弓使いサマンサと仁科紗英
「サマンサさんって、なんとなく私の先輩に似ているんですよ」
「え、先輩? ふふ、優しくてとても素敵な人なんです」
「実は、私がこの世界にトリップしたのは雨の降る秋の日で――その上司と一緒に出かけていて、水たまりに足がはまったと思った瞬間、女神の間にいたんです」
「サマンサさんの隣は、なんだか落ち着きます」
リエ様。
あなたたちと共に旅をした時間は、私にとってかけがえのない時でした。
戦争で夫と娘を亡くし、私もいっそ死んでしまいたい――そう思っていた私に、聖女様の護衛の話が持ち上がった。若い頃に弓騎士として培った能力を活かしてほしいと言われてね。
あなたたちと旅をしていると、寂しい気持ちも和らぎました。
豪快で頼りになるデューク。
口が達者で偉そうだけど、本当は寂しがり屋のユーフェミア。
子ども扱いするな、っていつも怒るけれど、甘えたがりなベン。
いつもは澄ましているのに、リエ様のこととなると本気になるジークベルト。
聖女としていつも前を向いている、リエ様。
旅は、辛いこともたくさんありました。
でも、私は幸せだったのです。
ベンの瞬間移動魔法によって、私は階段の上にはじき飛ばされた。
ベンたちの決意を無駄にするわけにはいかない。
私は唇を噛み、弓を構えて走り出した。
リエ様は走るのが遅いから、二人にはすぐに追いついた。
「ジークベルト、走って! 敵は私が射落とす!」
「サマンサか、頼んだ!」
リエ様と一緒に廊下を走るジークベルトが振り返った。リエ様も振り返り、息も絶え絶えといった様子で私の名を呼ぶ。
「サマンサ……!」
「お行きください、リエ様! ここは私が食い止めます!」
体力自慢のデュークも、回復魔法の使い手のユーフェミアも、天才魔道士のベンも、もういない。
私にできるのは、この身朽ち果てこの弓が折れるまで、リエ様の御身を狙う輩と戦うことのみ。
リエ様とジークベルトがドアをくぐる。私はドアを閉め、扉に背を向けて振り返った。
敵の数は――少なくない。
「弓使いを始末しろ!」
「リエ様を連れ戻すんだ!」
追っ手が叫んでいるけれど……冗談じゃない。
あいつらは、リエ様を王宮に閉じこめて飼い殺すつもりなのだ。
救国の聖女であるリエ様を私たちから引き剥がし、あの下劣な王太子の妃にあてがった。
泣いて嫌がるリエ様を後宮に閉じこめ、私たちを城から追い出しただけでも万死に値するというのに!
「……おまえたちに、リエ様は渡さない!」
私は矢をつがえ、放った。
渡すものか。ここを通すものか!
リエ様が無事に女神の間にたどり着けば、リエ様は女神様の力で元の世界に戻れるはず。
こんな、救国の聖女を蔑ろにするような腐った国になんて居させたくない。
たとえあなたが私たちの世界から消えても、あなたが幸せならそれでいい。
それなのに。
腰の矢筒に手を伸ばした、そこには何もない。
矢が切れた――そのことに気づいた瞬間、私と距離を取っていた追っ手が一気に駆けてくる。
負けるものか、譲るものか!
