38:迎え
いつものようにオフィスに出社した凪は、どうにも仕事に集中できない状況に陥っていた。
それというのも、ふとした瞬間に花の顔が頭に思い浮かび、なんとも言いようのない感覚に苛まれるからだ。
落ち着くような、その逆のような、ふわふわした気持ちは、今までに覚えのないものだった。
(駄目だ、花が気になって仕方がない。いっそ職場に呼び寄せようか)
そこで、凪は彼女が今日、街へ出かけていることを思い出す。
(たしか、近くの大通りで買い物だったな?)
使用人の一人がそう告げていた。
(仕事も大方済んだし、花の様子を見に行ってみるか。現地にいる使用人に連絡を……)
席を立ち上がった凪はオフィスをあとにし、花が買い物しているであろう街へ向かうことにした。
だが、花の護衛を頼んでいる者たちに電話をかけるも連絡がつかない。
(使用人は花と一緒に買い物をしている可能性が高い。邪魔をするのも気が引けて、護衛の方に連絡してみたが……)
どの護衛も電話に出る気配がなく、凪は不安になった。
諦めて花つきの使用人に連絡すると、ようやく電話が通じる。
「凪様、何かご用でしょうか」
「今からそちらへ向かう」
「へっ!?」
使用人が慌てたような声を上げた。
「花は買い物を楽しんでいるか?」
「はい、問題ありません。わざわざ凪様が来られなくとも……」
「問題ない。花の様子を見るだけだ」
電話の向こうから息を呑む音がし、凪は僅かな違和感を覚える。
「ところで、花の護衛と連絡がつかないのだが」
「申し訳ございません、少し電波が悪い場所にいましたので。何かあれば私の方へ連絡いただければと」
「花の声が聞きたい。電話を替わってくれるか?」
「……っ!?」
再び使用人は言葉を切った。
「どうした? 花はすぐ傍にいるのだろう?」
「ただいま、花様はお手洗いに……」
「今いるのは、どの店だ?」
「その、大通り沿いのブランド店、ルビラです」
「わかった、今から行く。そこを動くな」
電話を切った凪は急ぎ車に乗り込み店に向かう。
オフィスからルビラの店までは、車で五分ほどの距離だ。
花は普通に買い物しているだけだというのに、妙に胸騒ぎがする。
(まだ少し早いが、そろそろヒートが起こる時期だしな)
花はヒートが始まって間もないという事情もあり、不定期に発情してしまう。
以前は凪も、花の突然のヒートに巻き込まれてしまった。
(薬は使用人が管理しているはずだから、万一早まっても問題はないだろうが)
車の窓を開け、凪は気を紛らわせた。すると……。
大通りの半ばで、覚えのあるフェロモンが香った。
(花の匂いだ。間違いない)
番同士になってしばらく経つと、徐々に相手の居場所が把握できるようになる。
花はまだだが、凪はある程度の距離まで近づくと、花の居場所がわかるようになっていた。
この現象は、どの番にも表れ、巷では「番センサー」などと呼ばれている。
だが、花の気配は使用人に言われた店の方向ではなく、道沿いにある公園から漂ってきている。
(どうなっている)
悩みながらも凪は運転手に公園の前で車を停めさせ、花の気配がする方向に走った。
嫌な予感が強まる。
甘いフェロモンの香りに、凪の理性が揺らぐ。
抑制剤を飲んでいても、花のフェロモンだけには効果がないのだ。
(急いで花を見つけて保護しなければ)
凪は歯を食いしばり、花の気配が濃い芝生のエリアへ全力疾走した。
普段は土の上など歩かない凪だが、今はそれどころではない。
「花!」
名前を呼ぶが、当然ながら返事はなかった。
だんだん、花の気配が近づいてくる。
すると、芝生の一角に倒れ込んでいる男女を発見した。
ヒート状態の花と、完全に理性を失って彼女を押し倒している絢斗だ。
