曖昧な心地よさ
「……はい。えっと、洋介さんもお体には気を付けてくださいね。……はい、ではおやすみなさい」
スマートフォンの「通話終了」ボタンを押し、理絵ははーっと大きなため息と共にベッドに倒れ込んだ。
「……疲れた」
天井を見上げて、先ほどの二十分間程度の通話の感想を述べる。
疲れた、といっても、電話をするのが嫌なわけではない。
嫌ではないのだが――ものすごく体力を消耗するのだ。
「……洋介さん」
ベッドに大の字に倒れ込んだ理絵は、ぽつんと呟いた。
設楽洋介。
二月ほど前に、青色コンビニで出会った青年。
いったいどういう理由なのか、ただ「もちっと大福」が縁で出会った洋介は、理絵のことが気に入ったようなのだ。この二月で三回デートに誘われ、カフェでお茶したり水族館に行ったり美術館に行ったりしていた。
洋介は非常に物腰が優しく、しがないOLの理絵に対して丁寧に接してくる。彼のデートプランは充実していて毎回楽しいし、どういうことなのか彼は理絵の好みをよく理解しているのだ。
「……なんで私なんだろう?」
唇からこぼれ落ちたのは、もう何度思ったか分からない疑問。
どうして洋介は、これほどまで理絵を大切に扱うのだろうか。
我ながら、洋介に好かれるようなことをした覚えはない。むしろ、毎週金曜日に大福のためだけに青色コンビニに突撃する変人だと認識されてもおかしくないくらいだろう。
容姿端麗で優しく、一流企業に勤める洋介。
平々凡々なOLで、二百十六円の大福に固執する自分。
「……わけ分からん」
洋介と並んで歩く自分の姿は、きっとひどく滑稽だろう。彼には理絵よりむしろ、仁科先輩のような大人の魅力あふれた女性の方がぴったりなのではないだろうか。
ぼんやりしていた理絵だが、インターホンの軽やかな音に我に返った。
「理絵さん? 僕だよ、翔平」
「ん? 翔平君?」
ドアの向こうから聞こえるくぐもった声に、理絵は体を起こした。翔平といえば、大家の息子だ。
スウェット一枚姿だったので椅子の背もたれに掛けていたカーディガンを適当に羽織り、理絵はチェーンの掛けられたドアを薄く開けた。
時刻は夜の八時頃。真っ白なウインドブレーカーを着た翔平がドアの前にぽつねんと立っている。
「こんばんは、翔平君。今日は塾ないの?」
「今週末にバスケの試合で、部活動時間延長して練習してたんだ。だから今日の塾はない」
今年の秋に先輩たちが引退したからね、と翔平は少しだけ得意げに語る。後輩を率いる先輩になって誇らしい気持ちなのだろう。
彼は右手に持っていたビニール袋をずいっと理絵に差し出してきた。
「これ、母さんから。ばあちゃんちからみかんが届いたから、お裾分けって。みかん好きでしょ」
「うん、ありがとう。……私がみかん好きって、翔平君に言ったっけ?」
「……うん、ずっと前に教えてくれたよ」
なぜか少しだけ寂しそうに笑った後、翔平は「そういえば」と顔を上げた。
「母さんが、タッパーがどうのこうの言ってたよ」
「……ああ、一昨日ひじきの煮物を分けてもらったときのね。あ、まだ冷蔵庫にあるんだ……」
「急がなくてもいいけど、今日のおかずもまた分けたいから、返してくれたら嬉しいだってさ」
「あー、大家さんにはほんっとうにいろいろもらってばかりなのよ! 今度私からもお礼を言っておくわ。……タッパー、すぐに洗うから中に入って待っててくれる?」
「……うん」
翔平は素直に頷き、「お邪魔します」と言って入ってきた。玄関で靴を脱いだが、身長の割に靴は大きい。隣に並んだ理絵のスニーカーより一回り大きそうだ。
翔平をキッチンに通し、冷蔵庫に入れていた煮物入りタッパーを取り出す。残っている分は今日の夕食に食べようと思っていたので、皿に出せばいいだろう。
「翔平君、バスケはどんな感じ?」
「上々。聞いてよ、この前試合用のゼッケンが配られたんだけど、やっと僕も番号をもらえたんだ」
煮物をタッパーから皿に移しつつ問うと、翔平は機嫌よさそうに答えてくれた。理絵はバスケットボールの知識なんてなかったのだが、翔平の話を聞くうちにだいたいのルールを学ぶようになった。
