2:体調不良と黒髪の美青年
停滞した日々を送っていたある日、花の身に唐突に変化が訪れた。
仕事を終えた花は、いつものようにビルの裏口から路地へ出た。そのまま、まっすぐ駅へ向かう。
いつもは静かな街だが、この日は少し様子が違った。駅前に人だかりができている。
(何かあったのかしら?)
花は少し興味を持った。
近づいて見ると、高そうなスーツを身に纏った小綺麗な人々が、真新しい建物を囲むようにして集まっている。カメラを手にした取材陣も見受けられた。
正面には郊外に似つかわしくない、お洒落なオフィスビルが建っている。ずっと工事中だったが、ついに完成したらしい。
ビルの入り口には、ここの責任者らしいスマートな男性が立っていて、他のスーツの人々に挨拶している。
(新しいビルができたのね。オープン記念のイベントみたい。責任者は、意外と若いわ……)
少し気になったので、通るときに責任者をチラチラと見てしまった。
黒髪を後ろに撫でつけた男性は、驚くほど端整な顔立をしていた。切れ長の目は涼やかで、意思の強さが感じられる。
すっと通った鼻梁と薄い唇。周囲より頭ひとつ飛びぬけた長身に、広い肩幅。寸分の隙もない美貌は、芸術品と見まがうほど美しく、威厳に満ちあふれていた。
いかにもな上流階級の人間が持つ空気を纏っている彼に、花はしばし見惚れる。
(なんて綺麗な人だろう。きっとαね……私には一生縁のない、恵まれた人)
自分と正反対の、求められる性。
胸の内に複雑な思いが渦巻くが、不思議と惹き付けられてしまう。不思議な人だ。
すると……。
視線に気がついたのか、男性もまた吸い寄せられるように花のほうを見た。しばらくの間、目が合う。
(え、何……?)
何故か、彼が驚いたように目を見開いている。
疑問に思った瞬間、花の体に不可解な異変が起こった。
(……っ! 体が……!)
突然の出来事に混乱し、花はその場でしゃがみ込む。
ドクドクと激しく心臓が脈打ち、血液が勢いよく全身を巡るような感覚。
それは、今まで経験したことのない、恐ろしい変化だった。
「……熱い……」
知らず、呼吸が荒くなる。
(早く帰らなきゃ。きっと、風邪でもひいたんだわ)
ゆっくり立ち上がった花は、ふらふらとした足取りで駅を目指そうとした。
しかし、周りを見ると、先ほどまでとは明らかに様子が違う。
何故か、ビルに群がっていた人々が、花の周りに集まりだしていたのだ。
(……どうして皆、こっちに来るの?)
訳がわからない。それに、人々の纏う雰囲気がおかしい。
花を見据える目はぎらついていて、どの人も挙動不審だ。
彼らはどこか、冷静さを失っているように思える。
(怖い! 逃げなきゃ!)
本能的に身の危険を感じた花は、具合の悪い体を必死に動かしてその場を逃げ出した。
駅の改札を目指そうかと思ったが、そちらからも花を追ってくる男性がたくさんいる。
(どうしよう。とりあえず、あの路地に逃げ込むしかない)
しかし……細い道をしばらく走ったところで、追ってきた男性の一人に強く腕を掴まれ、地面に乱暴に引き倒された。
「キャアアアッ!」
すると、まるでそれが引き金になったかのように、近くにいた人々が次々に花に襲いかかってくる。全員、異性だった。
ある者は花の上にまたがり、またある者は花の服に手をかけようとする。
(この人たち、私の服を破こうとしているの? まさか……!)
彼らの目的に気づいた花はぞっとした。
人の少ない路地に逃げ込んでしまったため、助けも呼べない。
少し離れた場所に数人の女性もいたが、怯えるような目で彼らを見るだけで手を差し伸べてはくれない。彼女たちは野次馬に徹していた。
「や、やめて……! 嫌ぁっ! 助けて!」
手足をばたつかせて抵抗するも、相手は強引に花を押さえつけてくる。
力の差はもちろんのこと、人数の差も絶望的だ。
もうどうにもならないと目を閉じ諦めかけたそのとき、すぐ近くで「ぐああっ!」と、悲鳴が上がった。
続いて、花に群がっていた何人もが同じように叫び出す。
気になって目を開いてみると、周囲にいた男性の数が明らかに減っていた。そして……。
(何あれ、水が意思を持ったかのように動いてる!)
