53:脱出
茜と蒼を体で突き飛ばし、花は外へ向かって駆け出す。
家族に抗う力などないと、ずっと諦めていた。
黙って流されてきた。
でも、それでは駄目だ。
(凪さん……!)
ここにはいない彼の存在が、臆病な花の背中を押してくれた。
(私は帰る。凪さんのところへ)
だが、花が走り出してすぐ、ちょうど玄関の扉を開けて両親が外へ出てきた。
「そいつを捕まえて! 脱走したの!」
茜がキンキンする声で叫び、両親の目が花を捉える。
「このっ!」
顔色を変えた父が、全力で花の方へ駆け出してくる。
花もまた、両手首を縛られた状態で、力の限り走り続けた。
「止まれ! 今、お前に逃げられたら我が家は破滅だ!」
そんなことを言われても困る。
花だって、このまま物置に閉じ込められ続ければ、売られてしまうのだから。
(こんな風に親に逆らうなんて初めてだわ)
それでも、花は両肩で風を切って走り続ける。もうすぐ、家の前の道に出られそうだ。
しかし、あと少しというところで、後ろから追ってきた父に、結束バンドで拘束された腕を捕らえられる。
「……っ!」
花はその場に引き倒され、コンクリートで固められた地面に全身を打ち付けた。
「手間をかけさせるな!」
頭上で父の怒鳴り声が響き、茜や蒼の足音も近づいてきた。
拳を振り上げる父の姿が見え、花は思わず目をつむる。
だが、彼の拳が花に届くことはなかった。
なぜなら、どこからともなく水が湧き出し、厚い壁となって花を守る一方で、父を弾き飛ばしたからだ。
茜や蒼も突然現れた水の塊に恐れをなして、右往左往している。
(この水は……まさか)
花は大きく目を見開く。
「凪さん!? どうして」
今いるはずのない、でも一番いてほしかった人が……ここに来ている。
腕の拘束のせいで立ち上がるのに手間取っていると、力強く体を持ち上げられた。
「花……」
温かな声を聞くだけで、泣きそうになってしまう。
体を反転させられた花は、ようやく凪の顔を見ることができた。
「怪我はないか?」
「はい、物置に閉じ込められていただけです。なんともありません」
状況を伝えると、凪は力が抜けた様子で花を抱きしめた。
「警察に連絡を。誘拐、監禁事件として報告してくれ」
凪のあとからやって来た凪の部下が、命令を聞いてすぐに電話をかけ始める。
それを見た、花の家族の顔が青くなった。
「に、逃げ……」
よろよろと、父が道路へ向かって駆け出す。
彼につられるように母や茜や蒼も動き始めた。どうやら、このまま家にいたら捕まってしまうと考えたみたいだ。
そんな父が道路に飛び出そうとした瞬間、一台の車が走ってきて家の前に止まった。
(もしかして、絵里香さん?)
しかし、現れたのは彼女ではなかった。
「絢斗さん……」
車からは絢斗と彼の部下と思わしき人が下りてきた。
「凪君、大丈夫? 連絡を受けたから来たけど、銀鼠家絡みだとか……絵里香本人は来てないね」
どうやら凪が彼を呼び出したらしい。
「ああ、オフィスに来たので、そちらで捕らえてある。花を狙ってきた」
「なるほど、それでこの有様なんだ?」
絢斗は今にも逃げだそうとしている花の家族を発見する。
「そこの人たち、逃がしちゃっていいの?」
「いや、駄目だ。拘束のため、部下や警察が来るのを待っている」
すると、絢斗は凪や花の様子を見て告げた。
「早く花ちゃんを帰してあげた方がいい。それに君も、なんだか具合が悪そうだ」
言われてハッと凪の顔色を確認する。たしかに、いつもより少し赤いように思えた。
「心配しなくても、俺の妖術は知っているでしょう? 万が一、絵里香が逃げても、彼女の妖術との相性はバッチリだよ。鼠の置物を量産できる。それに……」
絢斗は私の家族たちをチラリと見た。
途端に、彼らは一歩も歩けなくなり地面に転がってしまう。
樟葉家に伝わる妖術は金縛りだ。
だから、彼の妖術にかかった生き物は動けなくなる。心強かった。
「助かる」
絢斗に礼を言った凪は、花を連れて、自分の乗ってきた車へ移動した。
バタンと扉が閉まり、車が発車する。
「絢斗に大きな借りを作ってしまった」
凪は少し困ったような顔で窓の外を見ている。花はそんな彼に声をかけた。
「あ、あの。凪さん、体調は……?」
「問題ない」
凪は車に置いてあったはさみを手にして、花の結束バンドを切った。
「きつく止められていたせいで、跡が残っているな……」
花の手首を、凪は痛ましげな目で見つめる。
「私は大丈夫です。でも、やはり凪さんの体調が思わしくない気がします。熱があるのではないですか?」
「問題ない……」
それでも、凪は何かに耐えているように思えた。自由になった手を、そっと彼の方へ伸ばす。
「凪さ……」
「花、車内で、それ以上私に近づいてはいけない」
「えっ?」
「今の私は、お前に何をするかわからない」
花は驚いて彼の目を見た。
「今の私は薬を盛られて……その、発情状態だ。幸い、お前にしか反応しないが」
「ええっ!」
今の今まで気づかなかった。
花は自分がヒートを引き起こしたことを思い出す。
辛くて、熱くて、冷静ではいられなかった。
それなのに、まったく普通にしていた凪は、なんという忍耐力の持ち主なのだろう。
今だって、花を襲わないよう、必死に自制してくれていたのだ。
「凪さん……」
花は彼から確かな愛情を感じ取った。
凪はいつも一人でなんでも解決して耐えようとする。こんなときまで……。
(私も凪さんの力になりたい。支えたい……)
苦しげな彼を前にして、自分にできることはなんだろうと花は考える。
「あ、あの」
「今度はなんだ?」
「……え、えっと」
花は勇気を出して、凪に訴えた。
「は、発情していいです! 私を好きにしてください! だ、だって、その、夫婦なのですから!」
凪は驚いた顔で花を眺めている。
「本気か?」
「こんなことで嘘なんて言いません。わ、私は、凪さんが好きです。凪さんになら……だ、抱かれてもいいです」
凪が苦しそうに俯いた。状態が悪くなってしまったようだ。
「花、意味がわかって言っているのか?」
「もちろんです」
「あとに引けないぞ」
「そのつもりでお伝えしました」
凪は俯いた状態のまま、花の背中に腕を回す。
「加減、できないかもしれない。耐える予定だったのに、そんなに煽って……帰ったら覚悟しろ」
「……!?」
二人が話している間も、車は順調に龍王家へ向かい、花たちは無事に家へ帰り着くことができたのだった。




