9:同僚と質問攻め
花はこの日もいつも通り、朝から清掃の職場に出勤していた。
(昨日はびっくりしたわ、龍王グループの御曹司に会ってしまうなんて)
いきなりうなじを噛んできた上に、強引で怖い人だった。
今は長い髪で隠れているが、うなじにはまだ傷が残っている。
上に立つ者として生きてきた彼の言動は、虐げられて育った花のそれとはかけ離れていた。
(……逃げ出せて良かった)
向こうも、勝手に飛び出してきた一般人をわざわざ追ってくることはないだろう。
運命の番については、おそらく凪の冗談に違いない。
Ωが欲しいなら花でなくともいいはずだ。
(そうよ。彼の立場なら、私の他にもっと相応しい人がたくさんいるはずだわ)
花は「少し変わった出来事」として昨日の事件を片付けた。
きらびやかな世界に住むαと、普通以下の生活を送る花が、夫婦まがいの関係になるなんて考えられない。
(あの人は、私なんかに釣り合わない相手よ)
自分はここで掃除をしているくらいがちょうどいいのだ。
黙々と作業を続けていると、昼休憩の時間になった。
(昨日は薬局が閉まっていて買えなかったけど、早く抑制剤を手に入れなきゃ)
抑制剤は昨日飲んだきりだ。今のところ症状は抑えられているが、いつまた再発するとも知れない。
(他の人を巻き込んで、迷惑をかけるわけにはいかないわ)
意図せずΩのフェロモンに当てられ、我を忘れて破廉恥な行動に及んでしまうなんて。
強制的に発情させられた当人たちからすれば、たまったものではないだろう。
しかし、職場の裏口から出ようとした花に聞き慣れた同僚の声がかかる。
「ちょっと、どこ行くのよ」
振り向くと、いつも花に因縁を付けてくるパート従業員たちが立っていた。
本来なら、昼休みにどこへ向かおうと個人の勝手で、いちいち詮索される筋合いはない。
だが、この職場では他人の言動を逐一知りたがる人が大勢いるのだ。そう、彼女たちのように。
「薬を買いに。すぐ戻ります」
淡々と告げてきびすを返そうとした花だが、メンバーのうちの一人が強引に花の肩に手を置き引き戻す。
「そんなの、仕事帰りでいいんじゃないの? どこも悪いようには見えないけど」
いつなんの薬を買おうが彼女たちに関係ないはずだが、他人の行動に口を挟まずにいられないのも、ここで働く人の特徴である。
(困ったわ。今行かないと、抑制剤の効果が切れてしまうかもしれないのに)
そうすると、再び花は発情状態に陥り、フェロモンをまき散らし、職場に大混乱を引き起こすことになる。そうして、Ωであるのが周囲にばれてしまうだろう。
働き口を失い、家賃も生活費も払えず、路頭に迷うわけにはいかない。
「すみません、急ぎなんです」
「何なにぃ? なんの薬ぃ~? 教えてよ」
「それは……」
「えっ!? 人に言えないような薬なの? もしかして、中絶薬とか!? 地味なくせに、やることやってんだねえ!」
一人がそう言うと、周囲にどっと笑いが起きた。悪趣味で下品な人たちだ。
「違っ……」
どうしてこの人たちは花を放っておいてくれないのだろう。
大して仲が良くもないのに、いちいち詮索しようとしてくるのだろう。
煩わしいが、それを訴えることはできない。
ただでさえ悪い関係を、これ以上こじらせたくはなかった。