第0章 1話
寒い。暗い。どれだけ歩いてきたのだろう。1日?それともほんの少し?いつもの散歩コースを歩いていたら、見慣れない小屋を見つけて、つい入ってしまった。外から見た小屋の大きさなどとうに越えるほど歩いた気がするが、まだ壁にたどり着かない。時間の感覚が不自然に消えて、自分だけが空間から隔離されたかのような違和感を覚える。
『ライト』
もう何度目ともなる灯の魔法。やはり発動しない。来た道を戻ったほうがいいとは理解しているのに、何故か進む足が止まらない。ーーやがて無意味に見えた歩みにも終わりが見える。
「すごい…」
感嘆の声を耳で聞いてから、遅れて、自分が漏らしたのだとわかった。目に飛び込むのは眩いほどの紫色。見た目は拳大の宝石に見える。無機質な茶色の祭壇の上に、ただぽつんと置かれていた。先ほどまでは何もなかったはずの空間に突如として現れたそれは、周りの雰囲気に似合わず、ひどく神秘的に見えた。
「さ、触ってみてもいいかな…?」
自身の好奇心に抗えず、祭壇を登り、そっと宝石に手を伸ばす。指先が宝石に触れようかというその時、頭の中に声が響いた。
"死にたくないなら、やめておけ"
唐突にかけられたその綺麗な声に、反射的に手を引っ込める。咄嗟に周りを見渡すが、気配など何も感じない。
「宝石さん…?」
目の前の宝石に、そう問いかけてみる。
"宝石ではないわ!…まぁ良い。娘、死にたくないなら来た道をすぐに戻るがいい。"
再度頭に響く琴のように綺麗な音色。不安もあったが、子供特有の好奇心が勝って聞き返す。
「あなたは誰?」
"……"
訪れる沈黙。何やら言うべき悩んでいるかのようにも思える数秒の間の後に、ばつが悪そうに宝石が声を響かせる。
"魔王ノア"
聞き覚えのある音に記憶が蘇る。かつて悪いことをたくさんした魔王が父によって封印された話。
「封印されちゃったの?」
思わず、そう聞き返してしまった。嫌だったかも。しまったと思ってももう遅い。
"小娘、貴様死にたいのか?…少し小さいが、何やらあいつの血が流れている様子。これなら耐えられるかもしれん。"
綺麗な紫色が怪しげに瞬く。
「私を殺すの?」
"いや、利用するだけだ。貴様の魂も私が喰らってやろう。光栄に思うが良い。…何か言いたいことはあるか?"
なんとなく、そうなんとなく、この魔王は優しいのではないかと思った。
「ううん、良いよ。私が役に立つなら。どうせこのまま生きてても楽しくないし。…でも、強いて言うなら人間さんみたいに自由に生きたかったなぁ…。」
魔王の目にはどうでもいい小娘のその諦観が、ひどくいらだたしかった。まだ、ろくに生を重ねていないくせに。本当の屈辱というものを知りもしないくせに。
"そうか。ならお別れだ。"
宝石が端から少しずつ砕けていき、綺麗な紫色の輝きが辺りを覆い尽くす。その光は入り口を探しているかのように数度少女の周りを回ったかと思うと、左眼から少しずつ体へ侵入を始める。
……少女は左眼に熱が集待っていくのを感じる。そして膨大な魔力の高まりも。だけど、何やらその動きがおかしい。迷っている?いや、なんか…雑?とりあえず、手助けのつもりで右往左往している魔力の流れを一つにまとめてみる。
"お、おい待て小娘!!それをやめろ!"
?何かしてはいけなかったのか?さっきまで偉そうにしてたその声の慌てようが可笑しくて、左眼に集まっている魔力をよりいっそう圧縮していく。
"あ…待って。ほんとにやばいから!!ちょっと!!やめてってば、う、うぅぅぅ!"
あ、やばい。ほんとに楽しくなってきた。ちっちゃい子にいじわるするこの感じ。私もちっちゃいけど。
左眼に声を封じ込める勢いで、魔力を定着させていく。
"え、こんな小娘に!?やだぁ〜!!!誰か!助けて!!"
とうとう助けまで乞い始めた。まぁ、そろそろ可哀想だし許してあげようかな。あ、でもこんな時にはあの言葉を言わなきゃいけない気がする。そう、なんとなく。
「封印」
……暗いその小さな部屋に、ただ少女が1人、佇んでいた。