虚好
その日の空はいつも以上に青く澄んでいて、見つめていたら吸い寄せられて宇宙の果てで放り出されてしまいそうで、だから僕は下を向いていた。昼休みでざわつく教室からも離れたけれど、これといって目的もなく、歩いているうちに外に出た。「悲しいの?」と君が声を掛けてくれなかったら、僕はいつまでもケヤキの傍で回り続けていたと思う。
ローファー、靴下、紺のスカート、漫然と滑っていった視線が君の顎や口周りではたと止まった。息をのんだ。そこまでだと、正直なところ見分けがつかなかったのだ。
「じゃあ、取引しようよ」
目を合わせると、ようやく詰まっていた息を吐き出せた。君とあの人との一番の違いはその目だと僕は思う。どこがどう、と細かく言うことはできないけれど。
「私が君を好きになるから、君も私を好きになって。そうして悲しみの埋め合わせをしよう」
二人一緒に悲しんでいたら、姉もきっと悲しむから。
急な心臓病に倒れ、そのまま還らぬ人となったあの人の双子の妹が、あの人と付き合っていた僕にその取引を提案したのは、木枯らしの吹き荒ぶ冬の昼下がりだった。
好きといっても、公に付き合うわけではない。
僕が何かを言い返す前に、君は指を一本突き立ててまずそう言った。
「日頃こっそり視線を交わせるだとか、雨の日に風邪を引かないか心配するだとか、手紙を書いてはくしゃくしゃにして捨てちゃうとか、勉強のわからないところを教えてあげるだとか、それくらいのことでいいから」
まくしたてるように決められて、僕もおずおずと頷いた。悲しんでばかりいたら姉も悲しむ、と君は王手の顔つきで言い、僕はまんまと投了した。
形だけでも好きでいること。それが取引の内容だ。僕はその取引を遂行するために、視線を一瞬ずらす技も身につけたし、雨の日に外に出たりもした。しかしそのうち面倒になった。
テスト期間中、僕がまず図書館に行く。しばらくすると、君が課題を抱えてやってくる。君が僕の向いに座り、問題を解き、司書に怒られない程度に、僕が小声で間違いを訂正する。
その粛々としたやりとりが、好きを体現する行為として残った。
とはいえ、それも三年の冬休みまで、つまり今このときまでだ。三学期でのテストは内申書に反映されないので誰も力を入れはしない。赤点を割り込めばさすがに咎められるだろうが、よほど意図的にならなければそこまで酷いことにはならない。
「だから、僕が君に教えるのはたぶん、これが最後だよ」
漠然と思いつつ、いつ言い出せばいいのか考えあぐねていた疑問を、テスト期間最終日の夕方四時過ぎになってようやく君に伝えることができた。
「だろうね」
君はまずそっけなく言った。当然、わかりきっていたことなんだろうな、と僕は胸を撫下ろす。ところが君は視線を僕の胸元に当てたまま微動だにしなくなった。次第に瞳が見開かれ、潤んでくる。
「ごめんな」
「やめてよ」
僕の謝罪を予知していたかのように、君が素早く拒絶した。
「いつまでも高校生じゃいられないの、当たり前だし」
君は前髪をつまんで撚り合わせた。
「ねえ、取引のこと憶えてる?」
あの人、君の姉がいなくなったのは二年の冬だ。初めてその言葉を聞いてから、すでに一年のときが流れていた。長いとは思う。でも忘れるにはまだ早い。僕は素直に頷いた。
「私のこと、好きでいてくれた?」
毛束をいじる手の下で、君の視線が僕を突き刺してきた。
君の顔はあの人と良く似ている。顎から下だけを見たら、たぶん見分けはつかなかった。制服は学校指定だし、下顎部の形はおそらくほぼ一致すると思う。
