成長
「鉄原先輩」
「……! な、何かしら?」
突然名前を呼ばれたうえ、それが男の声だったからだろう。
先輩は「ピクッ」と肩を引きつらせたのち、素早くこちらを振り返った。
……こうして改めて彼女の顔を見ると、やはり垢ぬけた美人なのだなと再認識する。
こちらの世界のとある事情により、美男美女を見る機会は以前よりも格段に増え、僕も美人に対してある種免疫のようなものができていた。しかし、そんな数多の美男美女の中でも彼女は一際目を惹くほどのきわめて整った目鼻立ちをしていたのだ。
同時に、その魅惑的な体つきに目がいきそうになるが、すかさず鋼の理性で自制し、まっすぐに彼女の目を見る。
絵画教室では作業をしながら数回事務的なやりとりを交わしたのみで、こうしてお互い面と向かってまともに話をする態勢になったのは、この時が初めてだった。
彼女が異性を避けるようになったのは、おそらく思春期という多感な時期に彼らからの性的な視線に晒され続けてきた経験が大きく影響したのではないか、と僕は推測している。
そのため、無意識にでも彼女にそういう類の視線を向けないよう、僕は教室内でもなるべく彼女から距離をとり、極力自分の視界に入れないようにしていたのである。
「先輩は、傘を持ってないんですよね?」
「……そうだとして、それは別にあなたには関係のないことでしょう?」
大方予想の通りの反応だった。
顔見知りとはいえ、やはりそう簡単には異性である僕に対してガードを緩める気は無いようだ。
鉄の乙女のあだ名は伊達ではないのだと、改めて思い知らされる。
「……まあ、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。何も一緒の傘に入ろうなんて言うつもりは、これっぽっちもありませんから」
「…………。」
「ただの偶然なんですけど、僕は今持っているこの傘以外にももう一つ折りたたみ傘を自分のカバンに入れてます。だから先輩はこっちを使って下さい。別に返さなくて大丈夫ですから」
そう言って、僕は手に持っていた雨傘を先輩へ差し出した。
「で、でも……」
「このままいつ止むかもわからない雨を待ち続けるのは、得策ではないと思いますけど……」
「…………。」
しかし先輩はためらうばかりで、目の前に差し出されたその傘を受け取ろうとはしない。
彼女にとってはまさに「渡りに舟」といえるような提案でも、やはりなかなか僕の言葉を信用できないようだ。
鉄の乙女が誇る鉄壁のガードを説得や提案という手段で崩すのは、どうやら僕ごときでは荷が重すぎたようだ。
となると、思い切ってアプローチを切り替えるほかあるまい。
「……仕方ありませんね。ならばこうしましょう」
僕は先輩の前に差し出していた傘を、自分の足元に置いた。
「? な、何を……」
「……別に先輩に使ってもらうためではありません。たった今、僕はこの傘の所有権を放棄したくなったので、ここに置いて帰ります。他意はないし、先輩に恩を着せるつもりも一切ありません。ただの気まぐれです」
「……どうしてそこまで」
「この傘をどう扱うか、それはたまたま見つけた誰かさんの自由です。持って帰ろうが、このまま放置しようが、或いはその辺のゴミ箱に突っ込もうが、どうぞご自由に。何せこの傘はもう僕のものではないんですから。……それでは失礼します」
「――え? ちょ、ちょっと……!」
淡々と一方的に話し終えると、僕はカバンから素早く折りたたみ傘を取り出し、足早に生徒玄関を出たのだった。
呆気にとられる鉄原先輩と、ここで彼女と会っていなければ、自分が使うはずだった紺の雨傘をその場に残したまま――
降りしきる雨の中、一人いつもの道を往く。
暗い雨雲に覆われた陰鬱な空模様とは対照的に、僕の心はどこか清々しい気分に満ちていた。
自己満足? 善意の押し売り? 大いに結構じゃないか。それでも勇気を出して、困っている人に手を差し伸べることができたのだから。
とにかく、やれるだけのことはやった。
僕の強引なお節介を渋々ながらも受け入れるも、それでもなお拒むも、あとはもう彼女次第だ。
しかしながら、あそこまでやってもまだあの傘を受け取ってくれないのだとしたら、それだけ彼女の男性不信が根深いものということに他ならない。
それはもはや、僕の関知するところではない。先輩自身の問題である。
……流石にないとは思うが、明日の朝登校して早々ごみ箱に僕の傘が突っ込まれているのを目にした日には、さすがに一週間くらいは立ち直れなくなるだろうけれど。
結局、雨は夜更けになっても止むことはなく、その日の夜の予報でも「明日の朝までは雨」と出ていた。
(先輩はあの後、雨に濡れないで無事家へ帰れたんだろうか……?)
偶然にも明日は、週に一度の絵画教室の日だ。
別に先輩に改めてお礼を言われたり、話しかけられたりするのを期待しているわけではないけれど、風邪で休んだりせずいつも通り彼女の姿を見ることができれば、僕のお節介の甲斐もあったというものだ。
この日、自分の中のうじうじした迷いが吹っ切れ、優柔不断な自分からようやく一皮むけたような気がした。
そう、僕はこの時初めて、この世界での人間的な成長を少しだけ実感したのであった
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突然ではありますが、この場にて感謝申し上げます。
お目汚し失礼しました。