魔道士ベンと東翔平
「ベンジャミン。ベンって呼べばいい。ただし、子ども扱いはするなよ」
「分かりました。これからよろしくお願いします、ベン」
そう言って、彼女はにっこりと笑った。
子ども扱いはするなと言ったのに、旅先で菓子を見つけると僕のために買ってくる。
子ども扱いはするなと言ったのに、僕が魔法で守ってあげたら、頭を撫でてくる。
子ども扱いはするなと言ったのに、「私はもう大人だからね」と、寝ずの番をしていてうとうとした僕を寝かせ、自分が代わりに番をする。
子ども扱いはするなと言ったのに、「ベンが無事ならいいんだよ」と、小柄でひ弱な僕の代わりに攻撃を受けて、笑っている。
……そうか、僕は子どもなんだな。
魔道学院では「秀才」「魔道の申し子」とひたすらに持ち上げられ、大人たちに揉まれながら成長した。両親の顔なんて覚えていない。親元から引き離されて魔道学院に引き取られたのは四つかそこらの話だから。
大人の一人として振る舞うのが当たり前だった。
でも、リエ様は僕を子ども扱いする。
……いや、違うな。
リエ様は僕を、「十歳年下」として扱うんだ。
リエ様が守られるべき立場なのに、あの人は。
「ユーフェミア!」
「だめだ、サマンサ! 上がってこい!」
真っ白だった法衣が赤に染まり、その小さな体が階段の下へ転がり落ちていく。
サマンサが駆け戻ろうとするから、僕は上階から必死で呼び止めた。
「ユーフェミアの二の舞になるつもりか!」
「でも、まだ間に合うかも――」
冷静なサマンサらしくもないな、本当に!
ユーフェミアを引きずり落とした追っ手が、サマンサに襲いかかる。彼女は弓手をだらんと垂らしていて、戦闘できる場合じゃなくなっている。
サマンサは、リエ様やユーフェミアのことを妹のように慈しんでいた。早くに旦那と娘を亡くしたと言っていたから、よけいに可愛がったんだろう。
でも、だからといってサマンサまでここで死ぬわけにはいかない!
僕たちにはするべきことがあるんだ!
僕はとっさに、魔法を詠唱した。今まで使ったことがない、書物の知識だけしかない魔法。
でも、失敗は許されない。
その瞬間――階段の上にいたはずの僕は、階段の半ばまで移動していた。きゃっ、と上方から声がする。
今さっきまで僕がいた場所にサマンサがいて、驚愕の表情で僕を見下ろしていた。
……よし、うまくいったみたいだ。
「ベン!?」
「サマンサ、行け! ユーフェミアのことが悔やまれるなら、僕たちの代わりにリエ様を助けに行くんだ!」
サマンサは目がいいし、遠くの敵も正確に射抜ける。
今頃リエ様とジークベルトは女神の間に向かって走っているだろう。あそこは魔法が使えない場所が多いから、僕よりもサマンサの方が役に立つ。
サマンサがぐっと唇を噛み、身を翻した。
うん、それでいい。
にわかに、僕の体がぐいっと後方に引っ張られた。
ああ、もう追いつかれちゃったか。
ねえ、リエ様。
僕はさんざんあなたに対して、「子ども扱いはするな」って言ったよね。
でもね、本当はすごく嬉しかったんだ。
ねえ、知っている?
今も僕のローブのポケットに、あなたにもらった菓子の包み紙が入っているんだ。
オリヅルだっけ? 僕のために折ってくれたけど、僕は素直じゃないから投げ捨てちゃったんだよね。
あのときは、泣かせてごめん。
ちゃんと拾って、旅の間ずっと持っていたからね。
もし、もう一度あなたに会えるなら。
今度はちゃんと、うまく甘えるからね。
それに、あなたに頼りにしてもらえるような男になるから……。
もう一度、僕を見つけてね?
「翔平、203号室の大学生の子にこれを持っていってよ」
部屋で宿題をしていると、ノックもなしに入ってきた母親に言われた。その手には、母がさっき焼き上げたパンが入っている。
……なんだよ、僕のために焼いたのかと思いきや、別人用だったのか。
「はー? 面倒だからいやだ」
「あんた暇でしょ。それに先週来たばかりの203号室の子に一度も会ってないじゃない」
「会わなくて済むならそれでいいじゃん」
「少なくともその子が卒業するまではうちのアパートで暮らすのよ。ちったぁ愛想よくしなさい」
「あー、はいはい」
僕は重い腰を上げて、母からパンの入った袋を受け取った。……途中で一個食べてやろう。
「つまみ食いするんじゃないよ」
「……ちえっ」
母に睨まれつつ、僕は203号室へ向かう。
僕の母は、このアパートを経営している。近辺に大学が三つあり、会社も多い。そのため六つある部屋はたいてい満室だ。そして春になると住む人の顔ぶれも変わってくる。
203号室にはちょっと前まで大学院生が住んでいたけれど、都会で就職するってので出ていった。
……あのお兄さんによく遊んでもらったから、なんとなく新しい203号室の住人と顔を合わせたくなかったんだよなあ。
留守だといいな、と思いつつ呼び鈴を鳴らす。でもすぐに、「はーい?」と若い女の人の声がした。
あー、会わないといけないな。
「東翔平です。母さんからパンを預かってます」
「翔平君? ……ああ、大家さんの所のね。今開けまーす」
間もなく、ドアが開いた。
「初めまして、翔平君。私、吉崎理絵です」
そう言って笑うのは、スウェット姿の女の人。
瞬間、僕は思い出した。
僕に飴をくれたあなた。
僕の頭を撫でたあなた。
僕の代わりに攻撃をうけたあなた。
あなたは、あなたは――
つっと、頬が温かくなる。ああ、僕、泣いているんだ。
あなたはぎょっとして目を見開く。それもそうだろう。
初対面の小学生が目の前で泣きだすんだからな。
「翔平君!? 大丈夫!?」
「っ……う、うん。ごめんなさい、リエ様」
「へ?」
「あ、ううん。何でもない」
きょとんとした顔は、僕の記憶にあるのよりも少しだけ幼い気がする。
ああ、そうか。
あなたは僕より十歳年上だと言っていた。
当時のあなたは、「二十四歳のおーえる」と言っていた。
まだなんだね。
まだ、「その時」は来ていないんだね。
僕は服の袖で目元を拭って、母に持たされたパンの袋を差し出す。
「これ、うちの母さんが焼いたパンです。理絵さんにって」
「そうなの? ありがとう! おいしそうだなぁ」
あなたは笑ってパンの袋を受け取る。とたん、僕のお腹がぎゅーっと鳴った。
食べる子は育つ。僕は悪くない。
あなたはくすくす笑って、部屋の中を手で示した。
「お遣いありがとう。せっかくだから、お母さんの焼いたパンをうちで食べない? ジュースもあるよ」
「……はい。ありがとうございます」
僕は欲望に忠実なお腹を撫でて、あなたについて部屋に上がった。
ねえ、あなたはまだ僕を子ども扱いするかな?
今の僕は小学生で、力もないし、前世みたいな魔力も持っていないものね。
でも、いつか強くなるから。
その頃には、あなたはこのアパートを出て行ってしまうかもしれない。
でも、少なくとも――あなたが「あの日」を迎える時までは、同じアパートで暮らしていきたいな。
ねえ、リエ様。
これからも……よろしくね。