それは初めて目にする不思議な光景だった。
空を舞う水が龍のようにうねりながら、花を襲う人々をなぎ倒していく。
花の上に乗っていた男たちも吹き飛ばされた。顔に水しぶきがかかる。
野次馬の女性から歓声が上がった。
「妖術使いだわ、珍しい!」
「水の妖術を使えるのって、龍神の妖混じりの家系じゃなかった? すごい!」
「彼、見たことあるわ。龍王家だっけ? 前にテレビに出てたよね?」
なんとか立ち上がった花は、混乱しながら水流が現れた方向を見た。水はまだ消えていない。
すると、倒れた者たちの間に一人、すらりとした美しい容姿を持つ人物が立っていた。
先ほどビルのイベントで囲まれていた男性だ。彼の手から僅かに水が流れている。
(あの人の妖術だったんだわ)
おそらく、αの中でも上位。
それこそ、先祖返りと呼ばれる特別な存在かもしれない。
思いがけない相手を前にして、花はどうしていいかわからずその場で固まる。
「……た、助けてくださって、ありがとうございます」
何か言わなくてはと、震える声で礼を述べると、男性は無言でこちらへ歩いてきた。
ただそこにいるだけで、威圧感がすごい。
まさか、助けてくれたのではなく、花まで水の妖術でなぎ倒すつもりだろうか。
そう考えると怖くなって足が竦む。
男性は花のすぐ前で立ち止まると、何も言わないまま身をかがめ……片手を花の頬へ添えた。
(えっ……?)
まるで愛おしい相手を慈しむような手つきに、花は混乱して頭が真っ白になる。
彼と花とは、まごうことなき初対面で、親しい間柄ではない。
熱に浮かされたような彼の瞳と、ふと目が合った。
「あの、どうして……んっ!」
花が考えを巡らせていた一瞬のうちに、男性は――花のうなじにそっと口づける。
初めての感触に、花はびくりと体をのけぞらせた。ぞわりと肌が粟立つ感覚がする。
(この人、格好いいけど、おかしい。普通じゃない)
まともな人は初対面の相手にこんなことをしない。
逃げようと身をよじると、彼は続けざまに同じ場所に強く噛みついていてきた。
「痛っ……!」
あまりの痛みに、目の前が真っ赤に染まる。
(何が起こっているの? 怖い……!)
苦痛に顔を歪めながらも、花は何度も男性を突き放そうとする。
しかし彼の力は強く、押しても叩いてもどうにもならない。恐怖心が増していく。
「は、放してください」
だが、花の声は男性に届かず、彼は体を放すどころか、益々きつく花を抱きしめてきた。
さらに混乱する花だが、そのとき自身の体に今までにない異変を感じた。
元々、具合が悪く体が熱を持ったように熱かったが、それが耐えがたいくらいに酷くなっていく。
意識がぼんやりし、呼吸も苦しく、痛覚までおかしくなってきた。
(ありえない。首を噛まれているのに、だんだん痛みが消えていくなんて)
頭の芯がクラクラしてくる。
恐ろしくて仕方がないのに、目の前の男性から離れがたいという、相反する感情が浮かんでは霧散する。花は益々混乱した。全身が粟立ち、何も考えられなくなっていく。
やがて、ゆっくり彼の歯がうなじから引き抜かれ、花はその場にへたり込んだ。
「お前は俺の番だ」
(番……?)
この人は何を言っているのだろう。
地面に座ったまま、花はぼうっと男性を見上げる。
だが、意識が保ったのはそこまでだった。
ドクンとひときわ大きく響く心音を引き金にして、花はがくりと気を失った。