第十一話:葛原葛男の災難
生徒会メンバーで買い出しに行った次の日、俺は学校を休むハメになった。
それというのも……。
「ふぁ、は……へっくしょん……ッ」
風邪を引いてしまったのである。
(あぁ……糞、最悪だ……)
思えば昨日は、本当に散々な一日だった。
スペシャル厄介ヤンキーたちを追い払ったところまでは、まぁ特になんともなかったのだが……その後がとにかく酷い。
昨夕、自宅のボロアパートに帰った俺は、手早く荷物をまとめて夜のバイトへ向かう。
その道中、往来の活発な泰福通りを歩いていると、前方から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「――どけぇ! どけどけ! どきやがれ!」
そちらに目を向ければ――眼の濁った若い男が、乱暴に人混みを掻き分けながら、猛然とこちらへ走ってくる。
そしてその手には、ド派手なショッキングピンクの鞄が握られていた。
(これ、もしかして……)
俺が眉を寄せると同時、甲高い叫び声が響き渡る。
「ひったくりじゃ! 誰か、あの男を捕まえておくれ!」
被害にあったと思しきお婆さんと息を荒くして走る警察官が、逃げる男を追い掛けているのだ。
(やっぱり、そうだよなぁ……)
数秒後、ひったくり犯とすれ違う瞬間、俺は右足をスッと伸ばす。
その結果、
「なっ!?」
犯人の男は盛大にスッ転び、衝撃と痛みで盗んだバッグを手放した。
「ぁ、が……っ。く、くそ……ッ」
奴は盗品を捨て置き、そのままどこかへ走り去っていく。
(ヤンキーたちに続いて、今度はひったくりか……。最近ほんと物騒だな)
派手なバッグを拾いあげると、三拍ほど遅れて、お婆さんと警察官がやってきた。
「あー……これ、さっきのひったくり犯が落としていきましたよ」
俺はそう言って、警察官にバッグを手渡す。
足を引っ掛けたことは、敢えて報告しない。
うっかり事情聴取でもされようものなら、バイトに遅れてしまう。
「それじゃ失礼します」
そそくさとバイト先へ向かおうとしたそのとき、お婆さんが憤怒の形相で立ち塞がる。
「どこへ行くつもりじゃ、このひったくりめ……!」
「……は?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「あたしからバッグを盗もうなんて、百年早いんだよ!」
「いや、俺じゃありませんよ。犯人の男なら、あっちへ逃げていきました」
「嘘をつけ! その荒んだ目ん玉は間違いない! あんたがひったくりじゃ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。確かにひったくり犯の眼も、どんより濁っていましたが……俺のはもっとこう、酷いでしょう!?」
……あれ、なんでだろう。
自分で言っていて、泣きそうになってきた。
「んー……。キミ、申し訳ないんだけど、ちょっと署まで御同行を願えるかな?」
「…………はぁ、わかりました」
俺はこの腐った眼のせいで、軽く100回以上は職務質問を受けてきた。
その悲しい経験から言って――公権力には逆らわない方がいい。
やましいことがないのならば、下手に抵抗せず、流れに身を任せるのがベストだ。
その後、俺は近くの交番へ行き、簡単な事情聴取を受ける。
ただまぁ幸いにも、今回の件は割とすぐに片が付いた。
現場となった泰福通りは、人の往来が活発なため、目撃者が多数いたこと。
そして何より、街頭カメラが事件の一部始終を捉えており、俺の無実が完璧に証明されたのだ。
警察はひったくり犯からバッグを取り返したことを感謝し、疑ってしまったことを謝罪する一方、問題のお婆さんは既に帰ったとかなんとか……。
いやもう、マジで踏んだり蹴ったりだな。
唯一の救いと言えば、バイト先の店長に連絡を入れたとき、「いろいろ災難だったな。人員の埋め合わせはこっちでしとくから、今日はもう帰ってゆっくりと休むといい」と言ってくれたことか。
(はぁ……なんかめちゃくちゃ疲れたぞ)
猛烈な徒労感に苛まれながら帰路に就けば、凄まじいゲリラ豪雨が降り、靴の中までびちょびちょ。
ひんやり夜風に吹かれながら、駆け足で帰った結果が現在のこれ――38.2℃。
ちょうどいい具合に気怠い体温だ。
(あ゛ー……しんど……)
自室のベッドに座りながら、ボーッと虚空を眺めていると――部屋の扉が僅かに開き、結がひょっこりと顔を出した。
「お兄ぃ、本当に大丈夫? ……やっぱり私、学校休もうか?」
「俺のことは気にすんな。それよりもほれ、風邪が移ったら大変だから、お前はさっさと学校に行け。今日は楽しみにしてた、他校との練習試合があるんだろ?」
「……もし何かあったら電話してね? 私すぐに飛んで帰るから、絶対に変な遠慮とかしちゃ駄目だよ?」
「あぁ、ありがとな」
「それじゃ、行ってくる」
「気を付けろよ」
「うん」
それから少しして、玄関の扉がガチャンと閉まり、鍵のかかる音が響いた。
(さて、と……)
結が家を出た後、俺は重たい体を引き摺って洗面所へ移動。
顔を洗って歯を磨き、ついでに鏡で喉の腫れ具合を確認する。
(あー……こりゃ真っ赤っかだな)
素人目に見てわかるほど、扁桃腺が赤く腫れあがっていた。
今回の風邪は、喉からのようだ。
それから俺は、枕元にタオルとティッシュと水を並べ、再びもそもそと布団へ戻る。
格安スマホを起動し、適当にニュースサイトをチェック。
(……この忘れる感覚、久しぶりだな……)
頭がぼんやりとしており、情報がスルスルと滑り落ちていく。
高熱を出しているときは、直感像記憶が機能しないのだ。
(とりあえず、夕方頃まで寝るか……)
部屋の照明をパチンと落とし、深い微睡みに沈んでいくのだった。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
「……ん、ぁ……っ」
俺はゆっくりと眼を覚ました。
頭には鈍痛が走り、視界はぼんやりと霞み、気持ちの悪い浮遊感が全身を包み込む。
(……あー、キッツ……)
なんとなくわかる。
今がこの風邪のピーク――一番しんどい時だ。
(腹、減ったな……)
チラリと時計を見れば、時刻は十八時を回っていた。
そう言えば、朝から何も食べてない。
(……冷蔵庫、なんか入ってたっけか)
ぼんやりそんなことを考えていると、居間の方からコトコトと何かを煮るような音が聞こえてきた。
(結……帰ってたのか)
あれ、でもあいつ……料理なんてできたっけ?
するとその直後、コンコンコンというノックの音が響き、ゆっくりとドアが開かれた。
そこから入って来たのは、
「――葛原くん、起きてたんですね。お体の具合はどうですか?」
「しら、ゆき……?」
エプロン姿の白雪冬花だった。