ありがとう/ごめんなさい
「おっかえり~!遅かったね~」
満員電車に揺られてやっとのことで部屋に帰ってきた私を迎え入れたのは、気楽そうに言葉をかけてくる同居人だった。
「……ただいま、随分元気ね」
「そりゃまぁ、昼間は完全オフだし?ゆっくりじっくりしっぽりと休ませてもらってる訳で元気も有り余るってもんよ!
そもそも?私が元気ない時なんであった?」
確かに。同居を始めて早一か月。彼女の静かな姿など見た事がない。
「……まぁいいわ、早速始めてくれる?」
私のその言葉でスイッチが入ったのか、彼女はにんまりと笑い大きくウィンクした。
「承知致しました。それじゃあ、お風呂にする?ご飯にする?それともワ・タ・シ?」
今日の施術が始まった。
◇
「はい、あーん」
彼女に差し出される料理を片っ端から平らげていく。
用意されていた料理は全て、彼女が夜に私が食べたい料理を予想し作ったものだ。
この一か月間、彼女の予想が外れた事は無い。
栄養バランスが取れているうえに、そこらの高級料理店で出されていてもおかしくないレベルで美味しいのだ。
料理を食べきる頃には気持ちのいい満腹感に包まれてた。
「ご馳走様でした」
「は~い、お粗末様~」
私に食べさせ終えた彼女は、カチャカチャキュッキュッと子気味いい音を立てて食器を洗っている。
「相変わらず外れないわね、あんたの予想」
「んっふっふ~、そりゃキミ専属のメンタリストですもの。これくらいお茶の子さいさいよ!」
器用に手元を動かしながら、事らに笑顔を向けてくるメンタリストを名乗る彼女。
彼女について知っていることはいつも笑っている事。
私の事を私以上に知っている事。
そして、
「それじゃあ、次はどうする?お風呂にする?それともワ・タ・シ?」
私の事が好きだという事だけだ。
◇
「………………」
「いやホントにごめんって~、反省したから許してよぉ~」
逃げ込んだ湯船の中でブクブクと泡を立てながら抗議の視線を向けていると、体を洗っていた彼女はにやけた表情のまま謝ってくる。
「……その言葉、何回目?」
「…え~と、十回くらい?」
「二十三回」
「アッ八ッハ、……ホントごめん」
多少は反省したのか、軽く顔を背けた。
いつもこんな風にはぐらかされて、まぁいいかと思ってしまう。
これも彼女の思い通りなのだろうか。
だとしたら私はとても扱いやすい女という事か。
それにしても、改めて思う。
彼女はとても綺麗だ。
雑誌の表紙を飾っていてもおかしくない程に端正な顔立ち。
同性の私から見ても隙の無い身体つき。
ふとした仕草に思わずはっとしてしまう時もある。
そんな彼女が何故私なんかの家で家政婦もどきをしているのか、疑問に思わずにはいられない。
初めて会った時に一度だけ、私の事が好きだから、とは言っていたが、本当にそれだけなんだろうか。
体を洗い終えた彼女が湯船に入り、水かさが一気に増す。
湯に半ば沈めていた私の顔は瞬く間に水没し、目と鼻がやられた。
堪らず顔を上げむせ返る。
ケラケラと笑う声がする。
徐々に元に戻っていく視界の先で彼女は、なんとも愉快そうに笑っていた。
その様が、まるでドラマや映画のワンシーンみたいで、見ているだけで私も笑えてしまうのだ。
こんな日常がずっと続けばいいなって、そう思う。
「それで、最後はどうする?ワ・タ・シ?」
どうやら私は、彼女に惚れてしまっているらしい。
◇
「…ねぇ」
「ん~?」
膝の上から眺める彼女は穏やかで、春の木漏れ日に照らされているかのように心地いい。
次第に鈍っていく頭を懸命に動かし、延べ三十回目の質問を投げかけた。
「…いいかげん、なんでここにいるのか、おしえてよ……」
この質問をすると彼女は少し困った顔をする。
この質問をされたくなかったかのように。悲しげな顔をする。
答えてくれたのは最初の一回だけ。
それ以降はなんやかんやでうやむやにされてしまう。
「そんなに知りたい?」
「…そりゃあ、……まぁ、あんたのこと、もっと、しりたい…し……」
