決意の夜
ということを思い出したのが、中学1年生の6月のある日。
同じクラスの男子が、イタズラのつもりで僕が座ろうとしてした椅子を引いた。そう、誰でも一度くらいは目にしたことがあるだろう、「椅子引き」と呼ばれる危険なイタズラだ。
そして、椅子引きにあい、バランスを崩した僕は盛大に尻もちをつき、イタズラに成功した犯人の男子とその仲間は大笑いしたのだった。
……という話で済めば良かったのだが、残念ながらそうはならず、そのまま後ろに倒れた僕は、すぐ後ろのコンクリート壁に後頭部を強打し、血を流してそのまま気絶。
そしてその日の夜、病院で再び目覚めたとき、それまでの前世の記憶を思い出したというわけだ。
いや、思い出したというより、前世の僕の意識が、今世の僕の意識を乗っ取ったという方が正しいかもしれない。
今世の僕の記憶も確かにあり、思い出すこともできるのだけれど、それは何故か頭の中の特殊な引き出しにしまいこまれていて、思い出すときは他人としての記憶を映し出して参照しているような、とにかく言葉では説明できそうにない非常に不思議な感覚があった。
しかも、その記憶には、こっちの知り合いと会ったり、なじみのある場所に行ったりと、何らかのトリガーがなければアクセスできず、病室に一人でいる間は、自分の名前が「深草拓登」であるということと、気絶する直前におこった一連の出来事以外、何一つ思い出すことができなかった。
目覚めてから初めてこっちの僕の母親を見たときも、(えっと、この人は……ああ、母さんか! 普段から過保護気味だったからなあ……めっちゃ心配しただろうなあ) みたいな感じで、知っている人を認識しても、詳細を思い出すまでに若干のラグがある。
感覚としては、幼い頃によく見ていた漫画やアニメのキャラの主人公に突然乗り移るように転生して、その作品世界の中で「あ、このキャラは主人公である僕の母親だな!確か性格は●●で……」みたいに思い出すような感じに近い。
……まあ正確にはもう少し複雑な感覚なのだが。
そんなわけで、その日以降意識の主導権は完全に前世の僕のものになり、こっちの世界についての記憶は、何らかのアクションをきっかけとして、今世の僕の記憶にアクセスする以外では思い出せなくなったのだった。
翌日、朝から念のため脳の検査を受け、異常がなかった僕は、そのまま退院となり、その日の午後から学校に復帰したのだった。
その後、椅子引きをした男子生徒が彼の両親とともに我が家に謝罪にきたり、母さんがその生徒だけでなく学校にもブチ切れて校長室に乗り込んだりと、まあ色々あったのだが、面倒なうえに何一つ面白い話はないので割愛する。
病院で目覚めた直後は、日本語が通じ、病室のネームプレートにも僕の名前が漢字で書かれていたことから、また母国の日本に転生したのかと思ったが、しばらくして、どうやら同じ日本でも、一部の常識や社会的な枠組みが異なる「パラレルワールド」であることに気が付いた。
パラレルワールドといっても、大筋では元の世界と大差なく、日本のみならず、世界各国の言語体系や固有名詞などは変化していないし、科学や文明の発展度合いにおいても、空飛ぶ車や、人間と瓜二つのロボットといった、近未来的な産物を街で見かけるようなこともなかった。
何故パラレルワールドと言い切れるのかといえば、男女比や婚姻に関する習俗や法制度が大きく異なっているからだ。
こっちの世界は、男女比1:5と、人口がかなり女性多数に偏っている。
どうやらこれは未知のウイルスや化学物質の影響などではなく、太古の昔からそういうものであったらしく、中世の欧州では、一時的にさらに男の数が減り、希少な男性をめぐって戦争が何度か起こったとされている。
婚姻スタイルも特殊で、なんと一夫多妻制が認められており、夫が気の向いた時に妻の元を訪れる「通い婚」がスタンダードであり、婚姻や婚約に関してのハードルが前の世界より低くなっているのだ。
また、早婚傾向が強く、男子はなんと中学入学前くらいからパートナーを探し始め、男女ともに遅くとも20代前半には結婚する場合がほとんどなんだとか。
では、数が少なく、重婚ができるほど男が優遇されているのだから、男は女性に優しくしてさえいれば、美女をとっかえひっかえできて人生イージーモードではないか?と思う人もいるだろう。
しかし、現実はそう甘くない。
男女比が1:5と偏っていて、男性が女性よりかなり少なく、さらに男性の重婚が認められているものの、男女の性や恋愛に対する意識や価値観、つまり貞操観念は元の世界とほぼ変わらないのである。
実際、入院中に見たテレビで、男女比がおかしいことに気づいた(というより思い出した?)ときは、「僕にもワンチャンあるのでは?」などという甘い考えが浮かんだのだが、退院後、こっちの世界での僕が、前世の僕よりもさらに酷いレベルの人見知りで、異性にモテるどころか同性の友達すらほぼいないことも思い出してしまい、意気消沈したのだった。
考えてみれば、いくら男が少ないといっても、せいぜい女性の1/5程度。
学校のクラスにあてはめても、1クラス40人とすると、そのうち男子は6人か7人程度いることになり、「男子に対して免疫のない女子」なんていう存在はまず生まれないし、それこそ男女比が1;15や1:30くらいにならない限り、女子の方がガッつかずとも、男子と結ばれるチャンスは十分にある。
したがって、男性というだけで周囲の女性からちやほやされたり、さらに極端にいえば、たとえ俳優クラスのイケメンでも、女性から痴漢されたり性的に襲われたりということはこの世界の常識で考えてもまず起こりえない。
結局、自分から積極的に行動しない限り、普通の男性が魅力的な異性と恋愛関係になることなどできないのが現実である。まあ、よほどルックスが良いか、あるいは名家や大企業の御曹司だったりすると話は別だろうけれど。
恋愛に関して、どちらかというと男性のほうが積極的なのに対し、女性は受け身になりやすいという傾向は、こっちの世界でも共通なのだ。
そう、たとえ異世界であっても、夢のような話は転がっていないのである。
(……上等じゃないか。せっかくまた学生からやり直せるなら、これから臆病な自分の殻を破って、精一杯自分を磨いて、素敵な女性との出会いを掴んでやる……絶対に!)
退院から1週間後の夜、薄明るい月明かりが差し込む自室で、僕は一人静かに決意を固めたのだった。
次回からようやく本作のヒロインの一人が登場します! お楽しみに!