21:契約と幼なじみ
花に看病された翌朝、凪はいつになく穏やかな気持ちで仕事に臨んでいた。
今まで感じたことのないような、温かで快い感覚は手放しがたい。
(昨晩、花は私の弱い部分を無条件に受け入れた。それが当然だとでも言うように)
今まで心の奥に隠していた柔らかい自分が、確かに癒やされた感覚がした。
職場でも、始終頭に思い浮かぶのは花の姿ばかり。
「凪様、何かありましたか? 先ほどから、何か悩まれているご様子ですが」
「なんでもない」
こうして部下にも心配される始末だ。
番に心を乱されるが、不本意なことにそれが不快ではない。
(私はどうすればいいのだ)
今になって花が、かけがえのない相手に思えてくるなんて、これは番契約のせいなのだろうか。
だが、それだけではない気もする。
凪は花を大事に扱おうと思い始めていた。
気分を入れ替えるため、凪は部下が持ってきたブラックコーヒーに口をつける。
「凪君、おっはよー。変な顔をしてるけど、何かあった?」
ずかずかと凪の仕事部屋に入り込んできたのは、遠慮という言葉を知らない幼なじみで、今は取り引き相手の絢斗だった。
自由奔放な彼は、こうして勝手に凪のところにやってくることが多い。周囲も飄々とした彼を受け入れてしまっている節がある。
絢斗は凪と同じで先祖返りのαだ。
彼も龍王家と同じく力を持つ家、樟葉家の次期当主である。
気安い間柄だが、絢斗の距離の近さには少々呆れてしまう。
「結婚おめでとう!」
「…………ぶっ」
いきなり掛けられた言葉に、コーヒーを吹き出しそうになる。
「……まだ表では、籍を入れたことは公開していないはずだが?」
「樟葉の情報網を甘く見ないでね。それに龍王家が運命の番を手に入れたと聞いたから、さっさと籍は入れたいだろうなーって」
ふざけた態度に反して絢斗は抜け目のない優秀な男だ。凪も彼を認めている。
「何をしに来た」
「凪君の番に会いたいな」
「帰れ」
しかし、絢斗はまだ部屋を出て行かず、凪の周りをうろうろしている。
「その様子だと、気に入っているんだね。運命の番だからかな」
「は……? どこをどう見たら、そうに見える」
「だってさ、今日の凪君、いつもより雰囲気が柔らかいよ。きっと、新婚生活を楽しんでいるんだなあと思えたんだけど」
「そんなことはない。妄想も大概にしろ」
これ以上は無視して仕事を開始しようとすると、絢斗が微笑みながら凪の正面に立った。
「じゃあ、その番、貸してくれる?」
「……冗談だろ」
「うちも龍王家と同じで、αが生まれにくい問題を抱えているのは知っているでしょう? だから、Ωを俺に貸してくれないかなあって。αの生まれない家でΩを貸し合うことは普通だし、番になって数年以内なら番以外との子供を作っても大丈夫なはずだ」
絢斗が言う理屈は正しい。
αと番になったΩは、徐々にフェロモンで番以外を惑わさなくなり、発情時のリスクも減る。それと共に、番以外との子作りができなくなる。
番のいる相手に無理にそういった行為を強要すれば、Ωは弱り最悪命を落としてしまうのだ。
だが、その変化はゆっくりであり、番になっても数年以内なら他のαとも関係を持つことができる。
「Ωにもいろんな子がいるから注意が必要だけど、凪君の番なら大丈夫かなって。もちろん、凪君の子供ができてからでいいよ」
「……っ」
いつもなら軽く流せた話題のはずなのに、凪の心はざわざわと暗く波立った。
仲の良い家同士でΩを貸し合うのは、たまに見かける事例だ。
跡継ぎのいない家が、藁にも縋る思いで金銭と引き換えにΩを求める場合もある。
先に番になっておけば、その後、他の者に取られる心配もない。
商売に有利に働くからと率先してΩを貸し出す家もあるくらいだ。
凪としても、樟葉家に貸しを作るのは悪い話ではない。
だが……どうしても、絢斗の提案に頷くことができなかった。
「悪いが、番を貸し出すつもりはない」
キョトンとした顔になった絢斗は、不思議そうに凪を観察し始める。
「ふぅん?」
「……なんだ? 言いたいことがあるなら言え」
「いやあ、凪君も番を気に掛けるんだなあと思って。番を貸し渋るαも多いから変ではないけど。うーん、残念」
絢斗はあっさり諦めると、また最初の話題を引っ張り出した。
「凪君がそれだけ執着する子は気になるなあ。君の運命の番に会ってみたいよ」
「断る。それから私は、番に執着してなどいない」
「そうは見えないけど。相手が凪だと番の子も大変だね」
「どういう意味だ」
「だって凪君は朴念仁だから、女心に疎そうだし」
とんでもない言いがかりだ。
なんだかんだで、絢斗は番を貸し渋った件を根に持っているのかもしれない。
「とにかく、あいつは私のものだ。どのように扱おうとも私の勝手だろう。子が生まれるまでの契約結婚だから気遣う必要などない上に、女心とやらも知らん」
「そんなこと言っていたら番に振られるよ?」
そう告げられた凪は花との関係が、振られる振られない以前の問題だと気づく。
もちろん、それで構わないと思っていたが、絢斗に指摘されて初めて花の考えが気になり始めた。
花との夫婦関係は契約に基づくものだ。
跡取りさえ生まれれば、結婚の契約自体を解消しても構わないと感じていた。
しかし、自分との契約を解消したあとで、花が他の男と再婚する光景を考えると胸がむかむかする。
身勝手な話だが、これが運命の番というものなのだろうか。
あの夜、懸命に自分を介抱してくれた花の姿が思い浮かび、凪は複雑な気持ちを抱いた。
「じゃあ、凪君が契約を解消したら、その子は俺がもらっていい?」
「駄目に決まっているだろう」
「え、でも……子供が生まれたら、別れるんだよね?」
「契約の解消はしない!」
頭で考えるよりも先に口が動いていた。こんなことは初めてだ。
自分は誰よりも理性的だし、そうあるべきだと思って生きてきたのに。
絢斗はクスクスと笑って凪を見ながら、「君の気持ちはわかったよ」と生ぬるい微笑みを浮かべた。




