エピローグ
「……ね、ねぇ……。なんか距離、詰まって来てない……?」
「いやいやそんなはずが……っておいおい、マジか!?」
「ありゃ? 大将、マジで走んの? なんで?」
勝利を確信していた網走は、チラリとこちらに視線を向け、驚愕に目を見開く。
(は、速い!? なんというケイデンス、ストライドも大きい……ッ。葛原のやつ、陸上経験があったのか!?)
俺と網走の距離は一歩ごとに詰まっていき――ゴールテープ目前で、奴の背中を捉えた。
「うぉおおおおお゛お゛お゛お゛……!」
網走が雄叫びをあげ、
「葛原くん……勝って……!」
「頑張れー……!」
白雪と桜の応援が響く。
刹那を競う、デッドヒートの結果――。
「――悪ぃ、負けた」
俺は負けた。
両者の差は、僅か数センチ。
だが、負けは負けだ。
「……素晴らしい、走りでした……っ」
「ぅ、う゛ぇええええん……葛原くんがいなくなるなんて嫌ですぅー……っ。私、この生徒会が大好きだって、言ったじゃないですかぁ……ッ」
俺を生徒会に引き込んだ白雪はともかくとして、桜がここまで号泣するとは……ちょっと意外だ。
なんて声を掛けたらいいのか困っていると、網走がこちらに視線を向けてきた。
「……正直、最後のスプリントには驚かされたぞ。これが200メートル走で、最初からあの速度で来られていたら……勝敗はどうなっていたかわからないだろう。しかし、世の中は結果が全てだ。葛原葛男――負け犬は生徒会を去れ」
奴はそれだけを言うと、クルリと踵を返した。
(『世の中は結果が全て』、か……)
まぁ、それについては同意する。
今日の試合、俺は負けて、網走は勝った。
ただ、それだけのことだ。
「――えー、ゴホン。それではこれより、弾劾裁判の結果を発表する!」
日取先生の声が、グラウンドに響き渡る。
「第一種目ハンドボール投げの勝者、網走。第二種目じゃんけんの勝者、葛原。第三種目400メートル走の勝者、網走。よって此度の弾劾裁判の勝者は――網走颯!」
次の瞬間、歓喜の渦が巻き起こった。
「ぃよっしゃー! 網走、ついにやったな!」
「これであなたが副会長ね!」
網走を応援していた100人以上の生徒が、勝利の美酒を味わう。
「――さて、最後に署名の照合作業を始める。名前を呼ばれた者は、生徒手帳を持って、朝礼台まで来るように!」
先生の指示に従って、大勢の生徒が移動を始めた。
「葛原くん、桜さん……生徒会室へ戻りましょうか……」
「うぅ、ひぐ……っ」
白雪がトボトボと進み、桜は大粒の涙を流しながら付いていく。
「あの、さ……ちょっといいか?」
「……はい、なんでしょう」
「う゛ぅ、どうかしましたか……」
「確かに俺は『試合』に負けた。でもよ、『勝負』にまで負けたとは言ってねぇぞ?」
「「…………えっ?」」
白雪と桜が顔を上げると同時――事件は起きた。
「――えぇっ、俺の名前があるんすか!?」
夜霧がわざとらしい声をあげ、
「私……? いえいえ、署名なんてしていませんよ?」
コンピューター研究部部長の柚木先輩が小首を傾げ、
「うっそ。あたしの名前もあるんだけど……」
「えーっ。私、署名なんかした覚えないですよ?」
「この字、私の筆跡じゃないっす!」
次々にそんな声があがっていった。
その結果――有効な署名は93人、弾劾裁判の成立要件である100人を割り込んだ。
「ば、馬鹿な……っ。いったい、何が起こっているんだ……!?」
網走は顔面蒼白となり、見るからに狼狽していた。
無理もない話だ。
こんな土壇場で梯子を外されりゃ、誰だってパニックにもなるだろう。
「……網走、いったいどういうことだ? まさかとは思うが……署名を水増ししたんじゃないだろうな?」
日取先生の鋭い視線を受け、網走はブンブンと首を横へ振った。
「ち、違います!」
「ならばこの現状、どう説明するつもりだ?」
「それ、は……っ」
碌な反論もないまま、騒ぎだけが悪戯に大きくなっていく。
見かねた先生はため息をつき、パシンと手を打ち鳴らした。
「此度の裁判は、前提となる成立要件を失った。よって、弾劾規定に基づき、網走颯は失格処分とする!」
「そ、そんな……っ」
網走の顔が絶望に染まり、膝からガクンと崩れ落ちる。
「お、おいおいなんだよ、これ!?」
「試合には勝ったのに……失格処分……?」
「こ、こんなのありかよ……!? 絶対なんか、おかしいって!」
勝利の美酒が零れ落ち、なんとも言えない空気が流れる中――役目を終えた悪友が、ヘラヘラとこちらへやってくる。
「よー、大将。これだけの頭数を集めんの、けっこう大変だったぜ? ……例の『お宝本』、期待していいんだろうな?」
「あぁ、店長にはもう話を通してある。後で、俺のバイト先に来てくれ」
「うっしゃー! へへっ、今日は刺激的な夜になるぜ……ッ」
