24:二度目の変化
あれから、凪は花に対して優しくなった。理由はわからない。
だが、数日おきに部屋に立派な花束が届く。
(生花なんて高くて、今まで飾ったことがなかったわ)
綺麗な花束を見ると、凪の顔が思い出され、花は少し面映ゆいような不思議な気持ちになった。
彼を信用できるのではないかという気持ちが、ゆっくりと頭をもたげ始めている。
臆病な花にとってそれは、とても勇気の要る試練だった。
(私も何か、凪さんのためにできることがあればいいのだけれど)
なんでもできるし、なんでも持っている凪に対して、花の力が及ぶ範囲は少ない。
よい案が思いつかない花は、様子を見に来た静香に悩みを打ち明けた。
すると、静香は嬉しそうに微笑みながら、「大丈夫ですよ」と答えてくれる。
「でしたら、今夜の凪様の夜食は、花様が運んでください」
凪はいつも遅くに帰ってくることが多く、そういうときは夕食をほとんど食べていないのだとか。だから、屋敷にいる静香や他の使用人が夜食を運んでいるらしい。
「私が持って行っても大丈夫でしょうか」
「もちろん。きっと凪様もお喜びになりますよ」
優しく提案された花は、静香にお礼を言い、夜食を運ぶ係を引き受けた。
最近の花は、極めて健康的な暮らしを送れていると思う。
一人での外出はできないが、庭に出て軽く体を動かしたり、体にいい食事を取ったりすることができていた。
これも全て凪や静香のおかげだった。
そうして、夜がやってきた。
頑張って起きていた花は、静香に言われたとおり、できた夜食を凪の部屋まで運ぶ。
夜食の係を花が受け持てば、静香は先に眠れるので、一石二鳥だ。
彼女は朝も早いから、花としても夜は休んでいてもらいたい。
夜食の載ったお盆を持ち、花はドキドキしながら凪の部屋の前に立った。
「あ、あの……失礼します。夜食をお持ちしました」
恐る恐る声をかけると、僅かな沈黙のあとで「入れ」という凪の声がする。
花はそっと襖を開け、中の様子を窺った。
凪の部屋には彼を看病したときに入ったきりだ。
彼の性格を表すようにきっちり整理整頓された空間にはとにかく物がない。
隅にある机に本が一冊置かれていて、凪は読書をしていたらしいということが窺えた。彼は本を片付けると、夜食を机まで運ぶよう指示を出す。
花は指示されたとおり、机の上にそっと夜食を並べた。
凪は湯上がりのようで艶めく黒髪が少し湿っている。そんな彼の姿を見た花は、色っぽいと思ってしまった。
「ここでの生活には慣れたか?」
「は、はい……皆さん優しくて。よくしていただいています」
「そうか」
「本当に、申し訳ないくらいです。私、何もできなくて……」
「気にするな。龍王家の跡継ぎを産んでくれる運命の番は、替えの効かない大事な存在だ」
凪の希望通り、花には彼の子供を産むという役目がある。
彼らが花を丁重に扱ってくれるのも、全て跡継ぎが欲しいから。
(そうよ、前に彼自身が言っていたわ。『好きで番になったわけではない』と……)
花自身が必要とされているのではないのだから、思い上がってはいけない。
自分には何もないことを、花自身が一番よくわかっている。
(しばらく、生活の心配はしなくていい。それで十分だわ……)
運命の番という存在については、正直まだわからない。
凪は確信を持っているみたいだが、花には彼ほど番という感覚を得られていないのが正直なところだ。
静香の話では、「歴代の奥様方も、最初はそうだったらしいですよ」という話を聞いている。
どうやら、Ωはαよりも番に対する感覚に目覚めるのが遅い傾向にあるようだった。
「とはいえ、お前を急かすつもりはない。以前話したとおり猶予はある」
「はい……」
返事はしたが、心の準備はいつになればできるのか見当もつかない。
今はそんなことを考えられないのだけは、確かだった。
(最近は凪さんと普通に会話もできるようになってきたから、そのうち大丈夫になるのかしら? でも、それとこれとは話が違う気もするわ)
