泉都市
自宅に戻った瞬は淡い藍色のティーシャツと夏物の黒いジーパン着替えた。ポケットにおやつの果汁カプセルとグミを突っ込んで、背中まで隠れるエメラルド色のリュックサックを担いで自室から出る。
黒い運動靴を急いで履きながら玄関を飛びだしたところで、
「瞬! どこ行くの!?」
呼び止める母親の声がして、バツが悪そうな顔になる。
深く息を吐いてから振り返ると、母親が玄関から顔だけ出して睨んでいた。
(しまった……見つかったか)
アクアソフィーに直行する電車の発車時刻が迫っていたので、出鼻をくじかれたと焦りが生まれる。だが平静を装って行き先を告げた。
「アクアソフィーに行くの」
「え? 今から? すぐに帰って来るの?」
母親が驚くのも無理はない。バスと電車を乗り継いで片道三時間はかかる。往復を考えると六時間。とんぼ返りしても帰宅するのは日暮れから夜であった。
「分かんない。泊まらないけど、帰りは深夜になるかも」
瞬本人ですらアルの用件を知らない。頼みたいことがあると言われているだけだ。
「行くのは文句言わないけど、帰宅が深夜って」
母親が露骨に嫌そうな顔をしたので、瞬は慌てて言い直した。
「日付変わる前に絶対に帰って来るから!」
母親はため息交じりに「もっと早く帰りなさい」と念を押しながら、
「瞬は女の子なんだからね。暗くなったら帰るのが普通なのよ」
とお決まりの文句を口にする。
強い口調なのは、何度も夜遅く帰宅もしくは無断外泊する娘が心配で仕方がないという裏返しである。
瞬は親心に気づいているが、『女の子』という理由で帰宅制限されるのは間違っていると感じていた。
(くどくど話が始まりそう)
はぁ。とため息がバレないように息を吐く。
会話を切りたいが、母親を納得させてから出発しないと帰宅後に痛い目をみる。瞬の弱点を知り尽くしている母親は敵に回すべきではない。
「とんぼ返りする。遅くなるようだったら電話するから」
母親は厳しい眼差しで見つめていた。全然信用されていないのは火を見るよりも明らかである。
このままではらちがあかないため、切り札を出すことにした。
「アル……じゃなくて、シフォンさんの所に行くの」
切り札こそアルの名である。
母親は厳しい表情を少し緩めた。
「シフォンさんのところに……? お宅にお邪魔するつもり?」
うんうんと瞬は頷いた。その場しのぎの嘘である。
「そう。ならまぁ良いわ。気をつけて行くのよ。十八時過ぎるようなら連絡をして頂戴」
あっさりと了承を得ることが出来た。母親はアルの経歴や性格、現在の立場に好感を持っており絶大な信頼を寄せている。そのため彼の名は免罪符として使うことが出来た。
瞬は心の中でガッツポーズをしてから、「行ってきます!」と駆け出した。
瞬の家は西側の葵塚坂にある。高いビルや住宅街と森が共存しており、街中に大きな山が残る珍しい地域であった。
人通りの多い場所だとバスの時刻に間に合わないと判断して、道を変える。急な坂を左に下りていくと、十分ほどで道の横に木が茂り始めた。そのまま道なりに進むと、城野山の入り口に辿り着いた。
城野山は標高800メートルほどの高さの山だ。公園、ハイキングコース、紅葉狩りなどで昔から親しまれている。
だが二か月前からカンゴウムシが大量発生して危険ということで、出入り口が封鎖されている。
「うっわー。まだ閉まってるー!」
「最悪かー!」
この公園を遊び場にしていた子供たちが鉄扉の囲いを眺めながらガッカリした顔をしている。
瞬は子供達たち見つからないように回り込んで、鉄扉の囲いを無視して中に入る。木漏れ日が地面を程よく照らし、鳥の声が穏やかに響いている。
そして足元には巨大な蟲。ダンゴムシ形状にいくつも角が生えているカンゴウムシが数匹蠢いていた。瞬を見つけると一直線にやってくるので、適当に蹴り飛ばしながらハイキングコースを進んだ。
二百メートルほど進むと今度は手すりを乗り越えて緩やかな下り坂を降りる。細い木や太い木を手すりとして利用しながら駆け下りた。
木々の終わりが出てくる。今度は歩道と二車線の道路が出てくる。二メートルほどの石垣を飛び降りると、瞬はパンパンと足に着いた枯草を払い落とす。
綺麗になったので顔を上げると、そこはアーケードのある商店街が一列に並んでいた。様々な人間が買い物にやってきており賑わっていた。瞬は向こう側に渡らず今いる歩道を左に進んでいき、砥駅にあるバス停で人の列に並んだ。
時刻表を確認すると、あと五分ほどでやってくるようだ。
「間に合った!」
瞬はガッツポーズをして移動時間に変更がないことを喜んだ。
バスの中は混雑していたが運よく席に座れた瞬は、ホッと息を吐いてから窓の向こう側を眺めた。