大人びた態度を取ることの多い翔平だが、勉強やバスケットボールのこととなると目を輝かせて語ってくれるのだ。
「番号? ……ああ、四番がキャプテンで、番号が若いほどいいんだっけ?」
「そう。試合に出られるのは基本的に八番までで、僕は十番だった。ベンチ入りはできるんだよ。うちのバスケ部の二年は二十人くらいいるんだけど、僕の身長じゃベンチ入りは無理だってさんざんからかわれていたんだ。でも十番! 交代が入れば、僕も出られるんだよ!」
「それはすごいね。確かにバスケって身長が高い方が有利って言われるからね」
「身長はどうしようもないけど、足が速い方なんだ。一年にすっごいゴリラみたいな奴がいるんだけどさぁ……」
翔平は楽しそうに部活動の様子を語っている。
タッパーを洗って布巾で拭いていた理絵は、ついくすっと笑ってしまった。
「……どうしたの、理絵さん」
「あ、いやいや。翔平君って、バスケとかのことになると年相応になるなぁって思って」
「それ、どういうこと?」
「うーん……翔平君って普段、結構大人びているからね。しっかりしているし、頭もいいんでしょう? でも、そうやって好きなことについて語っているときは笑顔が可愛いと思って」
「……子ども扱いは、やめてよ」
ぶすっとして言った後、ふと翔平は息を呑んで目線を逸らしてしまった。
理絵はそんな翔平の様子を見つつ、きれいに拭いたタッパーを紙袋に入れてテーブルに置いた。
「……はい、それじゃあこれを大家さんに渡してもらってもいい?」
「……あ、うん。……あのさ、理絵さん」
「うん」
「……彼氏、できた?」
「……うん?」
シンクに向かっていた理絵はぐるりと振り返り、真剣な眼差しの翔平をまじまじと見つめた。
「……なんで?」
「いや、なんとなく」
「……いや、彼氏は……いない……と思う……」
「思う?」
歯切れ悪い理絵を翔平はうろんな眼差しで見てくるが、どうしようもない。
洋介と、三回デートした。
頻繁に電話をしているし、トークアプリでのやり取りはほぼ毎日だ。
……だが。
「……えーっとね、気になっている人はいるの。でも、彼氏ってわけじゃないのよ」
「はぁ? あいつ告ってないわけ!? ……ごめん、理絵さん。今のなし」
「う、うん? ……まあ、大人の事情ってやつよ」
「でも、そういう曖昧な関係ってよくないと思うよ」
「いいのよ。むしろ、私としてはこれくらいがちょうどいいとも思っているから」
翔平が何か言いたそうな眼差しをするので、理絵はくすっと笑って手を振る。
「確かに曖昧な関係なのかもしれないけれど、まあ、その、今の私にはこれくらいのスピードがちょうどいいかな、とも思うの。正直、どうして私をデートに誘ってくれるのかな、ってまだまだ不安なところもあるからね」
「女の人を不安にさせるような男じゃだめじゃないか」
「あはは、ありがとう。翔平君の言うとおりでもあるんだよね。どうして、って思うところをはっきりしてもらいたいような……でもそれはそれで不安なような」
「女の人の心はとても繊細で複雑なんだね」
「そういうこと。翔平君も心しておくのよ」
「分かった」
話をしてある程度翔平もすっきりしたのだろう。彼は紙袋を手に席を立ってウインドブレーカーのチャックを喉の下まで上げた。
「それじゃ、僕は帰るよ。ちょっとトークアプリしたいんだ」
「お友達? 分かった、それじゃあ大家さんによろしくね」
「うん。またね、理絵さん」
少し忙しそうに翔平が立ち去っていく。彼がいなくなったキッチンは一気に静かになり、理絵は濡れた布巾を絞って物干しに吊した。
「……愚痴っぽくなっちゃったかな」
中学生の健全なる育成にはふさわしくなかったかもしれない、と理絵は苦笑して椅子に座った。
「……洋介さん、次はいつ会えるかな」
曖昧な関係、と翔平は言った。
はっきりしてほしいこともある、と理絵は答えた。
でも、こんな曖昧な関係のまま時が流れてほしい――そう思ってしまう自分もいる。
「……わけ分からん」
そう呟く理絵の口元は、笑みをかたどっていた。