仲良く話せるからと言って、体の関係を持てるかと言われれば、それは別問題であるように思える。
凪が夜食を食べている間も、花は悶々と悩み続けた。
「前より顔色もよくなったな」
「そうでしょうか」
「ああ、以前はもっと青白かった」
「だとすれば、ここでの生活のおかげです。ありがとうございます」
礼を述べると、凪は彼には珍しく戸惑った表情を浮かべる。
「私は目的のため、強引にお前をここへ連れてきた。礼を言われる筋合いはない」
「ですが、そのおかげで、私はこうして健康に暮らせています。お医者様にも以前は栄養失調だったと診断されましたし。凪さんには感謝しているんです」
それは本心だったので、花は微笑んで凪にお礼を告げた。
「お前は……」
何かを言いかけた凪だが、迷った様子で言葉を切る。
「誰にでもそんな顔を見せるものじゃない」
「へっ?」
「勘違いされるぞ」
彼はよくわからない言葉を口走る。
「わたし、何か失礼なことを言ってしまったのでしょうか」
「違う。そんな風に笑うのはここだけに……。何を話しているんだ私は」
様子のおかしな凪は、自分でも何を答えているのか理解できていない様子。
心許ないような、途方に暮れたような、不思議な表情を浮かべていた。
今の花は、凪の子供を産む心の準備ができていない。
確実にαの子を宿せるΩだと言われても、だからといって簡単に凪と子作りなんてできない。
花の心はまだ、Ωである自分を否定し続けている。
(番という感覚も、私にはわからない。凪さんには理解できているの?)
時間が経てば、花も番の感覚を得られるのだろうか。
だが、いずれ解消される関係ならば、理解できないままの方がいいのかもしれない。
花は凪をそっと観察した。相変わらず、作り物のように整った顔立ちだ。
凪は何もかも持っている完璧な人。
でも、誰にも弱みを見せられない孤独な人でもある。
強引で冷たいかと思ったら、花を気遣ってくれたりと行動も読めない。
(本当のあなたは、どちらなの? 優しい人だって信じたい)
一人の人間として、花は彼のことを嫌いになれないのだ。
そう自覚した瞬間……。
――ドクン
花の心臓が大きく脈打ち、体中に衝撃が走る。
(これは、あのときと同じ)
花は今の感覚に覚えがあった。
駅前で凪を見た際に起きたのと同じ現象――つまり、発情だ。
(どうして? 次のヒートはまだなのに。早すぎる)
Ωのヒートは周期が決まっていて、花の場合は次の発情が訪れるのはまだまだ先のはずだった。
だが、以前医師に聞いた話では、希にヒート不順の症状を持つΩがいると言う。
通常、周期ごとに訪れるヒートが、早く来たり、来なかったりする症状のことだ。
まだ発情が現れて間もないΩに多く、番ができれば徐々に症状は治まっていくそうだが、まさか自分がヒート不順になるなんて思わなかった。
予想外の発情の到来なので、当然花は抑制剤を飲んでいない。
「うぁ、熱い」
苦しさで蹲ると、凪が驚いて花に手を差しだそうとした。
……が、花のフェロモンに当たってしまったせいで、「うっ……」と苦しげに顔を歪める。
「早く、薬を」
「は、はい」
フェロモンに当てられたせいか、凪は動けそうにない様子だ。
必死に理性をとどめようとしているのが見て取れた。
(凪さんのためにも、すぐ部屋を出なきゃ)
確か、薬は部屋にあったはずだ。取りに行こうと、ふらつく足で花は退室しようとする。
(抑制剤を飲まなきゃ、屋敷の中が大変な事態になってしまうわ)
だが、体中が熱く、歩くことさえ困難だ。前回よりも花のヒートは重くなっていた。
なんとか襖までたどり着いた花は、開けようと手をかける。
(もう歩けない。誰か女性を呼んで、薬を取ってきてもら……)
花の思考はそこで途切れた。
何故なら、部屋の中から、ものすごい力で体を引き寄せられたからだ。
そんなことをする相手は一人しかいない。
「な……ぎ……さん?」
振り返ると、瞳孔が縦に広がった凪が、感情を宿さない目で花を見下ろしていた。




