《1》
今にも崩れ落ちそうな外付けの鉄製階段には蔦が巻き付き、その蔦はアパートの外壁半分さえも覆っていた。
アパートの入り口にも朽ち果てそうな鉄格子の扉があるが、立て付け悪くてがきちんと閉まらない。
扉の横には、これもやはり錆びた郵便ポストがあって、四つのうち一つの口にはガムテープが貼ってあり、使えないようになっていた。
七曲ハイツ一〇二。
そこが今日から大輔の部屋だ。
大輔は思い切りガムテープを引き剥がした。
俺の部屋。俺の家。俺だけの住処。
感慨深くポストをなでた。
それからそばの鉄格子の門に手をかける。キィッと小さく鳴いて、扉が開いた。
部屋のドアは、ベニヤを張り付けただけのような、田舎のアパートでもそうそうお目にかかれない代物だ。ドアノブを乱暴にガチャガチャと動かせば鍵など使わずとも開くのではないだろうか。
だが、鍵を使ったにも関わらずなかなか開かないドアだった。キュイイと変な音を吐き出しながらやっと開いた。
そして部屋に差し込む、緑色。
息をのんだ。
大輔は自分の目が自然と見開き、そして口の内側が笑みを作るように動いたのを感じ取った。
左側の磨りガラスの窓から、日の光が注ぎ込んでいる。それが美しい緑なのだ。
大輔はスニーカーをぞんざいに脱ぐと、直ぐに窓を開けた。
昔ながらの窓は大きく低い。膝下から額の高さまでの異空間だ。
東京のハイソな街のイメージからはかけ離れた、緑の風景が広がっていた。
「おや、こんにちは」
緑の坪庭に、まるでそこに設えらたかのような、風景に溶け込んだ人影があった。
「引っ越して来たのかい?」
さわさわと風に揺れる木の下。老年の男性がすくっと立ち上がり、人好きのする笑顔で話しかけてきた。老年といっても、老いた感じはしなかった。快活な雰囲気である。
「あ、はい」
「そうかぁ」
昔は格闘技でもしていたのだろうか、がっちりした体格で、着古したポロシャツに白いスラックス。スラックスも履き古している。
老人は庭仕事の最中のようだった。
「この庭はおじさんの庭……なんですか?」
「そんなような、そうではないような、だな。僕はこの建物ができた頃から住んでるんでね、気がついたら我が物顔で庭いじりをしてしまってたんだな」
はっはっと笑い、腐葉土の袋をひっくり返した。そして大輔に背を向けてしゃがむと、庭の土を掘り起こし、腐葉土と混ぜはじめる。
「君、煙草はのむかい?」
「え、いや、……吸わないす」
しゃがんだまま話しかけてきたので、大輔は少々面食らった。
すでに会話は終了したのだと思っていた。
「そうかあ」
「あ、もしかして、ここ禁煙のアパートなんですか?」
「いいやあ? その下にちゃぶ台がある。窓枠に腰かけて煙草をやるにはちょうど良いだろうとね」
下、そう言われて身を乗り出すと、窓の下にテーブルがあった。ちゃぶ台というよりと少し大きめの台座のようにも思えた。
「前の住人の方が置いてったんですかね?」
「いやあ、もっと前からあるなあ。いつだったのかは忘れたけどね。庭を見ながら煙草をのんだり、酒を飲んだり、ギターを弾いたり」
「ギターっすか」
「当時は流行ったんだよ、フォーク」
「フォーク」
いつの時代の思い出話なのだろうか。
「そう。フォーク。そのあとも音楽やる人間は何人かいたんだけど、ほら、周りが開発されておしゃれなマンションだの店なんかができたら、音がうるさいとか言われちまったみたいで」
「あー」
「だもんで、この建物はこうボロくみえて防音構造だ。多少大声で歌っても大丈夫。けど、窓だのドアだのは昔ながらの木だから、あんまり爆音だと漏れるかな」
はっはっは。
風が吹き、さらさらという音がおじさんと大輔の間に流れた。
訪れる沈黙は心地よいものだった。
大輔は窓枠に腰掛け、しばらく緑の庭と庭仕事の様子を見てから、静かに窓を閉めた。
窓を閉めても、部屋の中にも緑の光が降り注ぐ。
緑の窓の反対側も、窓。
ぴっしりと閉まった木製の雨戸を開けると、先ほど入ってきた錆びた格子門が見える。
その先には緑の小径。まるで、忘れ去られた過去の空間にいるような気がする。