弓を握りしめ、追っ手の脳天を殴りつける。
一人、倒せた。でも、そこまで。
胸に走る、鋭い痛み。
目の前が真っ赤に染まる。
……ごめんなさい。
もうちょっと、耐えられると思ったのです。
リエ様。
たとえあなたがこの世界から消え、私たちのことを忘れても。
私はあなたのことを思っています。
さようなら、リエ様――
「……雨」
私はコンビニの軒下で頭上を見上げた。真昼だというのに空は曇天で、大粒の雨粒が降り注いでくる。
今日は後輩と一緒に外回りに行ったところだった。私が運転する商用車で向かい、昼食をコンビニで買おうと思ったところ、彼女は取引先に財布を忘れたと真っ青になって駆けていった。まあ、取引先はこのコンビニと通りを挟んで向こう側だから、走ってすぐなんだけどね。
……後輩の名前は、吉崎理絵。
二年前、新人社員としてうちにやってきた彼女を見たとたん、私は卒倒するかと思った。彼女の顔を見て、あまりにたくさんのことを急に思い出したからだ。
そうして、私はいろいろなことを悟った。
理絵ちゃん――リエ様が異世界に渡ったのは、「二十四歳になった秋、雨の降る日に上司とコンビニに行ったとき」だった。
そして彼女は常々口にしていたのだ。「サマンサさんは、私の先輩に似ていますね」と。
そう、そういうことだったのだ。
サマンサと私――仁科紗英が似ていて当然。
私の前世がサマンサなのだから。
彼女が後輩になってから、私はひやひやしながら「その日」を待った。
リエ様の言うことが正しければ、彼女は今年の秋、雨の降る日、先輩と一緒にコンビニに行った際、水たまりに足を嵌めた瞬間に異世界トリップする。
今日は、その全ての条件に一致しているのだ。
そしてその先輩とは、きっと私のこと。
……私が転生する際、女神の声が聞こえたのだ。
『理絵はこの世界で心身共に深い傷を負いました』
心身、の言葉に私の胸が苦しくなった。
リエ様は私たちと引き離されただけでなく、あの畜生のような王太子に手込めにされていたのだという。
後宮に殴り込んで再会したリエ様は、ジークベルトに抱きしめられてわんわん泣いていた。あの二人が恋仲であることに、私たちは皆知っていた。
王太子に奪われるくらいよりずっと、誠実なジークベルトに愛されてあげたかったのに!
『だからこのまま理絵を元の世界に戻すことはできません。記憶を消しても、体の傷を癒しても、心のどこかで暗い凝りが残ります。その凝りはいずれ、理絵の精神を崩壊させるでしょう』
『ですから、この異世界への召喚全てが起こる前に、理絵の状態を戻します』
そう、それはつまり、「記憶を失った」とか「全てを忘れた」とかではない。
元の世界に戻ったリエ様は、「何も知らない」のだ。
だって彼女の身には実際、「何も起きていない」のだから。
それがいい、と私も納得したのを覚えている。
だから、私は何とも言えぬ思いで「その日」を待っていたのだ。
「あっ……仁科先輩!」
明るい声に、顔を上げた。見ると、横断歩道を挟んだ向こうに後輩の姿が。
傘を持っていないから全身びしょぬれで、それでも手に財布を持って笑顔を浮かべている。
「財布、見つかりました!」
「よかったね、理絵ちゃん!」
「はーい!」
信号が青に変わる。
後輩が走ってくる。
ああ、そんなに急いで。足下に大きな水たまりがあるのにも、気づかないで――
――水が、跳ねた。
飛沫の向こうで一瞬だけ、後輩の姿が揺らいだ気がする。
私は瞬きした。
「ぎゃっ!? 水たまりっ!」
どうやら彼女は水たまりの存在に本当に気づいていなかったみたいだ。盛大に水を跳ねたから、元々雨に濡れていた彼女は濡れ鼠状態。
すみません、仁科先輩! と頭を下げる後輩を、私は呆然と見ていた。
ああ、リエ様。
今、あなたは行ってきたのですね。
そして何もなかったように――いえ、実際に何も起こらず、ここにいるのですね。
ハンカチで顔を拭っていた後輩が私を見て、ぎょっと目を見開く。
「せ、先輩! 泣いていますか!?」
「え?」
彼女に指摘されて初めて、私は自分が泣いていたことに気づく。
「……ああ、雨に濡れたのね。泣いているわけじゃないから安心して、理絵ちゃん」
「だったらいいのですが……」
「それより、そんなずぶぬれだったらお店にも入れないわよ?」
「……すみません」
「私の予備の服があるから、着替えなさい」
「……面目ないです」
しゅんとうなだれた後輩を見て、私は何でもない風を装って頬を伝う涙をハンカチで拭った。
あなたが何も知らなくても、私のことを知らなくても。
私はあなたを見守っています。
今度こそ、あなたが幸せになることを祈っています。