夜霧は邪悪に微笑み、
「――クズくん、クズくん! ちゃんと言われた通りに動きましたよ! コンピ研の部員も総動員しました! これで今度、一緒にコラボしてくれるんですよね!?」
「「「私たちにアペのコーチング、していただけるんですよね!?」」」
「えぇ、約束ですからね」
「ぃやっふー!」
「「「ぃやったーっ!」」」
柚木先輩を筆頭としたコンピ研一同は、無邪気にはしゃぎ回る。
「……網走くんが失格ということは……葛原くんの勝ち?」
桜が呆然と呟き、白雪がコクリと頷く。
「はい、本当に『らしい』勝ち方ですね……。(やっぱり葛原くんは、モノが違う。みんながどうやって勝つかを必死に考えている中――彼は一人どうやって台無しにするかを考えていた。一人だけ、まったく違う視点から、まったく異なる場所で戦っていた。勝負が始まったあの瞬間、あの時点で既に、葛原くんは勝っていた……っ)」
一方、
「これ、は……『買収』か……ッ」
舞台裏を理解した網走は、憤怒の形相を浮かべ、俺の胸倉を荒々しく掴み上げた。
「葛原、貴様という男は……!」
「おいおい、落ち着けよ。『世の中は結果が全て』、じゃなかったのか? 今回の『勝負』、俺は勝って、網走は負けた。ただ、それだけのことだろう?」
「ぐっ、屁理屈を……っ」
副会長に就任した直後、網走が水面下で署名集めを始めたことは知っていた。
だから俺は、水面下のさらに下で動いたのだ。
まずは夜霧やコンピ研といった、こちらの息が掛かった生徒を敵陣営に送り込み、筆跡を変えて署名してもらう。
仕込みが終わった後は、何も知らないフリをしつつ、敢えて弾劾裁判を仕掛けさせた。
本番当日、一戦・二戦・三戦と適当に消化し、最後の最後で『署名不足』を理由に全てを台無しにする。
弾劾規定によれば、『生徒会の任期中、同一の役職に弾劾裁判の申し立てを行えるのは一度のみ』。
今回、副会長に弾劾裁判の申し立てが行われ、選挙管理委員会がそれを受理し、網走颯の失格処分で終わった。
つまり――『副会長』はこの一年、弾劾裁判の対象にならない。
俺は可能な限り目立つことを避けつつ、自分の地位を盤石のものにした。
所謂『試合に負けて、勝負に勝った』というやつだ。
「こんな不正がまかり通るか! 断固として抗議する!」
「おいおい、先にやったのはどっちだ?」
「な、何が言いたい……?」
「これ、なーんだ?」
俺は懐からボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンをポチッと押す。
【――副会長の座から、葛原葛男を引き摺り下ろしたい。弾劾裁判の署名に協力してくれないか?】
【はぁ? なんで私がそんなめんどいことを……】
【協力してくれれば、バレー部の来年度予算を優遇してやろう。体育館の使用権も優先的に割り振ってやる。……どうだ、悪い話じゃないだろう?】
真っ黒な裏取引が、次々に再生されていく。
白凰の生徒は自己主張が非常に強く、全くと言っていいほどに協調性がない。
こういう不正行為がなければ、100人以上の署名を集めることは不可能だ。
「~~ッ」
網走はボイスレコーダーを強引に奪い取り、地面に叩付けたうえ、念入りに踏み潰した。
「残念、そりゃコピーだ。マスターデータは別にある」
「ぐ……っ」
……いやでもさぁ、壊すのはちょっと酷くない?
そのボイスレコーダー、三千円もしたんだけど……。
俺のバイト、三時間分なんだけど……。
「お、覚えておけよ……!」
網走が悔しそうに去った後、日取先生がこちらへやってきた。
「――葛原。キミ、またやっただろう?」
「先生、人聞きが悪いっすよ。いったいなんのことを言っているんですか?」
「まったく……普通にやっても勝てるだろうに……。自分が目立たないようにするためか? 本当に捻くれ曲がっているな」
「俺のこと、買い被り過ぎっす。普通にやっても勝てないから、こうして曲がり手を使っているんですよ」
とにもかくにも、こうして面倒な裁判は無事に終了。
俺・白雪・桜の三人は、生徒会室に戻った。
「あ゛ー……疲れた……」
来客用のソファに深く腰掛け、ホッと一息つくと同時――。
「葛原くん……今回はさすがにちょっと酷いです。最初から勝つのがわかっていたのなら、教えてくれればいいものを……っ。私がいったいどんな気持ちで、土日の夜を過ごしていたか……ッ」
「わ、私なんか、みんなの前で号泣しちゃったんですよ!?」
白雪と桜がジト目でこちら見つめてきた。
「あー、いや……ほ、ほらアレだ。敵を騙すには、まず味方からって言うだろ……?」
「葛原くん!」
「今日という今日は、さすがに許しません!」
そんなこんなで、この慌ただしい生徒会は、もう少し続くことになったのだった。