「……っ!」
頭に血が上った凪は、絢斗に向けて衝動的に水の妖術を放った。
勢いよく放出された大量の水は、正確に絢斗を押し流し、彼を木の幹に強く打ち付ける。
「触れるな! こいつは、私の番だ」
背中にダメージを受けた絢斗は、フェロモンにより我を忘れているのもあって、呆気なく意識を手放した。
凪はすぐさま花に駆け寄り、地面に横たわる華奢な体を抱え起こす。
「花、無事か!?」
「……凪、さん?」
花はゆるゆると顔を上げ、凪を見つめる。
「ああ、本当に、凪さんがいる。体も、動くようになって……る? 絢斗さんが気絶したからかな」
「何があった?」
理性を保つのに苦心しながら、凪は花に問いかけた。
これ以上、花を怖がらせたくはない。
「実は……」
そこで、花は外出先で起きた出来事を包み隠さず凪に打ち明けた。
「あの、絢斗さんを怒らないであげてください。彼は私を助けてくれて、むしろ巻き込まれてしまった側なので」
「事情はわかった。許しがたいが、絢斗が大通りの群衆から花を守ったことには感謝している。きちんと回収して、奴の家に送り届けさせよう」
凪の怒りは絢斗ではなく、使用人と護衛、そして彼らを信用した自分自身に向いていた。
使用人も護衛も職務に忠実な部下だと思っていたのだが、とんだ誤算である。
彼らが敬意を払うのはあくまで凪に対してのみ。
番である花については、龍王家の意を汲むことができなかったのだろう。
詳細を調べた上で、処分を下さなければならない。
「花、公園の前に車を待たせてある。移動するぞ」
絢斗を送り届けるよう、電話で別の部下に連絡をしたあと、凪は花を抱き上げて足早にその場を去る。
ここに発情状態の花を置いておくのは危険すぎだ。
いつ何時、理性を失った輩が襲ってくるともしれない。
(運転手には気の毒だが、タクシーで帰ってもらうことにしよう。花のヒートに巻き込まれては大変だからな。車の中に入ってしまえば、私以外に影響はないはずだ)
花を抱いたまま、凪は公園を大通りに向かって歩きだす。
「凪さん。私を抱えて移動するなんて大丈夫なのですか? 薬は絢斗さんにいただきましたが、完全に効くまで時間がかかるみたいなんです。まだ、その、匂いが……」
「少しの間だけのことだろう。耐えれば済むはずだ」
「ですが、凪さんが苦しそうです」
抱えられた状態の花は潤んだ瞳で凪を見上げた。目が合った凪は、思わず動揺してしまう。
(ぐっ……!? なんという顔で私を見るんだ)
本人は無自覚だが、花はどちらかというと美人の部類だ。彼女に限らず、Ωは容姿に優れている者が多い。
それは番を得て、子孫を残すためなのだろう。
小汚く容姿に無頓着だった花だが、静香たちが磨き上げた結果、周囲の注目を集めるほどの存在に変化した。他人の容姿に興味のない凪でさえ、彼女を美しいと思うほどに。
花にそのような目を向けられたら、理性を保つのがさらに困難になる。
(駄目だ。私は以前、理性を失い花を傷つけてしまっている。怖がらせてはいけない)
凪は必死に耐えた。
だが、公園の道半ばで抗いがたい欲求に襲われ、ついに花を下ろして地面に膝をついてしまう。
車まで、もう少しだというのに、体が言うことをきかない。
アスファルトで舗装された、公園の外周の道ではあるが、運良く人がいないのが救いだ。
薬が効いてきたようで、花のフェロモンは徐々に薄まっているのだが。
(あと、少し。ここで花を襲うなど、絶対に駄目だ)
凪の様子を心配した花が、心配そうに凪の顔をのぞき込む。
それを見ただけで、凪のなけなしの理性が、かき消されてしまいそうだ。
(だ、駄目だ……意識が……)
凪は近づいてきた花の体を掻き抱くと、無意識下で彼女に深い口づけを落とした。