水淸の孤島、泉都市はリクビトが暮らす陸地である。古代の言い方をすれば、地球の西日本のどこかであった。
面積の大きさ19000平方キロメートルで楕円形に近い形をしている。
緑に染まる山々が四方を囲い、島の中心から端に向けて大きな川が五本流れており、南西にある切れた海へと流れていく。
瞬は何気に公告に目を留めた。来たれ農業の担い手と書かれているポスターである。
農業や飼育なども盛んにおこなわれており、西と東、北と南で最高九度の気温差があることで、季節によって様々な食材が実る。そして収穫量も多い。
トンネルに入って暗くなり、バスに明かりがつく。
北区と東区地域はソーラーシステムの発電所や工場、ゴミ処理場などが稼働していた。島のライフラインや日用品など全てここで支えられている。
『メガトポリスへ御乗換えの方は~』
乗り換えアナウンスが鳴り、瞬は一番先に降車ボタンを押した。
バス停に降りると、今度はメガト中央行きのバスに乗り換えるのでしばし待つ。
すぐ後ろに橋があり、小川が光を反射して煌めいていた。目を向けると、魚や水生生物が沢山生息している。小さな子供たちが足首まで浸かり楽しそうな声を上げながら、親と一緒に小魚を追いかけていた。
微笑ましく眺めているとバスが来る。瞬は無言で乗り込んだ。
今度はバス環状線である。泉都市を一周する六つの線の一つに乗り込んで駅に着く。次が最後の乗り換えだ。今度は中心と地方を行き来する電車である。二時間ほど揺られてからメガトポリス公園前駅で降りた。
島の中央区にはビルなどの建造物が木々のように立ち並び、人々の生活が密集している。中央区の中心に80階建て筒型ビルの市営商業施設『メガトポリス』がそびえている。泉都市を管理統一している建物で、様々な機関のエリートが務めている。ここから各末端の機関へ指示が送られるので、いわば司令塔だ。
メガトポリスは島のどこから見ても存在が分かるため、泉都市のシンボルとされている。
「よし、到着」
ここからは徒歩だ。メガトポリス周囲は広い公園になっていて、リクビトやミズナビトが木陰で休んでいて長閑だった。この公園を挟んだ周りにビルが所狭しと並び、人の出入りとソーラーカーが行き交い賑やかで、雑音に囲まれている。
「うう、まぶしい」
さっきまで目を瞑っていたからだろう、日差しの眩しさに目を細めて空を見上げる。
山の向こうに壁のような、鏡のような透明に近い銀色の幕が張っている。それが『空間のうねり』で島と外部を遮断している存在だが、生れてからずっとこの『空』に慣れ親しんでいる瞬にとっては、いつもの見慣れた空だ。
「ガラス張りだと空と溶けているようにみえるなぁ」
メガトポリスの外観は全面がガラス張りで出来ているので、空の銀色と同じ色に染まっている。
「さてとー」
人混みを掻き分ける。一般人の他に大勢の警備隊があるいている。その中に主導者の姿もちらほら見られる。このビルで政が行われているので当然と言えば当然だ。
しばらく歩くと電工掲示板があった。ついでに何か面白いイベントが無いかチェックする。
メガトポリスの地上1階から25階が娯楽やフリースペースが設けられている。ここは商業自由、イベント自由な階で、音楽イベントや演劇イベントもよく行われている。25階止まりの商業専用エレベーターを使用するので行きやすい。
興味がある内容があれば、帰りにでも足を運ぼうかなと思っていたが、特に見たいと思える行事はなかった。
「さてさて、急がなくっちゃ」
やや駆け足になりながら深淵都市通行出入口、通称『ホープ』と呼ばれる地下階段へ向かう。
メガトポリス正面玄関から斜め真正面に、半透明の半ドーム型がぽっかりと口を開けている。番号は01番。そこから頻繁に人の往来があった。
幅と高さはトラック四から五台が余裕で通れるほど。防弾ガラスで作られた頑丈な通路が真っ直ぐ二メートル垂直からゆるかにカーブして地面に潜っている。ここから深淵都市に向かうのだ。
ホープは島全体に80個設置されていて、瞬の目的地から一番近いホープがここ。それにアクアソフィーへ向かう一番楽な道でもある為、頻繁に使っていた。
「うわぁ、今日は人がすごく多い」
入る前から疲れそうであるが、混雑に混ざりにいく。上下を中央線で分けて人々の歩行速度に溶け込んだら、すぐに地下へと続く階段と三本のエスカレーターが目に入る。
(この混み具合なら駆け下りても大丈夫そう)
瞬は階段を駆け下りた。駆け下りていたら、いつの間にか階段を駆け上がっている。気にせずそのまま上がっていくと、ホープの出口付近から光が漏れた。
瞬は水淸の孤島の裏側『深淵都市』に到着した。
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