ライニディーネー
屋上に出ると、マンションが立ち並ぶ住宅街が見渡せた。朝日が昇り始め町全体が輝く。
芙美はその光景にうっとりとして目を細めた。
「キレーだね!」
「そーだね!」
瞬は相槌をうちながらメガトポリスの位置を確認して最短距離の道筋を考える。地面は使えないので屋根伝いに行く算段をたてた。でも、ギリギリまで近づいたとしても途中に泳ぐことになる。
水に濡れるの嫌だな。と渋い表情になっていると、また激しい揺れが起こった。
メガトポリスを囲うようにして、地下から水が吹き出してきた。天高く伸びた水柱、高さはメガトポリスのおよそ二倍だ。まるで巨大な噴水のようだと、二人は息を飲みながら絶句した。
朝日を浴びた水は薄い紫色に染まり、地面に落ち瞬間、凄まじいスピードで大地に広がっていく。水が生き物のように這って全てを飲み込んだ。高い建物も波を起こして乗り越え、落下し高い水しぶきを上げていく。
「ひゃ!?」
あっという間に、瞬と芙美のいるマンションの屋上に水がやってきた。
冷たくて悲鳴を上げながら、芙美は片足を上げる。水深が足首あたりだが、水の流れが速い。一瞬足が持っていかれそうになったが、踏ん張って耐えることができた。
「大丈夫?」
「びびび、吃驚した」
バランスを崩した芙美を心配して瞬が近づく。 芙美は瞬の腰に手を回してしみがつきながら、へっぴり腰を上げた。
瞬は芙美の背中に手を回しながら周囲を見渡し
「わあ。これはすごい」
と、感嘆の声を出した。
街中に溢れていたカンゴウムシが水に触れた瞬間に溶けた。分解して消失。それが一気に発生する。水が流れている場所にカンゴウムシは一匹もいない。空を飛んでいたカンゴウムシでさえ、手のように伸びた津波に囚われて姿を消す。ものの数分で、虫で溢れた町から水に沈んだ町になってしまった。
「これがライニディーネー。記述そのままだった」
水が過ぎ去った場所を確認する。水位は六メートルから七メートルぐらい。天井まで完全に沈んでいる建物もある。この水深を維持しながら島全体を覆うとなると、泉都市機能は完全にマヒする。
リクビトは水中呼吸できない。水中での生活は至難の業だ。
(多分だけど、孤島全体の水量が集まってるんじゃないかな? この水位で長期間止められたら、そりゃ、色々大変だ)
苦笑いを浮かべつつ、屋上の端に近づいた。
心の中で、いい塩梅でお願いします。と願いながら、瞬は屋上の端に近づいて下を眺めた。水は透明度が高くて地面がよく見える。
観察してると瞬はあることに気づいた。ゴミなどは流れているが、車や看板やごみ箱など外にあるものが流れていない。周囲の建物の窓ガラスも無事だ。ドアもほとんど閉まっている。
水がぶつかったのにそのダメージがない。
瞬はパチパチと瞬きをする。
(水の勢いは激しいのに、当たった所の家や電柱なんかは無傷だわ。窓ガラス一つ、割れていない)
まさか幻覚? と自分の頬を触ってみるが、そもそも足が濡れているのだ。
間違いなく本物の水である。
(女神様が加減してるから壊れないのかな?)
不思議な現象だと、川となった道路をしばらく覗いていたが。
「瞬、どうやって移動しようかな? いい案ある?」
芙美に声を掛けられ瞬は意識を戻した。
いつまでも魅入っている暇はない。ガリウォントのことをうっかり忘れていた。ミズナビトは泳ぎの得意なヒトである。水の流れに乗ってここへやってくるかもしれない。
芙美は左側の方角を示す。その途中にある屋根をいくつか示した。
そこは瞬も考えていたルートだ。
「私が思うに、屋根伝いで途中まで行けそうな気がする。けど、どうしても泳ぐことになりそう。それでもいいよね?」
芙美も道筋を考えていたとわかり、瞬は嬉しくて微笑む。
「私も同じ事考えてた。とりあえず屋根の上を移動しよう。落ちても水だし怪我は少ないと思う」
「うんうん。それでいいよ。泳げるから夏で良かった!」
「あはは。気が合うね!」
「だってそうでしょ。濁ってないしとっても綺麗だもの! 泳ぎたいよね!」
リクビトは水中呼吸こそできないが水泳の得意な者が多い。しかし泳ぎが得意からといって溺れないとは限らないため、十二分に注意しなければならない。
「念のために聞くけど、芙美は泳ぎは得意?」
「うん!」
「長い間泳げる?」
「……んー。そこまでは。10分……くらい?」
芙美は水泳が得意だが、体力が少ないのですぐ疲れてしまうようだ。瞬は泳ぐ距離は短くしようと慎重に移動を考える。そもそも、泳ぐのはあまり推奨できない。
「よし。あそこから行ってみよう」
瞬はビルの隣にある一階分低い隣のビルを示した。手すりに手を掛けてジャンプしたら渡れる距離だ。
「いいね!」
冒険心に火が付いた芙美はすぐにビルの端に移動する。下をのぞき込んでも、すぐそばに水があることで落下の恐怖が薄れた。
「なら、私から」
瞬が先に飛び移りる。続いて芙美が飛び移った。
思ったよりも簡単にできて、二人は
「いえーい!」
とハイタッチで喜びを分かち合う。
滅多に味わえない状況を楽しみながら幾つかの屋根を渡った。住宅区なのが幸いして1メートル以内の間隔が多く、助走をつけて走ればなんとかなった。