一番の違いは目だ。あの人が若干垂れていたのに対し、君の目尻はやや吊り上がっている。といっても差異は微少で、遠目から見ればわからない。近づいてまじまじと見つめれば気づいてしまう。だから僕は、君の傍を歩くときはいつも君の顔を見ないようにしていた。せっかく背格好が一緒なのに、わざわざ君を見つめて、あの人じゃないとわかってしまうと、君がとても悲しむであろうことは火を見るより明らかだった。
「私ね、入試の結果、春休みにならないとわからないの」
君には入りたい大学があり、一月頃に受けた試験では合格点に満たなかった。他のいくつかの学校を滑り止めにして、三月の頭にある試験が最後の試験、その結果発表が三月の下旬になる予定だった。僕らはおそらくは無事に卒業して、咲くか咲かないか微妙なラインに佇む桜に見送られながら学舎を離れる。すでに行き先が決定している僕のような人と違い、君は不安な日々を送ることになるのだろう。
「頑張ってね」
言いながら、頑張っていることは明らかなんだからこれを言っても意味ねえよなって思ったし、実際に君もゆるい頷きを返す他ないようだった。
「最後に受けるところね、昔、お姉ちゃんと一緒にオープンキャンパスに行ったの。二年の春頃だったと思う」
あの人が生きていた頃の話を君がし始めるのは珍しかった。いつもは、悲しんでしまうことを恐れてか、極力思い出さないようにしていたからだ。「お姉ちゃん」と呼ぶ君の言葉は聞き慣れなくて、宙に浮いていて、それだからこそ存在感を持って僕の耳に響いた。
「お姉ちゃん、凄く楽しんでいて、こんな大学だったら入ってみたいって言ってた」
君は笑みを浮かべてそこまで言うと、途端に顔を俯かせた。前髪の織り成す陰が瞳にかかった。
「私が受ける一番の理由は、たぶん、それ。お姉ちゃんが好きって言ったから受けようって思ったし、だから今も勉強しているんだ」
君の顔にはまた笑みが浮かんだ。陰りをともなったままの、静かな微笑みだった。
「入った先のこと、お姉ちゃんならどうするだろうって、考えちゃうんだ」
君は顔を俯かせた。
テーブルの上で掌が交わされて、指の先が片方の手の又に入り、力を込められた。白んでいく指先が君の額にあてられて、君は啜り泣くような声で呟いた。
「でも、何も思いつかない」
あの人は高校二年生で死んだ。大学生になったあの人のことを君も僕も、この世界の誰も知らない。
「私、君のことも、好きになろうとしていたんだと思う。お姉ちゃんが好きな人だったから」
君は再び目を上げて、僕を見つめた。揺らぐ視線が注がれてくる。
「でも、ごめん。私の方から、取引を破っちゃってた」
短く切るような君の言い方は、それ以上の長さを保てなかった。「ごめん」と小さく言い添えると、君は俯き、僕の方を見なくなった。
項垂れた頭、前髪の奥のつむじまで見えて、震えているのが僕からははっきり見えた。僕は何かを言おうとして、何をいっても慰めにならないとも思った。何を言っても、嘘になりそうで、ならないように慎重に、君のつむじを見つめ続けた。
君を見て僕がどう思ったか。何度も自分に問い、唇を湿らせた。
「僕は君を、好きになったことはない」
君の反応にかかわらず、僕は言葉を続けた。
「だって、君とあの人は全然違うから」
思えば、髪を撚る癖も、君独特のものだ。目の形以外にも、見つかるものはいろいろとある。
僕は君をあの人と同じだと思ったことはなかった。だからやはり、取引は不成立だ。
「でも、テストの日にここに来ていたのが君だってことはたぶん忘れない」
僕は君の頭に手を伸ばし、震え続ける髪の束を静かに梳った。
「だから、頑張って」
おそらく意味のないだろう言葉を再び繰り返した。当然君は震え続けているけれど、僕はもう嘘はつけなかったし、逃げる気にもなれなかった。
静粛の文字を掲げた図書館の中に、しばらく啜り泣く音が響いたが、司書は何も言わずにいてくれて、陽光の赤みを帯びるまで、僕は君を梳り続けていた。