51:罠と出発
絵里香がにやりとした笑みを浮かべ、凪の方を見た。
「……?」
瞬間、凪の体にビリビリとした衝撃が走り抜ける。
(なんだ、これは……まさか!)
咄嗟に今飲んだ珈琲に視線を移す。
(何か盛られたのか? あの社員は絵里香に買収されていたらしいな)
急激に体が熱くなり、凪は荒い息を繰り返した。
「うふふ、薬が効いてきたみたいね」
具合の悪い体を意思の力で支え、凪は絵里香を睨み付ける。
「薬だと? 何を入れた……」
絵里香は開き直った笑いを浮かべ、質問に答えた。
「αを発情させる薬よ。Ωのヒートと同じような発情状態――ラットを強制的に引き起こす薬。抑制剤を飲んでいても関係なく効果があるのよ? まだ試作品らしいけれど、製薬会社の知り合いに特別に譲ってもらったの」
凪は苦しさから眉を顰める。それを見た絵里香は妖艶な笑みを浮かべ、嬉しそうに唇の端をつり上げる。
「あはは、凪様、遠慮しなくていいのよ? とても辛いでしょう? さあ、私を襲ってちょうだい」
「ふざけるな!」
待合室の椅子から立ち上がった凪は、近づいてくる絵里香に向けて容赦なく水の妖術を放つ。
ヒートの苦しみで、力を加減することもできない。
「きゃあっ!」
水圧に吹き飛ばされて壁に激突した絵里香は甲高い悲鳴を上げた。
しかし、凪は後悔などしていない。
「花はどこだ! 答えろ!」
「まだ妖術を扱える余裕があるなんて。薬の量を増やすべきだったかしら」
よろよろと立ち上がった絵里香は「そちらがその気なら」と、自分も妖術を使い始める。
絵里香の後ろに化け鼠が二体現れた。
これは絵里香の家系、銀鼠家に伝わる妖術である。彼女もまた凪や絢斗のような先祖返りで、妖の力が強く出たαだ。
自ら作り出した複数の化け鼠を操れる能力は厄介で気味が悪い。
ただ、化け鼠の数が増えれば増えるほど、複雑な命令はできなくなる。
「凪様を取り押さえなさい。本当は荒っぽいことはしたくなかったのだけれど、抵抗されるなら仕方がないわ」
二体の化け鼠は、絵里香に命令されたとおり凪に襲いかかる。
そうして凪を床に転倒させ、上から押さえつけてきた。
「くっ……!」
動けない凪に、シャツのボタンを外して胸元を僅かにはだけさせた絵里香が迫る。
「さあ、凪様。一緒に既成事実を作りましょう? あのドブネズミとまだ致していないことなんて把握済み。私があなたの子を宿せば、結婚は破綻にできるわよねえ?」
絵里香は床に倒れた凪のすぐ傍にしゃがみ込んだ。
だが、強制的に発情させられているというのに、不思議と絵里香に対して、凪はなんの魅力も感じなかった。
以前花を襲ってしまったときのような、激しい衝動が沸き起こらない。
それに気づかない絵里香は勝ち誇った表情を浮かべている。
「αはα同士で婚姻すべきだわ。先祖返り同士ですもの、きっと優秀な子ができるはず。うふふ……」
熱に浮かされたような絵里香を、凪は冷めた目で眺め、そして具合の悪い体にむち打ち、再び水の妖術を放った。
水流が化け鼠と絵里香に襲いかかる。
「なっ、この期に及んで……なんて往生際の悪い……いい加減諦めて、私を抱いたらいいのよ! あのドブネズミなら、金をちらつかせただけで、喜んで実家に帰ったわ! 最初から金目当てで、凪様を愛してなんかいなかったのよ」
その言葉を聞き、凪は怒りにまかせて水流を凍らせていく。
「嘘をつくなら、もっとマシなものにしろ。くだらない」
花は金銭で凪を裏切る女ではない。それに、実家とは確執がある。
簡単に戻ったりはできないはずなのだ。
「死にたくなければ、花の居場所を言え」
「あっがっ!」
凍り付いていく水に体を拘束されて、絵里香は苦悶の表情を浮かべる。
「うっ、だからっ、実家に……お金に目がくらんで……もう帰る気もないって言っていたわ……」
「それが偽りだったら、銀鼠家は破滅すると思え」
絵里香が妖術に圧倒されている隙に、凪はふらつきながら立ち上がって廊下を目指す。
運良く、扉を出てすぐの場所に、先ほど凪に書類を持ってきた側近がいた。
親子にわたり、長年龍王家に仕えている彼なら信用できる。
「凪様? どうされたのです!?」
部下は慌てて凪に駆け寄ってくる。
「絵里香だ。強制的に発情を引き起こす薬を盛られた……。まだ表に出ていない薬で、抑制剤も効かない」
「なんと……!」
「花を、迎えに行かなければ。絵里香の話が本当なら実家にいると……」
話を聞いた部下は、すぐにスマホで指示を出し、捜索隊を動員する。
「私も向かう。絵里香の話を完全に信用できるわけではないが」
「しかし、凪様、その体では……」
部下がふらつく凪の体を支える。
だが、凪に自分の足を止める気はない。
「花を放っておけない。行かなければ」
守ると決めたのだ。あの、小さくて弱々しい、けれどまっすぐな妻を。
「泣いているかもしれない」
悲しむ花の姿を想像するだけで、凪の感情がかき乱される。
(長く共にいる番は、発情状態如何に関わらず、相手の居場所がわかるという。それに相手の状態や感情も伝わってくるとか……私と花にはまだその感覚が理解できないが)
今、その力があればよかったのにと凪は悔しく思った。
部下に支えられながら、なんとか車に乗り込む。
凪を運んでくれた部下は、運転手に行き先を告げて自分も助手席に乗った。
頷いた運転手は、すぐに車を発車させる。凪たちを乗せた車は花の実家へ向けてまっすぐ走り続けた。




