令通り、まっすぐ凪の部下へと襲いかかった……が。
「はーい、そこまで。オフィスで暴れちゃだめだよー」
部屋の外から間延びした、聞き覚えのある声が響く。
顔を出したのは、凪や絵里香と同じ由緒正しい先祖返りである、樟葉家の御曹司絢斗だった。
昔から、絵里香と絢斗は犬猿の仲である。
(このタイミングで、面倒な奴が来たわ)
絢斗は絵里香の傀儡に目を留めると、あっという間に妖術で動かなくしてしまった。
「いいニュースを教えてあげる。凪君と花ちゃんは無事に再会して家に帰りましたー。そして、花ちゃんの実家の家族は、誘拐容疑で全員警察に連れて行かれたよ。今から向かっても、もう遅い」
「なっ……!」
「ついでに、薬の件で連絡を受けた凪君の両親が怒っちゃったみたいで……君の家に突撃をかけているよ。無事だといいね」
絵里香の血の気がひいていく。
日頃から息子に全く干渉しない凪の両親が動き出すなんて、しかもこんなに早く絵里香の実家に接触するなんて、完全な想定外である。
龍王家は他家に輪をかけて実力主義がまかり通っている。
凪自身も、幼少の頃から次の当主として荒波に揉まれてきた。
彼の両親は必要なとき以外、一切口出ししてこない。
それは、今回の花と凪の結婚でも同じだった。
(ちょっと、発情させただけじゃないの。なんでそんなに怒るのよ)
今度は、絢斗は絵里香に視線を移した。
途端に、絵里香の体が硬直してしまう。
これだから、樟葉家の能力は嫌なのだ。銀鼠家の能力との相性が悪すぎる。
「彼女を実家へ送ってやって。そのあとの処分は、凪君か彼の両親が決めると思うから」
凪の部下たちは「承知いたしました」と返事して、そそくさと絵里香を連行する。
「こんの、腹黒男! 覚えていなさい!」
「次があればねー」
ひらひらと手を振る絢斗が憎たらしい。
そうして絵里香は、強制的に自宅へ連れ戻された。
現龍王家当主の下した処分は、非情なものだった。
実家の事業は大打撃を受けて潰れ、銀鼠家は没落し、絵里香は今までのように裕福な環境にはいられなくなった。
あれほど蔑んでいた庶民になった絵里香の家族たちは、起業したり、就職したりしようと頑張ったが、銀鼠家に恨みを持つ他家から妨害されて危機に陥っていた。
今はそれぞれが凪の温情で雇われの身となり、両親は龍王家が経営する会社の子会社でこき使われている。
だが、絵里香だけは反省せず、何度も龍王家の屋敷へ押しかけようとした。
「あの、ドブネズミ! あんなのがいるから、いけないのよ! 排除しなきゃ!」
何度目かの突撃の際、運良く凪が屋敷の外へ出てきた。
絵里香は歓喜の声を上げる。
「凪様! やっと会いに来てくれたのね!」
だが、凪は絵里香に冷たい目を向けるだけだ。
「うるさい。花に二度と近づくな」
「そんな意地悪なことを言わないで……」
追いすがる絵里香を突き放し、凪は部下に命令する。
「おい、この不法侵入者を追い出せ。顔も見たくない」
「凪様!? 酷いわ!」
絵里香は凪の頑なな態度にイライラした。
「黙れ。こんな場所で一人、油を売っていていいのか」
「なによ、お説教?」
「銀鼠家に恨みを持つ者たちが動き出している。お前やお前の両親は、よほど各方面に憎まれているのだな。せいぜい、気をつけることだ。ここへはもう来るな」
「はあ? うちに嫌がらせばかりして、身の程知らずな……」
「お前は私に飲ませた薬を、本当は部下を使って盗み出したらしいな。しかも、面白半分に、多くの者に服用させたと。……そこの、製薬関連の一族が特に怒っていた」
凪はため息をつくと、屋敷へ引き返し始める。
「ちょっと、待って! 凪様!」
「……これを機にと、お前を捕らえて競売にかけようとしている者もいるらしい。ここへ通い詰めていれば、じきに捕まるぞ」
「うるさいわね! 脅そうとしたって無駄よ! 私は腰抜けの両親と違って、簡単に屈しないわ!」
意地になった絵里香は、その後、何度も龍王家に通い続けた。
いつも侵入前に見張りに追い出されてしまうが、そんなことは関係ない。
(屋敷の中に入ってしまえば、ドブネズミを消して凪様を手に入れられる)
追い詰められた絵里香は妄執に囚われ始めていた。
だが、ある日……
その足取りはパタリと途絶えた。