「……残念だけど、それは答えられないな」
どうやら今日も駄目なようだ。
「…あっそ」
「残念?」
「……ううん、いい。…これからも、まいにち、きくだけだし………」
「困ったな、忘れてくれると私めっちゃ助かっちゃうんだけどなぁ~」
「……ぜったいに、わすれてなんか、…やらないんだから……」
「……そっか」
視界がぼやけてきた。もう限界だ。今日も理由は聞けずじまいだったが、いい。
明日も明後日もその次も、毎日聞けばいい。
彼女が教えてくれるまで、何度だって。
おやすみ、良い夢を
輪郭を失っていく世界で、彼女の声だけが響く。
―――――――――
最後に響いたこの音の意味が、私には分からない。
◇
ここ最近、同じ夢をよく見る。
幼い女の子が二人、仲良く公園で遊んでいる。
一人ははつらつとした笑顔が特徴的な、活発な少女。
もう一人は少しおどおどした、もの静かそうな少女。
毎日飽きもせず、親が迎えに来るまで同じ公園で遊んでいた。
そんな光景を眺めているとある日、活発な少女が公園の外に出ようと提案するのだ。
物静かな少女はいつも通り公園で遊ぼうと言うのだが、活発な少女に強引に連れ出されてしまう。
そして―――――――
◇
「起きて、朝だよ」
目が覚めると、いつも通りの笑顔を浮かべた彼女が、私の顔を覗き込んでいた。
頭には昨日の夜と同じ、柔らかい感触がある。
「…おはよ」
「うん、おはよう」
「一晩中膝枕してて痛くならないの?」
「平気だよ~、君の寝顔見てたら全然気にならないもんね~!」
そう言いながらも私が起き上がった直後からベッドの上で悶え苦しんでいるので、元気な声音とは裏腹に説得力は皆無である。
しばらく転げまわった後、朝食の準備のため、彼女は寝室から出ていった。
残された私は、また見れなかった夢の続き、幼い頃の私と見知らぬ少女の思い出について、一人考えていた。
◇
「ちゃんと鞄持った?忘れ物ないか確認した?電車何時に乗るか分かる?」
「子供じゃないんだから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
普段からお世話したがりな彼女だが、外出前は特に心配し過ぎる。
そんなにおっちょこちょいに見えるだろうか。甚だ心外である。
「それじゃあ、行ってきます」
「ん~、行ってらっしゃ~い」
夜の間ずっと起きていたからだろう。あくびを噛み殺しながら私を送り出す彼女。
――私が仕事に行っている間が彼女にとっての休みである訳で、契約上何も問題はないのだが、どうにも釈然としない。
彼女の方に向き変える。思い付きの行動だが若干恥ずかしい。きっと私の顔は真っ赤だろう。
――私が家にいる間、ずっと働き詰めの彼女。
開きかけていた距離を詰める。キョトンとした彼女の顔が見える。あぁもう、可愛いなぁ。
――ずっと迷惑かけっぱなしなんだから。
着実に近づいていく顔と顔。そして――――――――――
―――――これくらいのイタズラはしてもいいよね?
「……じゃ」
珍しい顔も見れたことだし、今日はこれくらいで勘弁してあげる。
呆けている彼女を置いて私は外に出た。
さて、今日の夕ご飯は何だろうな?
◇
…驚いた。まさか、彼女からアプローチしてくるとは思ってなかった。
毎日アプローチし続けていた甲斐があったのかもしれない。
ともあれ、今日のお仕事は気合が入りそうだ。
彼女のいない彼女の部屋。
ベランダから下を覗くと、駅へと向かう彼女の姿が見えた。
無効もこちらに気付いたのか、あきれているような表情を浮かべている。
私が手をブンブン振ると彼女も鞄を持っていない方の、
手首から先の無い右腕を振り返してきた。
幼い頃、私と一緒に居たせいで失わせてしまった右腕と、当時の記憶。
許されたいとは思っていない。許されるとも思っていない。
ただ彼女の生活を支え、彼女のためだけに生きていくうちに記憶が戻れば。
ごめんなさいと、ただ言いたい。
その日が来るのを待つためだけに、今私は生きている。