36:逃走中
(どうしよう、体に力が入らない。立てない……)
石畳の上に倒れたまま、花は恐怖に震えた。
周りには、フェロモンでおかしくなり始めた護衛や、通行人たちが集まってきている。
店の前は大通りになっていて、人も車も多い。
「Ω……」
「ああ、Ωだ」
正気を失った人々が、吸い寄せられるかのように、うつろな表情で花に近づいてきた。
(怖い……!)
今の自分には彼らをどうすることもできない。思わず目をつむって縮こまってしまう。
体を動かすのが酷く億劫で、思考もまとまらない。
立ち上がったところで、この人数の中を逃げ切れるとは思えない。
(私、使用人にも、護衛の人にも、よく思われていなかったのね)
悲しいという気持ちのほか、どこかで「ほら、やっぱり」と考える自分がいる。
何をやっても駄目な自身に嫌気がさした。
存在を認めてくれていた凪や静香だって、今回のことを知れば花を遠ざけるだろう。
汚れきった花嫁など、彼らは必要としないはずだ。
(どうしてこうなってしまうの。私が何をしたというの?)
普通にβとして生きていたかった。Ωなんかになりたくなかった。
こんなのはもう嫌だ。
なのに、花の願いは叶わない。
どんなにあがいたって、第二の性別は変えられないのだ。
花は何もかもを諦めていた。
一番近くにいた護衛が花に乗りかかってくる。何をしても、もう無駄だ。
だが、花の予想は外れた。
上に乗っていた男に何かがぶつかり、勢いよく花の上から落ちたのだ。
何が起きたのかわからず、花は目を白黒させる。その間にも、花に群がっていた者たちは次々に吹き飛んでいく。
「花ちゃん!? ああ、やっぱりそうだ!」
近くで知っている声が響き、花はハッとその方向を見る。
そこには、焦った様子の絢斗が、花に手を差し出すようにして立っていた。
どうやら彼が、花を襲ってきた者たちを突き飛ばしてくれたらしい。
「絢斗さん? どうしてここに?」
「うちの会社、そこのビルなんだ……それにしても匂いがきついな。花ちゃん、薬、飲める?」
「それが、持っていなくて」
「俺の貸してあげる。凪と一緒で普段から持ち歩いているから。水もあるよ」
絢斗は花を抱え起こし、急いで薬を飲ませた。言われるがまま、花は薬を嚥下する。
じっとしている間に他の人間に襲われるかとも考えたが、誰も花たちに飛びかかってこない。
不思議に思って周りを確認すると、皆、時が止まったように動かなくなっていた。
「固まってる? 皆さん、どうしたのでしょう?」
「ああ、これ? 俺の妖術で『金縛り』っていう能力なんだ。凪の水と同じようなものだよ」
「絢斗さんも、妖術を扱えるのですね」
「まあね。先祖返りで血が濃いらしいからさ。さてと、事情は追い追い聞くとして、ここから離れよう。人が多すぎる」
絢斗の妖術で固まっている人々の間から、新たにフェロモンに惑わされた者たちが近づいてくる。
「は、はい……」
「心配しなくても、薬はそのうち効いてくるよ。俺、毎朝抑制剤を飲んで出勤してるから、多少はフェロモンに耐性あるし」
「凪さんも、外出時は抑制剤を飲んでいると言っていました。大きなお家の方は大変ですね」
フェロモンに抗っているのだろう。絢斗は辛そうだ。
抑制剤は朝昼晩と飲まなければならない。
彼が朝薬を飲んできたとしても、そろそろ飲み直さなければいけない時間だ。
「花ちゃん、こっち」
手を引かれるまま、花は街の中を走った
やがて、人の少ない公園の一角にたどり着く。
周りが池になっていて、他の人が襲ってこようにも、池の外を回ってこないとたどり着けない。なかなかいい場所だ。
「ここまで来れば大丈夫かな。でも、そろそろ俺の薬が切れそ……うっ」
「絢斗さん!?」
ほんのり赤い顔で苦しそうな絢斗が心配になり、花は彼に駆け寄る。
「まずい、かも。花ちゃん、俺から離れて。逃げて……限界……」
「絢斗さん!? 薬の予備はないのですか?」
「うっかりしていて、花ちゃんにあげたので最後。ごめん、俺、今まともに動けないから、早く距離を……とって」
「わ、わかりました」
花はよろよろとその場から遠ざかる。
薬をもらえたおかげで、足取りは先ほどより軽い。
そのせいで、絢斗は苦しそうだが、花が離れれば元に戻るだろう。
(絢斗さんの言うとおり、今はここから去らないと)
薬が完全に効いた頃合いを見て帰ってくればいい。
池に囲まれた場所から細い小道を抜け、芝生に覆われた広場に出る。あまり運動しない花はすでに息を切らしていた。
「はぁ、はぁ、もう平気、よね」
そう思って振り返ろうとした瞬間、花は後ろから力強く腕を掴まれ、その場に引き倒された。