屋根だったり、ベランダだったり、非常階段だったりと、同じくらいの高さを選びながら進んでいく。
「癖になりそう」
無事に屋根に飛び移った芙美が、笑いながら言った。
そして立ち止まる。次の屋根の幅を見るためと、トミヤを探すためだ。
「トミヤも屋根を渡ってるよね? どこかなぁ」
水から逃げているなら屋根の上にいるはずである。しかし未だ再会できていない。
一抹の不安が瞬の脳裏に過るが、ふるふると頭を振って考えないことにした。
「屋根の上で待機してるのかも。見渡してもヒトがいないから、私達の位置よりも遠くにいるのかもしれない」
でも。と瞬は周囲を凝視する。
逃げ遅れたヒトの姿が全くない。警護隊くらいはいると思っているが、今のところ、目に見える範囲でリクビトの姿がなかった。上手に避難したのか、逃げられなくなったのかのどっちかだ。
(メガトポリスが近いから、この辺の人はみんな避難したんだろうね)
と考えることにした。
目撃してないだけで、水で流されたヒトがいるかもしれない。と想像するのをやめた。
瞬は屋根に飛び移ったが、次に移る屋根を見て渋い表情になる。
屋根の高さは同じくらいだが、3メートルほど距離がある。下を覗くと1車線の道があった。
瞬はギリギリ飛べる距離だが、芙美は無理だったはずだ。体力測定の時の記憶では、幅跳びでは1メートル20センチ程しか飛べなかったはず。このままでは芙美は水の中に落ちてしまうだろう。
「あっちゃー。これは」
と呟いて、芙美に振り返る。
「芙美、ここ幅が広いから、私が向こうに行ってから手を伸ばす。上手く掴んで」
芙美はキョトンとして見返した。
「芙美は落ちちゃうとおもうから、飛んだ瞬間にこの手に捕まって。そしたら引っ張るから」
「うーん……」
突拍子もない発言を聞いて、芙美は腕を組んで唸った。自分の運動センスを考えて苦渋を浮かべる。
「飛ぶ瞬間に掴むって、難易度高いんだけど。できないよ絶対」
「え? そうかな?」
意外そうに瞬が聞き返すので、芙美は顔を左右に振った。
「うん、ドボンする」
「そっか」
「むしろ、瞬はそんな事できるの? ジャンプして相手の手を掴むって」
「よくやってるよ」
芙美はわぁ。と感嘆の声を上げた。どういう場面で行うのか興味を惹かれたが、あとにしようと好奇心を抑える。
「私は無理ね。泳ぐ方がいいわ」
「泳ぐ……かぁ」
「泳ぐなら近いと思うわ。丁度階段が見えるし、あそこまで行けば屋上までいけるし」
「泳ぐ……ねぇ」
瞬が渋ったように唸る。ちょっと嫌そうに口がへの字になっていた。
煮え切らない態度を見て、芙美はピンとひらめく。
「もしかして泳ぐの苦手?」
「うっっっ!」
図星を突かれた。瞬はチラッと芙美をみてから、恥かしそうに視線を泳がせ、観念したように苦笑する。
「そーなの、私あまり泳ぎが上手くなくって……あはは、はは……」
「うっそ! 本当に!?」
スポーツ万能なイメージがあったので、芙美は目を真ん丸くした。
「本当に泳ぐの苦手なの?」
「うん。苦手。一応泳げるけど、見苦しい泳ぎになっちゃう」
「嘘だぁ~」
と笑う芙美に、瞬は苦笑いを浮かべながら
「ほんとなの!」
と叫ぶ。
必死に伝えようとしている瞬をみて、芙美は吹き出した。
「あははは! ゴメンゴメン。あまりにも意外だったから」
「もー。泳ぐの下手って言うの恥ずかしいんだから」
瞬は頬を膨らませる。
「そう怒らないでよ~。分かったわ。まずは瞬の案で飛んでみる。ダメなら水に落ちちゃうから泳ぐわ」
「むー。じゃあ、私がまず飛ぶね」
助走をつけて瞬がジャンプする。隣の屋根の端っこに着地したが、水で滑って前に転げた。
「瞬。大丈夫?」
「平気平気」
手をついてすぐに起き上がった瞬をみて、芙美はほっとした。
今度は自分の番だと、助走をするために屋根の端っこに移動する。
瞬は屋根の端っこに立ち、水で滑らない様に足元に気を配りながら重心を前に傾ける。
芙美が飛んできたら手を伸ばして掴むつもりだ。
「じゃぁ! 行くよぉぉ!」
芙美は走りだして――――――――すぐにブレーキをかけた。
目線の先、瞬の背後から水しぶきと共に誰かが屋根に上がった。光と水で反射しているが、その色は白。
誰が上がったのか芙美はすぐにわかった。恐怖で顔が強張る。
「後ろ! 瞬逃げて!」
「!?」
芙美からの警告が来る前に、水しぶきが上がった音に気づいた瞬はすぐに振り返ろうとして。
嫌な予感がして、反射的に背中を仰け反らせた。
長くて光る物が目の前を横切る。遅れて、ヒュン! と風を切る音が耳に触れる。
動体視力が刃物を捉えた。剣だ。胴体を狙った攻撃だ。
視界の端に白金鎧が見える。
(まっずーーーい)
水中に落ちるのはダメだ。と思っていたが、上体を反らして回避した勢いで完全にバランスを崩してしまった。
足がツルリと滑り、屋根の外へ体が投げだされる。その瞬間を狙って攻撃がもう一回来た。ヒュンと音を立てて剣が伸びてくる。
態勢が崩れているうえ、空中なので成す術がない。左足に激痛が走った。
(いっ)
バシャンと、耳元で水音が響くと、瞬の呼吸が奪われた。




