11:契約と連行
「あ、あの、困ります。勝手に退職届、なんて……」
ビルの外に停めてあった高級車に連れ込まれた花は、なけなしの勇気を振り絞って凪に抗議した。
「そちらこそ、勝手に脱走されては困る」
「脱っ……!?」
「言ったはずだ。お前は私の『運命の番』だと」
冷淡な美貌を向けた凪は、部下が用意した抑制剤を花に渡しながら告げた。
薬をもらった花はお礼を伝えてそれを飲みつつ、凪に非難の視線を送る。
「か、勝手に決めないでください。私には……、仕事もあります」
「あんな仕事になんの意味が?」
「……っ!?」
だが、必死な花の訴えは凪により無残に遮られる。あんまりな言い様だ。
「お前でなくとも替えの効く仕事だ。しかも、職場環境や従業員のレベルは最低ときた。あのような仕事にしがみつく必要はあるのか」
一方的な物差しによる、凪の言い分を聞いた花は愕然とした。
(きっと、何を言っても通じない)
たしかに、環境や人間関係は最悪な職場だが、花にはそれでも働かなければならない理由がある。
凪のように恵まれた生まれの人にとっては一生理解できない感覚だろう。
「仕事をしないと生活費がもらえません。それに、Ωが働ける場所なんて……ああいったところしかないんです」
いい加減な採用がまかり通る職場だからこそ、花はあの場所で働くと決めたのだ。
「零落町一丁目、築五十年のボロアパートに一人暮らし。家賃三万円」
淡々と告げられる凪の言葉を聞き、花はぎょっとする。
「どうして、それを?」
「お前については調べさせてもらった。あのように治安の悪い場所でΩが一人暮らしなど無謀だ」
治安の悪さは花も理解しているが、他は家賃が高すぎて、あそこにしか住めなかったのだ。
「まあいい。お前は私の番になったのだから、ボロアパートから引っ越してもらう。だから、仕事を続ける必要もない」
「つ、番なんて知りません……! こんなの、あんまりです」
常にギリギリの生活だが、自分の力で慎ましく生きていこうと努力してきた。
それを頭から否定され、勝手に仕事を辞めさせられ、住居まで奪われるなんて。
「こちらだって、好きでお前と番になったわけじゃない。お前は私の『運命の番』らしいから、必要に迫られてこうしているだけだ」
運命の番に関しては、以前少し説明を聞いたので覚えている。普通の番よりも多少相性がいいとされるもののようだ。
だが、凪からは愛だの恋だのと言う甘い感情は一切伝わってこない。
(冗談だと思っていたのに、まさか職場まで来るなんて。私なんかを番にして、彼になんの得があると言うの)
とはいえ、相手は国内でも屈指の有力者で、花などがどうこうできる存在ではない。
得体の知れない不安が背筋を駆け上がっていく。唯々、怖い。
「前にも話したように、今後お前には私の番として世継ぎを産んでもらう。必要以上に肉体関係を持つつもりはない」
「へっ……!?」
あまりに事務的な言いように、花は理解が追いつかず、信じられない気持ちで凪を見た。
「それから、私はΩのフェロモンの影響を受けることを好まない。お前は毎月抑制剤を欠かすな。代わりに、生活を保障してやる」
こちらの話を一切聞く気がない凪は、まるでそれが当たり前だとでも言うように全てを勝手に決めてかかる。
「これは契約結婚だ」
「契、約?」
「悪い話ではないだろう。いずれにせよ、お前はこの話を断れない」
彼の言うとおりだ。大きな企業グループの御曹司を前に、花はあまりにも無力だった。
(でも……こんな怖い人、信用できない。世継ぎを産むなんて私には無理だわ)
ぶるぶる震えるだけの番に呆れたのか、花をじっと見つめた凪は勝手に話を進める。
一瞬、彼の瞳孔が僅かに縦に細まったように思えた。
「しばらく猶予をやる。番が手に入ったのだから、結婚さえすれば、世継ぎだなんだとうるさい周りを黙らせられる。その間に覚悟を決めておけ」
「そんな……」
しかし、龍王グループが関与している以上、花の職場復帰は難しい。再び逃げ出しても、また連れ戻されてしまうだろう。
絶望的な状況を前に、花はただ黙って凪に従うことしかできなかった。